男は戦、女は婚礼 12
慶長三年(一五九八)正月十日に突然、太閤秀吉から上杉景勝は、越後から会津へ転封を命じられた。徳川家康と伊達政宗の押さえとして期待されたのだ。
景勝は三月六日に伏見を発ち、下旬に会津へ入ると、領内に要衝に支城を築いて重臣を置き、国境を固めた。
病の床に就いた太閤を気づかっていたが、与えられた使命を優先し、上洛したのはその死後一か月の九月のことだった。
十月から翌慶長四年年七月まで大老の職務を務めて、朝鮮半島からの将兵の引き上げなどに尽力したのち、会津に帰国した。
石高が九十万石から百二十万石に増えたことから、蒲生氏の旧臣を召しかかるなどし、慶長五年(一六〇〇)二月には居城を新しく築くことにし、城と城下町の建築に着手した。
これに対して、上杉景勝のあとに越後へ入った堀秀治[父・堀秀政は『賤ケ岳の七本槍』の一人]が二月に年貢米等で上杉方と争ったことから、「景勝が新城をとり立て、道や橋の工事をし、武器などを用意して牢人を召し抱えている、最上領や越後へ攻め込むつもりだ」など、徳川方へ報告してきた。
また三月には、景勝の家臣・藤田信吉が離反して、江戸の秀忠、大坂の家康へ、領内の様子を知らせてきた。
四月一日、家康は家臣の伊奈昭綱を罪問使として遣わし、「新しい城を築き、各国の牢人数千人を召し抱え、要所の出入り口に道や橋を作り、馬具・弓鉄砲を大量に用意している、このことを謀反の意ありとする意見があるが、大坂に来て釈明するよう」催促した。同時に京の相国寺の僧・西笑承兌も命を受け、西笑は景勝の非違八カ条を列挙し、上杉氏の臣・直江兼続に送って、すぐに上洛して陳謝すべきことを勧めた。
会津の上杉氏との関係が緊迫しているこのとき、阿茶は殿に呼び出された。
いつも内密の話をする際のように、すでに人払いがされ、殿の側らには本多正信さまだけがいた。
「阿茶よ。豊前の黒田長政だが、万千代(井伊直政)が取次として太閤の死後、早くから我が方に味方しておる者である。しかし妻が太閤の取り持ちで、太閤の養女として嫁いだ蜂須賀正勝の娘でのう。息子がおらぬとのことで、その妻を離縁した。そして我が徳川の娘を迎えたいと申し出ておる。勘案した結果、信濃高遠城主・保科正直とわしの異父妹・多劫姫の娘、栄を嫁入らせることに決めた。保科の方には弥八郎(本多正信)がこのことを伝えるゆえ、そのほうは大坂にやってくる栄の世話を頼む。黒田の方の希望で、婚礼は男子誕生を願って、五月五日の節句にしたいそうだ。あとのことは弥八郎と相談せよ」
と、それだけ言って部屋を出て行ってしまった。忙しそうだ。実際、殿はじきに伏見城へ戻る予定があり、他の大名たちとの会合もあるのだった。
(五月五日って、準備に一か月もないでしょうーっ。それ以前に、徳川に味方するのはいいとしても、妻を離縁してまでって。本当に、男ってやつはっ)
腹の中は怒りで煮えたぎっていたが、表情は変わりない。
阿茶は本多さまとその後、黒田家との婚礼について打ち合わせた。
部屋に戻った阿茶は縁に出て、庭に向かい五郎衛門を呼んだ。
「御前に」
と、五郎衛門はすぐに姿を現し、阿茶の前に片膝をついた。
「江戸まで早飛脚ができる者はおりませんか。奥の用ですので、殿の配下は使いたくないのです。実は、保科正直さまのご息女を殿の養女として、黒田家へ嫁がせることになりました。日取りが五月五日とすでに決まっており、姫さまが大坂においでになってから諸事を決めたのでは遅すぎるのです。まず保科家と文によるやり取りで粗方の事を決めていきたいと思っております。ゆえに、早く文を届ける者が必要のなのです」
「おります。それがしの息子の十五になる者をお使いください」
「若いですね」
「年の割に肝が据わっており、かつ慎重な性格の者です」
「良いでしょう」
