10円玉の少女
宝くじというものは、買った瞬間に夢を売る商売だと思っていた。
六億円。その数字を三回読み直して、四回目にようやく俺は売り場のガラス越しに倒れ込みそうになった。周りの主婦たちが怪訝そうな目を向けてくる。無理もない。二十四歳、無職、口座残高は辛うじて二桁万円という男が、突然柱にしがみついて「あ、あ、あ‥‥」と魚のように口をパクパクさせているのだから。
それから二週間、俺は何も変わらない六畳一間のアパートで、六億円をどう使うかをひたすら考え続けた。旅行? マンション? 老後の蓄え? 考えれば考えるほど答えは霧の中に消えていき、結局その日も夕飯はコンビニの百円おにぎり二個だった。
そんな夜に、手紙は届いた。
差出人の名前はない。封筒は深い紺色で、触れると微かに紙の厚みが指に伝わってくる。普通の郵便物ではないことは素人目にも明らかだった。恐る恐る開封すると、カードが一枚。金色の箔押しで、こう記されていた。
――紳士同盟「The Billionaires' Club」より、ご招待申し上げます。
俺はおにぎりを咥えたまま、しばらく動けなかった。
「なんだコレ‥‥本当か?どうしよう」
あまりに予期せぬその誘いに戸惑った。
怪しさ満点のこの誘いに、疑いながらも全く興味がないわけでもなかった。
行くだけならタダだ。とりあえず覗いてみるのも悪くはない。どうせ暇な身だ。
俺の腹は決まった。
――数日後、俺は手持ちで一番程度の良い服に着替え、地図を頼りに指定の場所に向かった。
そこは何の変哲もない簡素なビル。一階の中に入っても人影はない。
「本当にここなのか?この手紙、冷やかしじゃないだろうな?」
少し疑っていると、すぐにエレベーターを見つけた。そこには確かに地下への表示がある。どうやらここで間違いないようだ。
早速、最下層の地下三階のボタンを押し乗り込む。ノンストップで三階で止まりドアが開いた瞬間、そこは別世界だった。
「こ、ここは‥‥」
思わず息を呑んだ。奥行きの広がる巨大なフロアに、ゆうに100人を超す人々がひしめいていた。男女の比率は半々ぐらいか。外見だけで、あきらかに一般人じゃないのは分かる。
執事然とした男にセキュリティチェックを受け無難に場内に入室した。
場内はホテルのバンケットホールを思わせる造りで、シャンデリアの光が磨き上げられた床に反射している。給仕たちが銀のトレイを手に静かに行き交い、招待客たちはグラス片手に品定めするような目つきで互いを観察していた。
俺は完全に浮いていた。
手持ちで一番程度の良い服というのが、量販店で買った七千円のジャケットだ。周囲の連中が纏っているのは、一着いくらするのか想像もつかないスーツばかり。俺の存在は、高級寿司屋に紛れ込んだコンビニおにぎりみたいなものだった。
「場違いにも程がある‥‥」
小声で呟いたとき、さりげなく近づいてきた給仕がシャンパングラスを差し出した。受け取っておかないと余計に目立ちそうで、思わず掴んでしまう。口をつけると、これまで飲んだことのない種類の美味さが広がった。
しばらくして、場内にアナウンスが流れた。
「皆様、本日のオークションを始めます。どうぞ奥のホールへ」
促されるまま人の流れに乗ると、隣接する広間に移動した。正面には競売台。両脇に並ぶスタッフたちの表情は一切読めない。
オークションは想像を絶するものだった。
まず出品されたのは、ナポレオンが実際に使用したとされる懐中時計。開始価格五千万。次いで、現存三本しかないという幻のワイン。一億二千万であっさり落札された。俺の六億が大金だと思っていたのが、みるみる錯覚に思えてくる。
そして、最後の出品が告げられた。
「最終品でございます。築百二十年、都内近郊の山間に佇む洋館一棟。土地込みの物件でございますが――」
司会の男が一拍置いた。
「こちらの物件、専属メイド五名付きでのご提供となります」
場内がざわめいた。俺も思わず競売台の方を見た。
メイド服を纏った五人の女性が、静かに並んで一礼する。全員が無表情で、どこか人形めいた佇まいをしていた。
開始価格、一億。
俺は腕を組んで眺めていた。どうせ縁のない話だ。
ところがそのとき、斜め前方に立つ女と目が合った。
三十代前半だろうか。肩まで切り揃えた黒髪に、仕立ての良いワンピース。顔立ちは整っているが、その目つきに棘がある。俺と目が合った瞬間、彼女は鼻で笑った。言葉にするなら「何しにきたの、貧乏人」という表情だった。
俺の中で、何かがぷつりと切れた。
カチン、ときた。
我ながら、らしくない。普段の俺なら「どうせ金持ちの世界の話だ」と肩を竦めて終わりにしていた。だが今日の俺は違う。懐には六億円という、生まれてこの方持ったことのない数字がある。
「……二億」
気づいたら声に出していた。
周囲の視線が一斉に集まる。給仕のひとりが「ご入札、二億円」とマイクに通す。あの女が僅かに眉を動かした。驚いているのか、それとも面白い玩具を見つけたとでも思っているのか。
「二億五千万」
澄ました顔で女が上乗せする。
「三億」
「三億五千万」
まずい。完全にデスマッチの様相になってきた。周囲の客たちはとっくに手を引いて、興味深そうに俺たちを眺めている。完全に余興扱いだ。わかってはいる。わかってはいるが、あの女の涼しい顔を見ていると頭に血が上って止まらない。
「四億」
「四億五千万」
女はこちらを一瞥するたびに、口の端を微かに持ち上げる。楽しんでいやがる。それがまた腹立たしい。
「五億」
「五億五千万」
段々と呼吸が荒くなってきた。手のひらが汗ばんでいる。残りはあと五千万しかない。次に女が上乗せした瞬間、俺の六億は終わりだ。
「六億」
出た。有り金全部だ。思わず自分で引いた。司会の男が「六億円、ご入札」と告げる。場内がどよめく。
女は初めて表情を変えた。眉をひそめ、値札でも見るように俺を上から下まで眺める。そして薄く微笑んだ。
「六億一円」
静寂。
俺は固まった。たった一円。嫌らしい。実に嫌らしい上乗せだった。一円でも超えられたら俺には何もできない。完全敗北だ。
司会の男が「六億一円、ご入札。他にご入札の方は――」と告げ始めたその瞬間。
袖を、引かれた。
視線を落とすと、少女がいた。
十歳そこそこだろうか。会場の雰囲気とはまるで無縁の、飾り気のないワンピース姿。大きな目がまっすぐに俺を見上げていた。
「お兄さん」
少女は小さな手を差し出した。その白い掌の上に、十円玉が一枚、乗っていた。
「これ、貸してあげる」
俺は一秒考えて、受け取った。
「六億十円!」
我ながら間の抜けた数字だと思いながら、それでも精一杯の声を張り上げた。
場内に笑いが起きた。女が素早く財布を探る。スタッフに何事か耳打ちする。その表情が、初めて焦りの色を帯びた。
会の規定は明確だった。即決。持ち帰りも後払いも一切認めない。
司会の男が静かに告げる。
「六億十円、落札確定とさせていただきます」
拍手が起きた。俺は呆然と立ち尽くしたまま、ようやく我に返って隣を見た。
少女の姿は、どこにもなかった。




