第4話 時宗 迅(ときむね じん)
(1)幹部会議
「わしの名前は時宗迅。
今日から君を預かることになった。よろしゅうな。」
頭領に呼ばれた中央棟の幹部会議で、見た目も名前も微妙にカッコいいその男はそう名乗った。
雪野はその男の顔と名前を既に知っていた。
先日の国立アカデミーの授業見学で、雪野が最初に見学した薬学の授業の担当教師が時宗だった。
この国では高等科から医学、薬学の基礎が必修科目だと聞いていたので覗いて見たのだ。
今まで文系の、しかも法学部を目指してきた雪野には縁のない科目だったので少し気後れしていたのだが、その教師には惹かれた。
長い銀色の髪を後ろで1つにまとめ、頭領達と同じ、この国の忍の衣装らしい長いマントを羽織って編笠を被っている。
体つきはガッシリしているが、話す口調は穏やかで理知的であった。
薬学というから薬の名前や効能を並べるのかと思いきや、過去の戦争や暗殺で使われた毒薬や解毒薬についてや、伝染病とワクチンなどについて語った。
テンポの良さと言葉選びの的確さに魅了されて、あっという間に90分が過ぎた。
時宗は授業の終わりに、
「薬学には医学、化学、生物、地学も必須や。今日この後と、明日とで全部やるからぜひ聞いてってな。」と言った。
そして雪野は律義に全部見学した。
なので幹部会議で時宗が雪野に名前を名乗った時、
「先生のお名前は存じ上げております。先日のアカデミーの授業見学の時に。」と言った。
「そうか。科目は?」
「薬学、医学、生物、化学、地学です。」
「わしの追っかけか?」
時宗が笑って言った。雪野もつられて笑った。
「先生が薬学の終わりに、薬学を取るなら医学、生物、化学、地学が必須だからこのあと全部聞いて行くように、と仰ったので…全部見学させていただきました。結果、追っかけに。」
雪野が小さく笑うと、今度は時宗がつられるように
「そうか。」と笑った。
「それで君は今までもそういう科目に興味があったんか?」
「いえ、社会科系の…法学部に進む予定でしたので地理、歴史、政治経済などに重点を置いていました。」
「えらい方向転換やな。何があった?」
「住む所が変わったら今までの勉強内容がほとんど無駄になってしまったので、今度はどこででも役に立ちそうなことを学びたいと…。」
「なるほどな。確かに君のおった国の地理や法律はここではカネにならんな。」
そう言われて雪野は少し笑いかけたが、何年もかけて勉強したことがほとんど役に立たなくなってしまったことに改めて喪失感を覚えた。
すると、そんな雪野の気持ちを見透かしたように時宗は、
「飯の種にはならんけど、役に立たんということはない。必ず役に立つし、君を造ってる土台や。」と言った。
雪野は少し驚いたが、
「はい。」と答えた。
「わしの授業以外にはどんな科目を見学したんや?」
「諜報と、あと情報戦略です。」
時宗の目がスッと細まり、周りの幹部達も息を飲んだ。
「そっちの方にも興味があるんか?」
「いいえ、その2科目は頭領からのご指示で。」
時宗はチラリと頭領を見て、また雪野の方を向いた。
「で、どうやった?」
「面白かったです。私のいた所では普通の高等学校ではそういう科目はなかったので。」
「なるほどな。」
「よし、わかった。わしが最初に教えるのは医学薬学の基礎やな。
このアカデミーでは高等科前期から必修になってるから君が編入する高等科後期やと他の皆は半分まで終わってるからな。
他はアカデミーの時間割と相談やな。」
「はい。」
「あとは武術やな。ここでは武術は子供の頃からやっとるからな。その歳で初心者となると個人的に習うしかないな。
わしが体力作りと基本動作を教えながら、できる種目が増えたらその専門の教師に頼むかもしれん。」
「はい。」
