第28話:潮風に乗る匂いの暴力、そして頑固な海の女たち
「――おい渚! 今月末で店畳むってのは本当かい!?」
翌日の昼下がり。
ガツン、と『みなと食堂』の年季の入った引き戸が開いた。
入ってきたのは、日に焼けた逞しい肌をノースリーブの作業着から覗かせた、地元のベテラン漁師の女性たちだった。首にはタオルを巻き、その鋭い眼光はまさに「海の猛者」のオーラを纏っている。
「あ、頭……! すみません、急に決めて……。やっぱり、お客さんも全然来なくなっちゃったし、私の料理じゃ……」
渚さんがカウンターの奥でオドオドと縮こまる。
漁師の頭と呼ばれた大柄な女性は、フンと鼻を鳴らした。
「まあ、時代の流れだしねぇ。最近はみんな、船の上でもゼリー飲料かプロテインバーを片手で吸うのが効率いいって言ってるさ。わざわざ時間かけて、油っこいだけのベチャついたアジフライなんて食いやしないよ」
悪気はないのだろうが、その言葉は渚さんの心をグサリと突き刺す。
この世界の女性たちは、本当に美味しいご飯を知らないだけ。そして、機能性ばかりを重視して、食べる喜びを忘れてしまっている。
その言葉を聞いた瞬間、厨房の奥でエプロンをきゅっと締め直した俺――藤崎 創は、静かに、だけど力強く一歩前に出た。私服の白シャツの袖を肩口まで捲り上げ、男らしい引き締まった腕の筋肉を夕暮れ前の光に晒す。
「――まだあきらめるには早いですよ」
「あん? なんだい、その男のコは……。渚、都から可愛いツバメでも囲ったのかい?」
漁師たちが物珍しそうに、だけど男が厨房に立っている姿を鼻で笑うように俺を見た。
「僕は都で定食屋をやっている藤崎です。渚さんに頼まれて、数日間お店を手伝わせてもらっています。……お腹、空いてますよね? 漁終わりの身体に、最高の飯を作りますから、そこに座って待っていてください」
俺がブレない真剣な職人の目で真っ直ぐに見つめ、いつもの裏表のないナチュラルな笑顔を向けると、漁師の女たちは「っ……!?」と一瞬だけ息を呑み、顔をわずかに上気させてそっぽを向いた。
「な、なんだい生意気な男のコだねぇ……」「ちょっと、あの腕の筋肉……ガチの職人の身体だよ……」と小声でざわつきながら、彼女たちは促されるままカウンターへと腰掛けた。
職人の手解き:港町に響く咆哮、本能を揺さぶる匂い
「渚さん、昨日教えた通りに。アジの水分を完璧に拭き取って、衣を優しく密着させるんだ」
「は、はい、マスター……!」
俺の指示の元、渚さんが真剣な表情で黄金アジに衣をつけていく。
俺はその間に、180度まで完璧に熱した揚げ鍋の前に立ち、衣を纏ったアジを次々と、だけど一度に温度が下がらない絶妙な量を計算して油の中へ滑り込ませた。
ジャァァァァァァァッッッ!!! バチバチバチッ!
静まり返っていた食堂に、高く弾けるような美しい油の咆哮が響き渡る。
それと同時に、キメの細かいパン粉が油の中で香ばしく揚がる、あの『全人類の食欲を根底から狂わせる暴力的な匂い』が、開け放たれた窓から潮風に乗って港中へと一気に吹き抜けていった。
「――っっ!? なにこの匂い……!」
「ただの油臭さじゃないわ……。香ばしくて、なんだか急に猛烈にお腹が空いてくるような……っ!」
カウンターの漁師たちが、ゴクリと激しく喉を鳴らす。
さらに俺は、昨日からじっくりと煮干しの頭とワタを取り除いて仕込んでおいた、極上の和風出汁の味噌汁に、火を止める直前で極上の味噌をサッと溶き入れた。海の恵みそのものを凝縮したような、深く優しい香りが店内に大爆発する。
「お待たせしました。『みなと食堂』特製、八重凪の黄金アジフライ定食です。熱いうちにどうぞ!」
目の前に並べられたのは、パン粉の一本一本がツンと立ち、黄金色に美しく輝く大ぶりのアジフライ。そして、香りが最高潮に達した味噌汁と、ツヤツヤと輝く大盛りの白米。
「……どれ、男のハッタリに騙されるもんかい」
漁師の頭が、箸でアジフライをガシッと掴み、豪快に口へと放り込んだ。
海の猛者たちの理性の崩壊、そして広がる伝説
サクゥッッ!!! ……ふっわふわずっしり……!!!
