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「だから、待てっつってんじゃねぇか。僧都様の文にゃこう書いてあるんだ。今宵一夜の塒にするも良し、気に入れば住み続けるも良し。店賃は勘次郎の日頃の行いに免じて五百文でよい、ってな」
「へっ」
「はぁ」
「二人して屁ぇこいてんじゃねぇんだから、しっかりしろぃ。取り敢えず今晩はここに泊まってきな。気に入りゃ明日からはおいらの店子ってことだ」
「へぇ」
「はぃ」
「まだ言ってやがる。この四畳半の布団箪笥に要り用なものは入ってらぁ。食い物までは用意がねぇが、明日の朝に答えを聞かせてくんな」
そう言って、差配の男は帰っていった。
「ねぇ、お前さん」
「なんだよ」
「ここに泊まっていいんならさ、ひとっ走り今晩の食べ物買ってきてくんないかぃ。あたいじゃきっと迷子になっちまうよ」
「お、おぅ。判った。すぐ戻ってくるからよ、おめぇは井戸から水でも汲んでな」
そう言って勘次郎は飛び出していった。
「とは言うものの、もう暮れ六つも近いからねぇ。あの人に走って貰ったはいいけど、店なんて開いてんのかねぇ」
美祢の言うことは誠に道理に叶ったことで、暮れ六つと言えば人はもう外を歩きたがらない刻限である。
やがて暗くなるこんな時に、屋台など開いてはいないだろう。
かといって、手元には米粒一つ、醤油一匙もないのだから勘次郎が手ぶらで帰ってきたら今晩は飯抜きである。
空きっ腹を抱えて二人で丸まって寝るしかないのだ。
「あぁ、折角一夜の宿が見つかったってのにさ。ついてないねぇ」
とはいえ、愚痴ばかり言っていても仕方が無いと思った美祢は、勘次郎に言われたとおり奥の土間から外へ出て井戸を探した。
幸い、井戸はすぐに見つかったが、それは江戸府内の各長屋にある水道ではなく掘り抜きの井戸であった。
美祢は知らないことだったが、江戸の町にある井戸というのは地下に樋を通して上水から流れてくる水を各地に分配している上水道なのだ。
その規模は当時で世界最大の長さを誇っていたし、流域に住む人口も桁外れの多さだった。
信州の山育ちの美祢にとって井戸とは掘り抜きの井戸であり、場所が悪ければどんなに深く掘っても水は一滴も湧いてこないものだった。
しかしながら、江戸に上水道の井戸が普及したのには訳があった。江戸の町のほとんどが埋め立て地であったため、どんなに深く掘ったところで、湧いてくるのは塩混じりの水であった為に、とても飲めたものではなかったのだ。
しかし、割長屋の建っているここに掘り抜きの井戸があるということは、越中の国の古刹大薬寺が江戸に末寺を建てるにあたって土地を吟味したところ、深川の地に埋め立て前からあった小高い場所を見つけたということなのだろう。
本所や深川と言った大川の東側には水道などと言う洒落たものはなかったが、小さな河川が入り組んだ水郷地帯でもあった関係で、澄んだ清水には事欠かなかったうえに、開幕当初から暫くは江戸の町奉行所の支配を受けることもなく、深川に独自の奉行がいて、江戸とは別に独自の街名主もいた関係で、江戸府内とはどこか違ったのんびりとした雰囲気を醸成していたのだ。
釣瓶を落として汲み上げた水を手桶に移し、何度も三和土の間の水瓶に運んだ美祢は、別に手桶に汲んだ水を盥に移し、本当にササっとだけ箒を掛けて水拭きをした。
何年も人が住んでいなかったのは見てすぐ分かったのだが、それだけに埃を掃き出した後に固く絞った雑巾で仕上げをすれば見違えるようだった。
そうしてごく簡単に掃除をしていると、先ほど帰って行った差配の男が、行灯と小さい有明行灯、それに油と炭と火種の入った七輪を持って来てくれた。
「お前ぇさん達はホントに何も持たずに、着の身着のままで訪ねて来たからな」
そう言って笑いながら必需品を貸してくれるとは、本当にいい人なのだと美祢は思ったが、それなりに長屋の差配などをしていると、勘次郎と美祢のような訳有りの店子を迎え入れることも無くはないことだった。
だから、着替えの一つも持たずに長屋を探しに来る者達が、その日その時から何が必要かということを経験から身に着けただけのことだったりするわけだ。
「それじゃ、くれぐれも火の元だけには気をつけてな」
そう言って帰って行ったのと、勘次郎が何がしかの食べ物を持って帰って来たのは、本当に入れ違いのような時合だった。
「お帰りな、おまえさん。今まで掃除をしててまだ湯の一つも沸かしてないんだよ。あぁ、それと、この七輪やら行灯や炭に油や火種を差配さんが持って来てくれてね。今度会ったらおまえさんからも礼を言っといておくれな」
「おっと、そうだったな。おいら達は何も持たずに来たんだったな。本当に世話になりっぱなしだぜ、僧都さまにも差配の旦那にも」
今晩は盛大に煮炊きをする訳でもないので、借りた七輪に炭を足して湯を沸かし、茶の葉もないので白湯を用意した。
勘次郎は深川の岡場所近くの盛り場に出ていた屋台からそのまま食べられるてんぷらやウナギの串、芋や豆腐の煮売りを経木の舟に放り込み、握り飯も買って帰って来ていた。
