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幻記 ―越中秘儀始末―  作者: 炎 立見
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 美祢が全身を使って訴えることに、勘次郎はこれまで気付かなかった美祢が抱える恐怖の一面を見た思いがした。そして、昨夜泣かせてしまったことを心から詫びて、併せてもう決して怖い思いをさせないようにすることを、密かに薬師如来を筆頭に日光月光両菩薩や四天王、十二神将にまで誓った。

 震えて眠る美祢を抱きしめたまま一睡もせずに朝を迎えた勘次郎は、美祢に分かるか否かは考えず、自分が知る限りのことを伝えて女房に、お前の守りはおいらだけじゃないんだと教えたいと願った。

 朝の起き抜けから仏様の話である。それがしかも、坊様でもない薬売りの亭主が語ることだ。美祢にとっては辛気臭くて迷惑だと嫌がるかと思っていたところが、美弥が日頃から目にしている、亭主の到底当たり前とは言い難い通力の大きさと、勘次郎に後ろから包み込まれるが如く、絵解きのような本を読み聞かせされると、まるでこれまでそうされることを待っていたかのように素直に理解していった。その様子は、今は昔の物語で言う所の『瓶の水を移すが如し』という様であった。


 さて、まずは何を措いても薬師如来様だな。

 この世にはそりゃあもういろんな仏様がいらっしゃるんだけどよ、その中で何よりも病や傷を癒すこととか薬のことに特に秀でた仏様でいらっしゃってな、しかも阿弥陀如来様の西方極楽浄土に対して、東方にお浄土まで開いていらっしゃるってぇ寸法だ。  

そのお浄土の名前を浄瑠璃浄土と言ってな、そこで研鑽修行なさった方々の中の筆頭、番頭格に日光月光という両菩薩様がいらっしゃるんだ。そして、この日光月光の両菩薩様の下に四天王という力の強い神様がいらっしゃって、この世を守っていらっしゃるって訳だ。

 まず、薬師如来のおいでになる所の東を守るのが持国天さまだ。そして、南を守るのが増長天さまでな。更に西を守るのが広目天さまで、おまけに北を守るのが多聞天さまだ。

 そんでもってそのいで立ちってのが凄くてよ、東を守っていらっしゃる持国天さまは剣をお持ちになったうえに、邪鬼という恐ろしい鬼を両足で踏みつけたお姿でこの世に顕現される訳だ。

 それだけじゃねぇぞ。南をお守りになる増長天さまは戟という槍のようなものを持ちになったうえに、邪鬼という恐ろしい鬼を両足で踏みつけたお姿でこの世に顕現される。

 これで終わりじゃねぇぞ。西をお守りの広目天さまは筆と巻物をお持ちになっていらっしゃるってぇのに、こちらのお方も邪鬼という恐ろしい鬼を両足で踏みつけたお姿でこの世に顕現していらっしゃる。

 そんでもってこれでようやく最後だ。最後に北をお守りになる多聞天さまは宝塔をお持ちになったうえで、邪鬼という恐ろしい鬼を両足で踏みつけたお姿でこの世に顕現なされる。

 但しだ。但しこの四柱の神様方の中では、北をお守りになっておいでになる多聞天様が最も強いお力をお持ちになっていらっしゃっててな。お一柱だけでこの世に顕現されるときは、特に毘沙門天さまとお呼びすることがある。毘沙門天さまのお名前ぐらいは、お前も聞いたことがあるだろう。お強い神様だからあっちでもこっちでも頼りにされることが多くて、お忙しいなんてもんじゃねぇそうだぞ。

 だからって訳でもねぇんだろうけどよ、四天王の神様方の下には、十二神将というこれまた強い神様方が十二柱もいらっしゃってな、皆さまで水も漏らさぬ備えをしていらっしゃるってぇ寸法だ。

