第1話:ガテン系女子、至高の生姜焼きに溺れる
夕暮れ時、橙色の街灯が灯り始める路地裏。
その一角に、不釣り合いなほど白く清潔な暖簾が揺れている。墨文字で染め抜かれた名は『食事処 藤』。
ガラガラと引き戸を開けると、香ばしい醤油と、ツンと鼻をくすぐる生姜の香りが漂ってくる。
「……よし、タレの寝かせ具合は完璧だな」
厨房で一人、仕込みの最終チェックをしていた俺――藤崎 創は、満足げに頷いた。
目の前にあるのは、一見どこにでもある、至って普通の厨房だ。だが、この世界において、俺という存在とこの店は、異常の塊でしかなかった。
なぜなら、この世界は男女の立場と貞操観念が完全に逆転しているからだ。
社会を動かし、汗水垂らして働くのは女性。男性は希少で、か弱く、家の中で大人しく保護されるべき存在。
当然、男性が包丁を握る文化などない。この世界の男が料理をするシチュエーションといえば、お姫様のように飾り立てられたフリルのエプロンを着てスイーツを作るか、特権階級のパトロンに媚びるために、宝石のような高級創作料理を嗜む程度。
それ以外の一般女性たちが普段口にするのは、機能性と効率だけを重視した、味の薄い「栄養補助ゼリー」や「プロテインバー」、あるいは力任せに塩コショウで炒めただけの無骨な肉料理ばかりだった。
そんな狂ったバランスの世界に身一つで放り出された俺は、危うく肉食獣のような目をした女性たちに囲まれ、「保護」という名の監禁をされそうになった。
それを救ってくれたのが、この街の一帯を牛耳る地主であり、老舗工務店の先代社長である「おばあちゃん」だった。
『男だてらに、飯が作れるだと?』
おばあちゃんの屋敷へ連れ帰られた俺が、お礼代わりにあり合わせの食材で作ったのは、出汁巻き卵、豚の生姜焼き、そして豆腐の味噌汁。
五臓六腑にしみわたる「本物の出汁」と、計算された職人の味を口にしたおばあちゃんは、目を剥いて絶句した。そして、豪快に笑ってこう言ったのだ。
『気に入った。お前のその腕と、男だてらに職人として自立しようという気概、私が買ってやる。……私の持ち物件を一つ貸してやろう。私が後ろ盾だ。誰もお前を無理やり連れ去ろうとはさせんよ』
最高権力者であるおばあちゃんがバックに就いてくれたおかげで、俺は怪しい組織に拉致されることもなく、合法的に自分の城――この定食屋を持つことができたのだった。
「うっす、マスター! 今日もめちゃくちゃに疲れた、腹減りすぎて死にそう!」
午後8時。引き戸が勢いよく開き、威勢のいい声が響いた。
入ってきたのは、おばあちゃんの工務店で働く若き現場監督、千草だ。男物の無骨な作業着をラフに着崩し、額に汗を浮かべた彼女は、引き締まった体躯と鋭い眼光を持つ。この世界では完全に「気性の荒い職人アニキ」のオーラを纏っている。
その後ろからは、仕立てのいい高級スーツをビシッと着こなしたエリート風のキャリアウーマン、一ノ瀬も続いて入ってきた。
「あら千草、先を越されたわね。店主さん、こんばんは。今日もあなたの顔を見に……じゃなくて、美味しいご飯をいただきに来たわ」
「いらっしゃい。二人ともお疲れ様。ちょうど今、生姜焼きの仕込みが終わったところだよ」
俺が白い調理服の袖をまくり、お玉を持って微笑むと、カウンターに腰掛けた二人が同時に「ぶふっ」と顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
千草:(小声で)「クソ、相変わらず無防備すぎるだろあのマスター……。男のくせに厨房で汗かいて、あんな美味そうな匂いさせながら微笑むなんて反則だろ。大旦那様がバックにいなきゃ、とっくに俺が拉致して家に閉じ込めてるのに……!」
一ノ瀬:(小声で)「本当ね。私の年収なら一等地のタワーマンションを買い与えて、あの笑顔と料理を24時間独占できるわ。大旦那様にいくら積めば、彼の権利を譲ってもらえるかしら……」
「? 二人とも、どうかした?」
「な、なんでもねえよ! 生姜焼き定食、ご飯大盛りで!」
「私も同じものを。あと、冷えたビールをちょうだい」
「はいよ、少々お待ちを」
さっそく厨房が動き出す。
熱したフライパンに油をひき、厳選した豚の肩ロース肉を投入する。じゅうううう、と小気味よい音が店内に響き渡り、肉の焼ける香ばしい匂いが一瞬で広がった。
俺の生姜焼きは、タレにひと工夫してある。醤油、みりん、酒、たっぷりのすりおろし生姜。そこに、少量のすりおろし玉ねぎとはちみつを隠し味に加えている。
これにより、肉の繊維が劇的に柔らかくなり、コク深い自然な甘みが生まれるのだ。
強火で一気にタレを絡めると、パチパチと弾ける音と共に、甘辛い極上の香りが爆発的に店内に充満した。
カウンターの向こうで、千草の喉が「ゴクリ」と大きく鳴るのが見えた。
「はい、お待たせ。生姜焼き定食ね」
目の前に並べられたのは、ツヤツヤと輝く大盛りの白米。出汁の香りが立つ豆腐とワカメの味噌汁。シャキシャキのキャベツの千切り。そして、黄金色のタレをたっぷりと纏った、山盛りの豚の生姜焼き。