「おまえさん、こりゃなんて贅沢な晩ご飯だい。こんなの買ってた日にゃいくら稼いでも間に合わなくなるよ」
「はははは、お前ぇにはそう見えるだろうな。おいらも初めて見た時は腰を抜かしそうになったもんだぜ」
「えっ、じゃぁ違うのかい。何かカラクリでもあるのかね」
「まぁ、心配するなってことよ。この経木の舟に盛ってある芋や豆腐だがな、どれも一つ四文だよ。鰻はちょっとばかり贅沢で、串一本十二文だけどな」
「ほ、ホントかいおまえさん。そしたらこれだけあっても六十六文だってのかい」
「そういうこった。江戸ってところは人が多いことにかけちゃ並ぶもんがねぇや。だからみんな口が肥えてるし値段が高いと誰も買わねぇからな。それでこんなもんでもおいら達の口に入るって寸法だ」
「へぇ~。信濃の在所じゃ考えられないねぇ」
そうやって二人分にしては些か豪勢な晩飯を食いながら、まったりとしていた時だった。
「今日はもう、日が暮れちまったから湯屋には行けねぇが、明日は起きたらそのまま朝湯へ行ってみるか」
「朝湯なんて贅沢なことが出来るのかい、お江戸ってところはさ」
「おうよ。どうせ朝から湯を沸かさなきゃ、大勢来る時分に間に合わねぇんだから。そのおこぼれに与ろうってわけさ」
「いいねぇ」
感に堪えないような声を出して美祢が感心した時だった。
「やっぱり、おいら達みてぇなのがこういう所に住むとなると、近寄ってくるヤツも居るんだよな」
「えぇ、何言ってんだいおまえさん」
「ほら、お前ぇも気が付いてるんだろ」
「もぉ~。気が付かないふりしてりゃ何処かへ行くかと思ってたのにさ」
「そんな訳ねぇだろ。寂しくて出てくるんだぜ、こいつらはよ」
「でもさ、ここの墓石の主さま達はちゃんと供養されてたじゃないか」
「そうなんだがな。こういう土地には墓もあれば寺もあってな、成仏していく仏さまたちが羨ましくてならねぇってのが集まって来るのさ」
「なんだいそれは。そんなの死ぬまでにやらかした自分の業じゃないか。そんなのにまで構ってられないよ」
「まぁ、普通はな。けど、ここはお寺の敷地の中だからな。藁にも縋りたいヤツが寄って来て、おいら達みたいなのを見つけると騒ぎ出すのさ」
「じゃ、こんなに騒がしいのに気が付かない人も居るってぇのかい?」
「何言ってやがんだ、手前ぇ。ほんの半月前までお前ぇもそうだったじゃねぇか。玃に魅入られてても分からなかったくせに」
そう言った勘次郎の言葉を聞いて、美祢は忘れていた恐怖が蘇ったように全身を瘧のように震わせた。
「おまえさん、助けておくれよ。あたい、何でもするからさ。櫓下に働きに出ろって言うなら、おまえさんの言う通りにするからさ」
「な、なに言ってやがんでぇ。誰が大事な女房を櫓下なんぞに出すもんか。しっかりしろよ、もう言わねぇからよ」
力の限りに縋り付いてくる美祢を抱きとめて、勘次郎はしまったなと反省していた。
まだあれから半月も経っていないのだ。その間、産女や縊鬼などという尋常ではない妖に近づいてしまったという稀有で悲愴な経験をしてきたことを思えば、美祢が感じた恐怖は並大抵のことではなかっただろう。
「すまねぇ。もう二度と言わねぇから元に戻ってくれよ美祢。お前ぇはおいらの女房だろうが。亭主放り出してどこへ行く気だ」
「もう放さないって約束してくれるかい」
消え入りそうな声でそれだけを訴えると、美祢はすっと意識を失い、勘次郎に縋り付いたままついに朝まで目を覚ますことはなかった。
目を覚ました時、美祢は自分が布団に一人で寝ていることに気が付いた。
隣には布団も敷いておらず、自分だけがこの部屋で寝ていたことに気が付いて、慌てて飛び起きた。
「ちょいと、おまえさん。女房を一人で寝かしとくなんて、どういうつもりだい」
大きな声を出して襖を開けるとそこは玄関に続く廊下で、そのまま廊下を進んで玄関に出たが、勘次郎の姿はなかった。
慌てて廊下へ取って返した美祢は、今度は廊下を奥へと進んで竈の並ぶ三和土の間へ下りて勝手口から外へ飛び出した。
すると、そこには手拭いで汗を拭く勘次郎が居て、その手には鉈があって薪を割っては壁際の小屋根下に積み上げていた。
「なんだ、朝から騒々しい。ちょいと待ってな。これだけ片付けたら朝湯へ連れて行ってやるからよ」
「良かったぁ。あたいを置いてどこかへ行ったかと思うじゃないか」
「そんなことする訳ねぇって何遍言えば分かるんだよ、お前ぇは」
「だって、目が覚めたら自分一人でさ、おまえさんの布団も無くてさ、あたいはやっぱりお寺の仕事にも障るし、足手まといだからって捨てて行かれたのかと思ったんだよ・・・」
美祢が全身を使って訴えることに、勘次郎はこれまで気付かなかった美祢が抱える恐怖の一面を見た思いがした。そして、昨夜泣かせてしまったことを心で詫びて、併せてもう決して怖い思いをさせないようにすることを、密かに薬師如来を筆頭に日光月光両菩薩や四天王、十二神将にまで誓った。