阿茶は五郎衛門の次男・喜三郎を使いに遣ることを本多さまに話し、通行手形などを発行してもらった。
保科家には季節の贈答などで旧知の正室付き侍女がおり、多劫姫さまとも話が出来る関係だ。
阿茶はさっそくご息女の嫁入りが決まったことを言祝ぎ、花嫁衣裳・お道具の要望を尋ねる文をしたため、喜三郎に託して保科家の江戸屋敷へ送った。
そして栄姫さまの母方の祖母で多劫姫さまの実母である伝通院さまに、このたびの婚礼のことを知らせた。
「まあ、なんということ。今の正室を離縁して、栄姫を娶るとは。家を保つためとはいえ、黒田家も思い切ったことをなさる。気の毒なのは蜂須賀家の姫です。栄姫も、そんな事情で継室となって、婚家で肩身の狭い思いをしないかしら」
伝通院さまは孫娘のために嘆いた。
「わたくしどもは、殿の決定に従うのみでございます。つきましては、婚家で栄姫さまがつらい思いをなされぬように、お道具やお衣装を恥ずかしくないよう調えなくてはなりません。しかし今までのようには時間に余裕がなく、伝通院さまのお力をお貸しいただきたく存じます」
「ええ、もちろん。孫のために何でもいたしましょう」
言質を取ってから、阿茶は出入りの商家の手代たちを招集した。
奥向きへ出入りする主要商家の三家は、翌日の午後には広敷に集まった。
商人たちと相対する部屋で、広敷役人と侍女の幸を脇に置き、阿茶は自ら黒田家との婚儀のことを説明した。
「嫁入りの品々を早急に用意せねばなりません。江戸の保科家へ姫さまのお好みなどを問い合わせておりますが、そなたたち、婚礼の行われる五月五日までに間に合うでしょうか」
阿茶の問いかけに、茶屋の手代・新次郎が答えた。
「間に合わせるのが、我ら商人でございます。お道具類でしたら、余分に一式作ってありますゆえ、お好みでそれにつけ足したり、取りのぞいたりしたりすればよいだけのこと」
「まあ、余分に。とは?」
「いえ、徳川さまのことですから、今後も婚礼があるやもしれぬと、話し合っていたところでございます」
亀屋と松木家の手代も、うなずいている。
(なるほど。商家なりに時勢を見ておるということか)
「さすがですこと。では、江戸の保科家の注文が分かってから、お道具・お衣装の相談をいたしましょう」
阿茶が笑み、告げると、三人の手代は頭を下げた。
一方、五郎衛門の息子・喜三郎は、早くて片道十二日、往復二十四日かかるところ、十三日で江戸から戻って来た。
「ありがたいこと」
保科家からの文を受け取った阿茶は、さっそく伝通院さまの許へそれを持っていき、二人であらかじめ花嫁道具等のことを決めて、商家の手代たちを呼び、注文した。
再び御簾越しであるが、伝通院さまは孫娘のため、多劫姫さまの要望に基づいて、お衣装の柄など指図してくださった。
やがて栄姫さまの一行が大坂に着いたのは、四月二十日のことだった。
それまでに、阿茶は黒田家の情報を集めておいた。
黒田長政の曽祖父・黒田重隆は備前国から播磨国に入り、守護の赤松氏の重臣・小寺氏に仕え、信頼を得て姫路城代となった。主君の養女を妻とした祖父・職隆には主君の小寺姓名乗ることが許された。
父・官兵衛(孝高)もまた、主君の従姪で養女の櫛橋光を妻に迎え、三代続けて姫路城代となった。長篠の戦で武田氏を破った織田信長を高く評価していた官兵衛は主君に、織田氏につくべきだと進言し、羽柴秀吉の取次によって、信長に主従ともども謁見した。
天正五年(一五七七)、播磨の諸侯に織田信長が人質を出すよう命じた際、主君・小寺政職は嫡子が病弱であることを理由に、官兵衛の嫡子で十歳の松寿丸(長政)を代わりに出し、羽柴秀吉に預けた。
翌天正六年(一五七八)、織田信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻す。
