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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 焼いた川魚と大根の味噌汁で晩飯を済ませた薬売りと女は、することもないので寝ることにした。


 元々、旅ゆく者の最後の命綱ともいえる善根宿である。


 布団などの備品はない。


 行き倒れを減らしたいと願う気持ちがいつの間にか形になった一夜限りの宿であるから、食料などはそれなりに備えてあったが、それ以外の物は見事というほどに何も無かった。


 行灯さえない。


 もちろん、火が出て辺りを焼け野原に変えることが恐ろしいのは言うまでも無かったが、実は食うに困った不心得者が備品を奪って勝手に売り飛ばすということが結構あったのも事実である。


 仏様に備える酒や米を盗むのはさすがに気が咎めても、立ったままのお姿でこの世に現れた仏様に布団や行灯といったものは不要だろうと、勝手な解釈で持って行ってしまう者の仕業が後を絶たなかった結果、こうなった。


 本堂などと呼べるほどのものではないにしろ、小さな薬師堂の木の床に直接身を横たえてみると、昼間歩いた疲れで眠れそうに思った女だったが、やはり体が冷える。


 おまけに枕になるような箱ものが何もないので、仕方なく手を頭の下に潜り込ませて手枕にした。


 武家のお女中のような島田髷を結っているわけではないが、やはり女の髪は纏めて何かの笄一本であろうともそれを使って形を作ってあるので寝崩れるさせるわけにもいかない。


 ましてや、鼻を抓まれても分からないほどの真っ暗闇である。


 鏡など有ろうはずもない。


 鬢付け油の持ち合わせも無い。


 結局、明日の朝旅の続きを歩くためには髪を崩せなかった。


 悶々として寝たか覚めたか分からない女に、薬売りが声を掛けた。


「眠れないで困ってそうだな。」


「笑ってんじゃないよ。あたしゃ枕が変わると寝れない質なのさ。」


「枕もねぇのによく言うぜ。」


「放っといておくれ。」


「ところで、お前ぇ、名は何というんだ?」


「あたいかい。あたしゃ美祢っていうのさ。親から貰ったもんか、村長むらおさが付けたもんか知らないけどさ。」


「美祢か、器量良しにゃ似合いの名だな。」


 そう言った薬売りは、少しの間黙っていたが、やがて決心が付いたように口を開いた。


「おいらは勘次郎ってぇのさ。皆は勘の字って呼びやがる。」


「で、その勘の字はどこの在所の生まれだね?」


「おいらか。おいら、生まれは越中だ」


「へぇ、そりゃまた雪深い処の田舎者だね。」


「へっ、信濃の在所の尼に言われたかねぇな。」


「そりゃお互い様ってもんだよ。」


 その後どちらからともなく寝息が聞こえ始めるまで、美祢と勘次郎の語りは続いた。











 翌朝、夕餉の残りの味噌汁を温め直して冷や飯と一緒に掻き込んで朝飯を終えた二人は、飯の残りを握って竹の皮に包み、焼いたうぐいを串に刺したまま勘次郎の桑折に差して歩き始めた。


 勘次郎が見るともなく見ていると、美祢は釜や鍋の後始末から立てかけてあった古竹の皮を剥ぐ手際まで、ひと続きの舞を舞うような所作で熟していった。


 それはとても枕探しを生業とする性悪女の出来ることではなく、しっかりと躾けられた経験があることを言葉ではなく態度が物語っていた。


 最後に備え付けの古箒でお堂の床をサっとひと掃きしてから戸を閉め、振り返ってお堂の外からぺこりと頭を下げて薬師如来に挨拶する姿は、勘次郎にいい女だと思わせるに十分な立ち居振る舞いだった。


 昨日とは別人のように違う美祢の雰囲気に、不思議に思った勘次郎がそれとなく尋ねてみると、


「あたしゃもう勘次郎の女房さ。亭主に恥をかかせるわけにゃいかないからさ、一通りのことぐらい出来るんだって処を見せただけだよ。」


「ははは、おいらの女房か。そりゃ無理だな。第一おいらにゃまともな稼ぎがねぇ」


「あんたさぁ、昨夜の一夜の契りを何だと思ってるんだい。」


「おいおい、人聞きの悪いことを言ってんじゃねぇぞ。お前にゃ指一本触れてもいないだろうが。」


「あぁ、あんたにゃ女の気持ちってのが分かってないねぇ。この男と所帯を持つって決めたらさ、女はそれだけで男の面子を立てるもんなんだよ。」


「なんだよそりゃ・・・。まだ床入りもしてねぇってのに、女房連れかい、おいら。」


「そういうことさ。幾久しく愛でて下さりませ、勘次郎様。」


「芝居がかった声なんぞ出すんじゃねぇや。」


 松井田の宿から中山道へ入り、次の安中宿までは僅か三十丁である。


 この間一里に満たない。


 それは、安中宿を抜けたすぐ先に横川の関所が設けられている為であった。


 東海道を行く旅人にとっての箱根の関所と同じく、横川の関所でも『入り鉄砲に出女』が厳しく取り締まられていた。


 その厳しさは箱根と何ら変わりはなくそこを通過するに際しては、大大名ならいざ知らず、一万石に毛が生えた程度の外様大名はかなりの緊張を強いられたという。






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