雪野が答えた瞬間、時宗が立ち上がったように見えた、と思ったらその体は雪野のすぐ前にあった。
白いマントの中からガッシリした大きな手が出て来たと同時に雪野の手が握られていた。
「ほな、これからよろしゅうな。」
雪野は驚いて一歩下がった。いくら何でもここで手を握り返して笑顔で握手、というのは失礼かと思い、膝と両手をついた。
「お引き受けいただき、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。」
「わしの前で畏まる必要はない。立ち。」
「はい。ありがとうございます。」
「今日は何時頃までアカデミーに居てる?」
「4時40分まで履修に関する説明会があります。」
「ほな、その後に教務部の掲示板の前で待っててもらえるか?」
「はい。」
「わしからの話は以上や。
頭領、この子に他には何か?」
「いや、とりあえず雪野はアカデミーに戻りなさい。」
「はい。失礼いたします。」
雪野は頭領と時宗に、それから部屋全体に向かって礼をして部屋を出た。
雪野が去った会議室では時宗に対して、あきれたような白けたような視線が向けられていた。
と言うのは、雪野が呼ばれる30分ほど前、幹部会議の冒頭に、頭領が雪野について説明した。
雪野をこの国に連れて来た経緯、18才でこの国なことを何も知らず、武術も何もできず、しかし科目によっては高等科の知識があり、たいへん優秀なこと。
「このアンバランスさはアカデミーに放り込むだけではこの先、生活していくのも仕事をしていくのも、自分の身を守っていくことすら難しい。
なので、専属の師匠として雪野の一切の面倒を見てくれる者を付けてやりたい。
この事に異議のある者はいるか?」と言った。
そして誰も異議を唱えないのを確認して、
「時宗、お前に頼む。」と言った。
それまで自分には関係ないことと、とくに異議も差し挟まず聞いていた時宗は、上目遣いに頭領を見ながら即座に、
「断る。」と言った。
「わしはもう弟子はとらん。ましておなごの弟子など面倒極まりない。」と吐き捨てるように言った。
時宗は今までに2人の弟子を担当させられた。
しかし、1人は時宗とは違う研究に興味を持ち、遠くの大学に居る学者を頼って去って行った。
もう1人は戦死した。
「弟子などもうこりごりや。」ボソッと言って横を向いた。
「しかしな、他の特別上忍は皆、既に弟子を持っているか、国内に居ないかじゃ。」
「誰か呼び戻せ。わしが代わりに外へ行く。」
「お前が今やってる仕事が全部できる奴などおらん。あっという間に過労死じゃ。」
「そんだけわしが忙しいということやろ。何でわしがそのガキの面倒を見る暇があると思うんや。」
にべもない時宗の様子に頭領も黙るしかなかった。そして困ったように、
「しかし本人を呼んでしまってあるんじゃ。お前を紹介するためにな。」と言った。
時宗が何かを言い返そうとした時に、会議室の扉がノックされ、受付の職員が、
「柳生雪野さんをお連れしました。入ります。」と言って雪野を入室させた。
雪野が全体に向かって一礼し、少し頭領に近寄ってもう一礼すると頭領は軽く頷いて、
「今説明した柳生雪野じゃ。皆、面倒を見てやってくれ。」と言った。
それから雪野に向かって、
「お前はここのことを何も知らんし、武術もできん。なのでお前にはアカデミーとは別に師匠をつけて生活、学業、武術訓練全般の面倒を見てもらおうと思っとるんじゃ。思っとるんじゃが……。」と語尾を濁しながらチラリと時宗を見た。
すると時宗は雪野に向かって盛大に温かく微笑んで、
「わしの名前は時宗迅今日から君を預かることになった。よろしゅうな。」と、頭領に対するのとは別人のような優しい声で言ったのだった。
会議室にいる幹部全員がポカンと口を開けて時宗と雪野のやり取りを見ていたのも、雪野が退室した後、時宗に冷たい白けた視線を向けたのも無理はなかった。