「いただき、ます……!」
千草は我慢できないとばかりに、箸で肉を数枚まとめて掴み、豪快に口へと放り込んだ。
直後、彼女の動きがピタリと止まる。
「な、んだこれ……っ!?」
ガタッと椅子が鳴るほどの衝撃が、千草の身体を駆け巡った。
「肉が……信じられないくらい柔らかい……! それにこのタレ、生姜のピリッとした刺激の奥に、肉の旨味を引き立てる圧倒的なコクがある……! 味が濃いのに全然しつこくない、こんなの、こんなの……っ!」
千草は狂ったように箸を動かし、肉を咀嚼した勢いのまま、大盛りの白米を猛烈な勢いでかき込み始めた。
「白飯が止まらねえええ!!」
「ええ、本当に……素晴らしいわ」
一ノ瀬も上品に、しかし普段の彼女からは想像できないほど大きな口で肉を頬張り、うっとりと目を細めていた。
「このお味噌汁も凄いわ。丁寧に取られた出汁が、一日中働き詰めで凝り固まった身体の芯に優しく染み渡っていく……。外で食べる料理なんて、ただ塩辛いか、パサパサの栄養食ばかりなのに。この店の料理は、食べるだけで心が解き放たれるようだわ……」
一ノ瀬は冷えたビールをぐいっと煽り、ぷはぁ、と息を吐くと、感極まったようにカウンター越しに俺の手を握ろうとしてきた。
「ねえ店主さん。大旦那様にいくら払えばいいかしら? もう店なんて畳んで、私の専属シェフ(妻)になって。毎月の生活費はいくらでも出すわ。あなたを指一本触れさせずに、一生私の庇護下に置いてあげる!」
「おい一ノ瀬! どさくさに紛れて求婚してんじゃねえよ! マスター、俺の方が体力あるから夜道もバッチリ守れるぞ! 俺と結婚して、毎日この飯を食わせてくれ!」
「いや、二人とも落ち着いて。ここは飲食店だから。プロポーズするなら他所でやってよ」
俺が苦笑いしながら一歩引くと、二人は「あ、ごめん……」と耳まで真っ赤にして同時に俯いた。
男は守られるだけの存在。料理なんて高嶺の花の趣味、あるいは男がやるものではない。
そんな偏見で凝り固まった世界だけど、外で戦い、クタクタになって帰ってくる彼女たちの飢えを満たし、張り詰めた心をほどく場所が、一つくらいあってもいい。
大旦那のおばあちゃんから貰ったこの厨房で、俺は今日も包丁を握り、お玉を振るう。
「こんな世界でも、俺にできる事は料理だけだからな」
そう呟きながら、俺は「おかわり、まだあるからね」と、彼女たちの空になった茶碗を受け取り、ふっくらとした白米を再びよそい始めるのだった。
『食事処 藤』特製・至高の生姜焼き(2人前)
材 料
豚肩ロース肉(生姜焼き用・やや厚切り):300g
玉ねぎ:1/2個(半分はタレ用、半分は具材用)
キャベツ:お好みの量(千切りにして冷水にさらしておく)
サラダ油:大さじ1
【至高の生姜焼きダレ】
生姜:大さじ1.5〜2(たっぷりめが劇中の味!)
玉ねぎ(すりおろし):1/4個分
醤油:大さじ3
みりん:大さじ2
酒:大さじ2
はちみつ:大さじ1/2(無ければ砂糖大さじ1/2で代用可)
作り方
1. タレの仕込みと肉の漬け込み
1 具材用の玉ねぎ(1/4個)は、5mm幅のくし形切りにします。
2 ボウルに【至高の生姜焼きダレ】の材料(すりおろし玉ねぎ、すりおろし生姜、醤油、みりん、酒、はちみつ)をすべて混ぜ合わせます。
3 豚肩ロース肉をバラし、タレのボウルにドボンと漬け込みます。
★マスターのこだわりポイント
すりおろし玉ねぎとはちみつに含まれる酵素の働きで、肉の繊維がバラバラになり、驚くほど柔らかく仕上がります。漬け込み時間は10〜15分で十分です(漬けすぎると肉の食感が悪くなるので注意)。
2. 焼きの工程(強火で一気に!)
1 フライパンにサラダ油をひき、中火で熱します。
2 汁気を軽くきった豚肉(タレはボウルに残しておく)と、くし形に切った玉ねぎを入れます。
3 肉に綺麗な焼き色がつくまで動かさずに焼き、ひっくり返します。両面に美味しそうな焼き色をつけます。
3. タレの旨味を爆発させる
1 肉に8割方火が通ったら、ボウルに残しておいたタレをすべてフライパンに一気に注ぎ入れます。
2 火力を強火に上げます。
3 フライパンを揺すりながら、タレがトロンと煮詰まり、肉と玉ねぎに黄金色のツヤが出るまで一気に絡めます。
4. 盛り付け
1 お皿に水気をしっかりきったキャベツの千切りを山盛りにします。
2 その横に、焼き上がった生姜焼きを豪快に盛り付けます。
3 フライパンに残った黄金色のタレを、肉の上から、そして少しキャベツにもかかるようにたっぷりとかけて完成です!
店主(創)からのワンポイントアドバイス
「この生姜焼きを食べる時は、お茶碗に白米を山盛りに用意しておくのを忘れないでね。千草みたいに、本当にご飯が無限に消えていくからさ」
実は本編がレシピです
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