官兵衛は懇意であった村重を説得するために居城の有岡城へ乗り込むが、かえって監禁される。戻らない官兵衛を疑った信長の命令で、松寿丸は処刑されることになった。しかし、官兵衛の朋輩・竹中半兵衛(重治)の機転によって匿われた。松寿丸は父・官兵衛が一年半後に救出されて、裏切りの疑いが晴れたので、姫路へ帰ることができた。
同じ天正六年から播磨の別所長治が周辺の国衆を引き込んで織田信長と対峙していた。官兵衛が荒木氏に監禁されている間に主君の小寺氏もそれに呼応しており、天正八年、羽柴秀吉が別所長治の三木城を陥としたのち、主君の小寺政職も討伐され、大名としての小寺氏が滅んだため、もとの黒田姓に戻した官兵衛は羽柴秀吉の与力となった。
天正十年(一五八二)に本能寺の変で織田信長が亡くなると、十五歳の長政も父と共に秀吉に仕えた。その後、羽柴秀吉の数々の戦で武功を挙げ、天正十七年(一五八九)、父が隠居し、如水と号したので家督相続を許された。二十二歳のときであった。
豊臣秀吉の家老・蜂須賀正勝の娘、糸姫との婚儀は、天正十二年(一五八四)、長政十七歳、糸姫十四歳のときである。
秀吉は家臣の中で特に重きを置いていた蜂須賀家と黒田家を縁組させるために、糸を養女とし、婚儀のときは花嫁の手を秀吉自らが取って、お目見えさせ、舅の黒田官兵衛に渡すという厚遇をした。しかし長く子に恵まれず、慶長二年(一五九七)に、やっと女の子が生まれた。
(初めての御子を授かったのは、長政さま三十歳、糸姫さまが二十七歳のとき。糸姫さまは今年、三十歳におなりなさるか。次の子は、なかなか難しそうじゃの。長政さまには十四歳離れた同母の弟君があられたが、朝鮮の役のとき、慶長二年に、父君と兄君の陣中見舞いに行かれ、海難事故に遭って亡くなって、他にご兄弟はおられぬ。そのため、黒田家の血統は長政さまの御子のみとなった。家の存続は長政さまに男子が生まれるかどうかにかかっている。黒田如水さま、長政さま父子は共に切支丹。教えによって一夫一妻であるゆえ、男子がなければ離婚もやむなし、とのことか。加えて、昨今の情勢で、豊臣家の養女を正室にしておると、あらぬ疑いをかけられぬやもしれぬ)
と、阿茶は黒田家の立場を理解した。同時に、糸姫の心も慮る。
(五歳のかわいい盛りの御子を残して婚家を去るのは、さぞおつらかったじゃろうなあ)
気の毒に思えども、その継室となる栄姫さまも、幸せになってもらいたい。
(どうするか……)
思案したのち、黒田如水の正室で長政の母のことに思い至った。
(夫と子息は切支丹だが、如水さまの妻の光さまは熱心な浄土宗の信徒と聞く。浄土宗なら、徳川家と同じ。また、光さまは家中で、『才徳兼備』とたたえられた御方。栄姫さまにとって、良き姑さまとなろう)
大坂城西の丸に侍女たちと共に着いた栄姫さまは、殿にご挨拶したのち、奥に渡り、母方の祖母・伝通院さまと会った。
「まみえるのは初めてですが、多劫姫からの文で、そなたのことはよう知っております。美しゅうお育ちになられましたね」
伝通院さまは十六歳の娘盛りの孫を見て、涙を浮かべた。
「おばあさま、初めてお目にかかりますが、母からおばあさまのことは聞いておりまして、初めてお会いしたようには思われませぬ」
落ち着いた声で、栄姫さまは答えた。
姫の母君・多劫姫さまは、三度結婚している。
安祥松平家(徳川家)に敵対的だった桜井松平家に、三河一向一揆で桜井松平家が敗れ、従属した際、桜井松平家四代当主・松平忠正に嫁いだ。そこで嫡男の亀千代(家広)をもうけるが、天正五年(一五七七)に忠正が三十四歳で亡くなると、家督を継いだ弟の忠吉の妻となり、男子を二人(信吉、忠頼)産んだ。しかし忠吉は天正十年(一五八二)に二十四歳で亡くなり、実家へ戻ることになる。そして天正十二年(一五八四)、信濃国高遠城主・保科正直と再再婚した。