「もう弟子は取らんとか言ってたな。」
「うむ。おなごの弟子など面倒極まりないとも言ったな。」
あちこちから声が聞こえたが、頭領だけは時宗の気が変わらぬうちにと、
「では全て時宗に任せる。皆もいろいろ助けてやってくれ。」と言ってサクッと次の議題に移った。
(2)始まりの一歩
一方、幹部会議室を出た雪野は、アカデミーに向かって歩きながら、今自分の身に起こったことを振り返っていた。
ここに来た日に小菊から、面倒を見てくれる先生が付く、ということは聞いていた。
とても優秀で高位の人だということも。
しかしまさか時宗先生だとは…。
アカデミーの午後の時間は履修説明会だったが、雪野は上の空だった。
いつの間にか時間が過ぎて、たくさんのプリントをリュックに押し込んで教室を出た時は5時近かった。
雪野は急いで教務部に向かった。
一方時宗も中央棟での幹部会議を終えて、雪野と約束をした教務部の前に向かった。
雪野はその場所で掲示板を見ていた。
後ろから声をかけると、雪野は反射的に振り返って、時宗を見てパァッと嬉しそうな顔をした。
時宗はその表情を見て心が和んだ。
人間は、急に声をかけられて相手を認識した時、無意識に、その相手に対する素直な気持ちが表れる。
雪野の嬉しそうでホッとしたような表情は時宗を安心させるものであった。
時宗は雪野を伴って教務部の部屋に入った。
まっすぐに教務部長の席に行って、
「忙しいのにすんませんな。」と言った。
教務部長はにこやかに
「いえいえ、お待ちしてました。」
と言ってチラッと雪野を見た。
事前に話が通してあったようで、周りの職員達も横目で時宗と雪野を見ている。
教務部長に促されて2人は仕切られた応接間のような場所に移った。
時宗と雪野は3人掛けのソファに並んで座り、教務部長はテーブルをはさんで向かい側の椅子に座った。
テーブルの上には雪野が先ほどの履修説明会でもらったプリントの他、雪野の編入試験の解答用紙などや、時宗の今期の講義の担当表などもあった。
時宗は、雪野の後見人として教育全般を引き受けることを簡単に説明し、
「アカデミーの必修科目を最優先にして、空いたところに選択科目とわしの補習を入れていきたい。よろしゅうに。」と言った。
教務部長は、アカデミーの科目を優先に、ということにホッとしたようで、
「なるべく先生の授業で単位が取れるようにしますので。」
と言った。
「いろいろ勝手させてもらいますがよろしゅうに。」
横で聞いていた雪野も一緒に頭を下げた。
時宗が、プリントの山を抱えて立ちあがろうとすると、教務部長が慌てて、
「ええと、確認なんですが、今期の先生の講座は減らす必要はないということでよろしいのですね。」と聞いた。
「今期は何とかします。今さら動かせんでしょう。」
「助かります。」
時宗の授業は人気で、ただでさえ毎年調整がたいへんなのに雪野に時間を割くことになって、講座を減らしたいと言われることを心配してたようだ。
安心して上機嫌になった教務部長は雪野にもにこやかな顔を向け、
「君もたいへんだけど頑張って。
我々は、君はすぐにトップクラスになると思ってるんだよ。」と言って2人を送り出した。
教務部のある建物を出て駐車場へ向かいながら時宗が、
「何やら期待されてるみたいやが、よっぽど編入試験の成績が良かったんか?」と聞いた。
「とんでもないです。半分くらいしか書けませんでした。」
「そうなんか?」
「はい。多分勉強熱心だと思われたのかと…。
解らなかったところを調べたいから問題用紙と回答解説があれば見せてほしい、と言ったので。」
「それで?」
「ダメでしたが。」
「そうか。なるほどな。」
そこで駐車場に着いたので話は途切れた。