「ーーーーーーーーっっっ!!!!」
静寂。次の瞬間、漁師の頭の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「な、何これえええええええっ!? 衣がガラスみたいにサクサクで軽いのに、中のお肉が……アジの身が、綿菓子みたいにフワッフワで、噛んだ瞬間に濃厚な脂の旨味がじゅわあああって溢れ出てくる……っっ!!」
「嘘でしょ、頭が泣いて……っ、んんんんーーーっっっ!!!(ガブッ)」
他の漁師たちも我慢できずにアジフライに貪りついた瞬間、全員がガタッと椅子を鳴らして絶句した。
「パサつきなんて微塵もない! なにこのジューシーさ!? それにこのお味噌汁、信じられないくらい深い出汁のコクが、一日中荒波と戦ってクタクタになった身体の芯に、じわぁぁぁって染み渡っていく……っ!」
「ゼリー飲料!? プロテインバー!? んなもんクソ食らえだ!! 飯だ、白飯をくれ!! このアジフライと味噌汁があれば、白米が何杯でも食えるぞおおお!!」
海の猛者たちが、完全にエリートの理性も効率主義もぶっ飛ばし、野生の獣のように猛烈な勢いでアジフライを喰らい、大盛りの白米をかき込んでいく。
「美味しい……っ! 渚、あんたこんな凄いもの作れたのかい!?」
「ううん、違うの。都のマスターが、私の料理のダメなところを全部直して、魔法をかけてくれたの……っ!」
渚さんが誇らしげに、だけど顔を真っ赤にして俺を見つめる。
漁師たちは食べ終えると、ハァハァと熱い吐息を漏らしながら、カウンター越しに俺の両手をがっしりと握りしめた。
「藤崎の坊や!! いや、マスター!! 頼むからこの店を畳まないでくれ! あんたがいてくれるなら、毎日一番いいアジをここにタダで持ち込んでやる! だから、だから俺のお嫁さんになって、毎日この飯を食わせてくれ!!」
「ずるいぞ頭! マスター、俺の方が船の操縦上手いから、あんたを毎日クルージングに連れてってやる! 俺と結婚してくれ!」
「いや、皆さん落ち着いてください。僕はただの通りすがりの定食屋ですから。プロポーズなら他所でやってくださいね」
俺が照れくさそうに頭を掻きながら、包み込むような優しい笑顔でいつものようにいなすと、海の荒くれ女たちは「あ、あの無防備で男らしい笑顔……ズルすぎる……っ!」「なんて大人の包容力なの……っ!」と、顔を真っ赤にして悶絶し、カウンターに突っ伏してしまうのだった。
その日の夕方。
換気扇から港中に解き放たれた『極上アジフライ』の匂いの暴力は、確実に町の女性たちの胃袋を刺激していた。
お腹を空かせた地元の住民たちが、「なぁ、みなと食堂からとんでもねえ匂いがするぞ」「潰れるんじゃなかったのか!?」と、ゾロゾロと店に向かって歩き始めていた。
だが、そんな復活の兆しを見せる食堂から少し離れた堤防の上。
一台の、この田舎町には絶対に不釣り合いな最高級黒塗りリムジンが、静かに停車していた。
後部座席の窓がゆっくりと開き、サングラスをかけた天領グループの秘書が、スマホのGPS画面を見つめる。
『総裁。ターゲットの居場所を特定しました。沿海地方の八重凪町……潰れかけの食堂で、またしても料理をして女たちを狂わせているようです』
中央都のオフィスで、その報告を高級ワイングラスを傾けながら聞いた天領馨は、艶やかな唇を妖しく釣り上げた。
「ふふ……夏休みをもらって田舎へ行ったと思えば、そこでも女を奴隷にしていますか。どこまで私を焦らせれば気が済むのかしら、創。……すぐに迎えの準備を。天領の力で、その港町ごと買い取ってしまいなさい」
路地裏の職人がもたらした奇跡は、静かな港町を大熱狂の渦へと巻き込み、そして都の最高権力者を再び動かそうとしていた。