保科正直は武田氏に仕えていたが、武田氏が滅亡すると、北条氏に属した。そのとき、武田氏重臣・跡部勝忠の娘である正室を人質として差し出した。ところが黒駒合戦によって徳川氏が優位となると、他の信濃衆と共に徳川方に味方した。これによって、人質だった正室は北条氏によって殺された。
多劫姫さまはその保科正直の継室として嫁いだ。二男四女に恵まれ、そのうちの一人が栄姫さまである。
(母君の多劫姫さまが多産というのも、黒田家にとって魅力的だったのだろう)
栄姫さまが黒田家で上手くやっていくにはどうしたらいいか、あれこれ考えていた阿茶だが、作為なんてしなくてもよいのではないか、と栄姫さまと会って考え直した。
栄姫さまは、凛々しい容姿で物怖じしない姫君だった。父君似なのかもしれない。
〝英雄、色を好む〟というが、有能な武将の黒田長政さまは三十三歳の男盛り。十六歳の美少女を前にして無視できるだろうか。むしろ、溺愛するのではないか、と思う。
だから、栄姫さまと伝通院さまには黒田家の家風と家族構成、そして婿君の長政さまの武功と「熟慮断行」の気性について話し、黒田家についていく乳母や侍女たちにはそれらに加えて前妻との離縁の経緯を語り、姫さまを護るよう伝えた。
西の丸で暮らし始めた栄姫さまは、年が近いこともあって蓮姫さまとすぐに打ち解け、お茶事の練習に付き合うようになった。
お輿入れのためのお道具、お衣装も納品され、お披露目があった。
お衣装は他の姫君にも劣らぬ華やかさで、伝通院さまをはじめ、側室方、侍女たちも皆が褒めそやし、栄姫さまも気に入った柄の小袖があったようで、選んだ祖母の伝通院さまへお礼を申し上げていた。
そして月が替わり、婚礼の日となった。
花嫁の白い衣装を身に着けた栄姫さまが伝通院さまへ別れを告げ、奥にやってきた殿に別れの挨拶をし、奥向き用に設けられた玄関で輿に乗る。
出立を告げる係の者の声に合わせ、花嫁行列が動き出した。
「姫さま。どうか、お幸せに」
門出を見送る人びとの一人として、阿茶は餞の言葉を贈った。
栄姫さまがお嫁にいかれたあと、なんとなく寂しい気分が奥全体に漂ったが、蓮姫さまの花嫁道具が搬入されると、また華やぎが戻って来た。蓮姫さまのご要望で祖父君の源斎こと松平康忠さまが抹茶茶碗などお茶道具を仕立てて贈ってくれたのだ。
蓮姫さまのご婚儀は六月中旬の予定だったが、世間では上杉討伐の流れが止まず、六月一日に繰り上がった。翌日に軍議があるため、婚儀をその前に済ませたいという有馬側の要望だった。
「なんとも慌ただしいことですね」
こぼしながらも矢田姫さまは孫娘のため、婚礼の準備に目を光らせていた。
そして六月。暑い日差しの中、蓮姫さまは嫁いでいかれた。
「姫さま。どうか、お幸せに」
阿茶は花嫁行列を見送りながら、つぶやいた。
矢田姫さまも涙を流しながら、同じく行列を見送っていた。このあと、夫君の住む京へ出立する予定だ。
五人の姫君が輿入れしたあと、阿茶は密かにその後を配下の者たちに調べさせた。
かな姫さま、満天姫さま、万姫さま、栄姫さま、蓮姫さま、それぞれ婚家の人びとに受け入れられ、幸せにお暮しだと報告を受け、阿茶は安堵の息を吐いた。
その一方、大きな戦が始まろうとしていた。
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この時期嫁いだ姫君たちのその後は――
加藤清正は、かな姫が輿入れしたとき、すでに正室と嫡男を亡くしていたが、側室が何人もおり、二年前には長女・あま姫が、前年には次男がそれぞれ生まれていた。
かな姫はすぐに懐妊し、翌年、息女・八十姫を熊本(隈本)で産む。同じ年に側室が三男を産むのだが、次男の忠正は慶長十二年(一五〇七)に九歳で亡くなったため、三男の忠広が家督を継ぐことになった。