まずは、の方角を守護していらっしゃる毘羯羅大将くびらだいしょう、丑の方角を守護していらっしゃる招杜羅大将しょうとらだいしょう、寅の方角を守護していらっしゃる真達羅大将しんだらだいしょう、次に卯の方角を守護していらっしゃる摩虎羅大将まこらだいしょう、辰の方角を守護していらっしゃる波夷羅大将はいらだいしょう、巳の方角を守護していらっしゃる因陀羅大将いんだらだいしょう、そして午の方角を守護していらっしゃる珊底羅大将さんてらだいしょう、羊の方角を守護していらっしゃる頞儞羅大将あにらだいしょう、申の方角を守護していらっしゃる安底羅大将あんてらだいしょう、更に酉の方角を守護していらっしゃる迷企羅大将めきらだいしょう、戌の方角を守護していらっしゃる伐折羅大将ばさらだいしょう、亥の方角を守護していらっしゃる宮毘羅大将くびらだいしょうときたもんだ。

 その上この十二柱の神様方には、それぞれ七千というとんでもない数の眷族がいらっしゃってな、皆様方全員で八万四千柱という数えるのも嫌になるほどの軍勢で、薬師如来様と如来様をいただく信者のことを守っていらっしゃるんだ。

 でもな、こんな凄い数の神様方であろうとも、人の数はもっともっと多いや。

だから上手の手から水が漏れるという例えの通り、もしかしたらお守りいただけない時があるかも知れねぇって訳だ。

 そんなこと言われたってどうすりゃいいんだよ、ってぇ話だな。

 だからだ。

 だからその、もしかしたらってのを無くすために、人はお経を読んだり真言を唱えたりする訳だ。

 ここまでは分かるな。

 そう勘次郎念を押されて、美祢はコクリと頷いた。

 

「だからな。おいら、もうお前ぇのこと、泣かしたくねぇんだ。泣いてほしくねぇんだよ」

「うん・・・」

「だからな。本当は可縁僧都さまに願ってお経か真言を授かるのが良いんだろうけどよ、おいらみてぇな半端者の女房になっちまったせいで、そんな贅沢も言えねぇんだ」

「うん・・・」

「だから、おいらが知ってる薬師如来様の真言をお前ぇに教えてやるから、しっかり覚えていつでもどんな時でも唱えるようにしな」

「うん・・・」

「そうすりゃ、おいらよりも力が育つのが早いお前ぇの事だから、きっと薬師如来様がお守り下さる」

「わかった」


 美祢がそう了承したことで、勘次郎は美祢と向かい合って薬師如来真言を伝えようとしたのだが、これを美祢がヒドく嫌がった。どうしたいのかあれこれ聞いた挙句、そのまま美祢が勘次郎に後ろから抱きすくめられるような恰好で教えて欲しいと言い出した。

 そんな教授法など聞いたことがないとは思ったが、各地を巡って富山の薬を売り歩き、薬師如来の功徳を広めている間には、随分とややこしい仏様か神様が居るもんだと笑ったことを思い出した。

 それは、大和の国から河内の国へ抜ける街道の一つに生駒山を通るところがあって、その近辺では象の頭を持った神様が二柱、夫婦になって抱き合っている姿が秘仏として祭られていた。その寺の住職が言うことには、真言密教の秘法の中にあって特に厳重に秘された教えがあるのだが、その奥義が男女の和合だといって憚らない。そんなことがあるものかと半ば莫迦にしていたところが、今の自分と美祢の関係を考えれば一概にそれを否定しきれない愚かしさがあった。

 そして今、美祢の苦境を救うためならばと考えて、それを望んで両者がこれを許容するなら、あの生駒山の秘仏を決して笑い飛ばせないと思い至った。

 いつぞや、弘法大師のゆかりの山へ売薬に赴いた際も、その地の真言密教の寺の住職に

 『悟りの形は千差万別である』

と教えられたこともあって、とにかく相手に伝えることを本義と考えるなら、その手段はあくまでも手段に過ぎないものだから、どんな形にせよ相手に正しく伝え切ることを第一義として、美祢の要求を受け入れたのであった。

 美祢が望むまま、後ろから抱きすくめるような恰好で両の掌を合わせ、

 『薬師如来様を心に思い浮かべて、これまでお前ぇがお救いいただいたことに感謝の気持ちを込めて、おいらの言う通りに繰り返すんだぜ』

と言ってから、薬師如来真言の小咒を一度唱えた

「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」

 すると、間髪を入れずに美祢の唱える小咒が聞こえて来た。

「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」

 それは初めて唱えたことを考えれば全くの淀みがない小咒であり、十分な出来であった。

「それを唱えていて、何か感じることがあれば教えてくんな。今んところ、すぐに次に進むのはちぃとばかり荷が重い」

「あいよ。じゃ、これを朝昼晩に限らず、どんな時でも思い付いたら唱えればいいんだね」

「ま、そういうこった。そう言う事なんだけどな、この真言ってぇのはよ、自分が勝手に唱えてるように見えて、実は薬師如来様との間にえにしをいただいた時に、如来様の方からのお働きで唱えさせていただけるありがたいものなんだ、ってことを忘れないでくんな。だからよ、徒や疎かに、してや適当に唱えていいものじゃねぇ。唱える時はいつも、薬師如来様をどこかに感じて唱えさせていただくんだって気持ちを持ってるんだぜ。それだけは絶対に何があっても忘れちゃなんねぇことなんだよ」

「なるほどねぇ。おまえさんの言うことを聞いてて分かったんだけどさ、おまえさんの唱えるこの真言にはとんでもない力を感じるんだよ。あたいがどんなに心ぉ込めて、薬師如来様を思い描いて、ご恩に縋って唱えさせていただいていても、まるっきり舞台が違うって言うかさ」

「そりゃ、お前ぇ、おいらが初めてこの真言を唱えさせていただいた時もおんなじことを感じたぜ。おいらの時は越中の大薬寺だいやくじって寺で、ご住職の択然僧正たくねんそうじょうってお方にいただいたえにしだったんだけどよ。そりゃもう、あん時ゃ目の前がいきなりぱーっと明るくなってよ、何が起こったんだと大騒ぎしたもんだ」


 これはその後、大薬寺の住職択然僧正と高野山の大阿闍梨である越念おつねんが茶飲み話にした話が伝わって、大薬寺の全国の末寺でも殊に知られたことだが、

 『あれは今でも拙僧が闇を晴らしたと言うておるがの、拙僧がしたことは薬師如来様との縁を繋いだだけじゃ。闇を払うたのも邪鬼を調伏して回ったのも、みんなあやつが自分でしたことじゃ。真言一回唱えるだけでのぅ』

 『なんともはや、末恐ろしい者じゃの。わしがどうしても下せなんだ闇の眷族を真言一回で払うてしまいよったのには肝が冷えたもんじゃわい。前田の殿様の頼みと、わしがたまたま行脚で訪うたのが縁じゃったか。あれも、その時あの者がその場に居ってくれたから、わしは今でもこうして般若湯を酌み交わせるのじゃわい。わしの法力なんぞ、邪鬼の衣を一揺らしもさせられなんだでのぅ』

 この二人の話は前にも挙がったことがあるが、表向きの仏法では調伏出来ぬ妖を消し飛ばすことを生業とする高野山の阿闍梨達と、真言を唱える僧達の交流の場で出た話としては出色のもので、薬師如来真言を授かったその日のうちに越中第一の豪壮な寺と呼ばれ、日本全国を回る売薬の総元締めとしてその上りも想像を超えるほど。そのせいで様々な念が渦巻き、それが妖を呼び怨霊までが姿を見せるという負の連鎖が絡み合う。戦国期の戦を経て来た古刹ではどこでもがそういう状況なのだが、大薬寺に預けられた少年は持って生まれた通力の桁が、裏の仕事を生業とする大寺院の役僧たちと比べて三つも四つも違っていた。


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