かな姫は嫁ぐと清正が信仰する法華宗(日蓮宗)に帰依し、熱心な信徒となり、夫婦仲は良かった。徳川家と加藤家の絆を強くすることに力を尽くし、長女のあま姫を徳川譜代の重臣・阿部正次の嫡男の政澄に嫁がし、徳川秀忠の養女(蒲生秀行と振姫の娘)を加藤家世継ぎの忠広の正室に迎えた。
かな姫の娘・八十姫は、徳川家康と父・加藤清正の合意によって慶長十四年(一六〇九)、家康の十男・頼宣(のちの紀州藩祖)と婚約し、家康と父が亡くなったあと、二代将軍の命によって母の兄、福山城主・水野勝成の養女として、元和三年(一六一七)正月、十七歳で駿河の駿府藩主だった徳川頼宣と結婚した。
慶長十六年(一六一一)六月に加藤清正が亡くなると(脳溢血と思われる)、かな姫は清浄院と称し、十一歳の忠広を支えて加藤家をまとめていこうとしたが、忠広は暗愚であり、長じても家臣団を統率することが出来ずに御家騒動を引き起こし、また徳川家の血筋である正室と嫡男を疎かにし、側室とその子らを溺愛するなど国政・家中に問題多く、嫡男の光広が諸大名の名と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだことをきっかけに、幕府に無断で側室とその二人の子どもを国許に連れ帰り、将軍家以外の者と親戚関係を作ってはならない、という武家諸法度の第八条の違反などが発覚し、寛永九年(一六三二)五月、改易となった。
加藤家の改易後、かな姫こと清浄院は、加藤清正の京における菩提寺の本圀寺の門前に住み、夫の後世を祈って余生を送り、明暦二年(一六五六)、七十五歳で亡くなった。
福島正則の養嗣子・正之に十一歳で嫁いだ満天姫は、十八歳のとき、男子を出産した。夫の正之は慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦のとき、竹ヶ鼻城や岐阜城攻めで軍功を挙げているが、慶長十二年(一六〇七)、養父の正則から「乱行を行うなどして狂疾である」と幕府に訴えがあり、幽閉され、翌年二十四歳で死去した。
夫の死後、子を産んだ満天姫はその子を連れて、実家に戻った。
一方、養父の福島正則は、重臣の娘である妻との間に男子を三人もうけるものの、長男は早世し、次男・忠勝、三男・正利を産んだ正室は三男の出産のとき難産で命を落とす。その三年後、慶長九年(一六〇四)に徳川家重臣の牧野康成の娘が家康の養女として福島正則に嫁ぎ、三人の女子をもうけた。
家康の死後、元和五年(一六一九)、城を幕府の許可なく修繕したことを武家諸法度違反に問われ、福島家は安芸・備後五十万石を没収され、信濃と越後にある四万五千石の高井野藩に減転封された。このとき、政則は忠勝に家督を譲って隠居した。
福島家改易後、正室は三人の娘を連れて実家に戻り、娘たちは長じてそれぞれ徳川家の旗本の家に嫁した。
元和六年(一六二〇)に家を継いだ福島正勝が早世。政則自身も寛永元年(一六二四)に六十四歳で死去した。福島家は一旦取り潰されたが、幕府は三男・正利に旧領から三千余石を与え、旗本とした。
福島家がこのような過程をたどる前、夫・福島正之の死後六年経ち、満天姫は慶長十八年(一六一三)、津軽家へ再嫁することになった。弘前藩主・津軽信枚の崇敬を受けていた天海僧正の進言を受けた家康の命による。
しかし津軽信枚は、石田三成と縁が深く、三成の三女・辰姫を高台院の養女として、正室に迎えていた。
徳川家の満天姫を迎えるにあたり、津軽家は辰姫を側室とし、飛び地領の上州大舘村(群馬県)へ移した。ところが信枚は辰姫が忘れられず、参勤交代のたびに大舘村の辰姫の居館へ寄り、過ごしていた。その結果、元和五年(一六一九)に辰姫は男子を出産し、満天姫も翌元和六年に男子を産む。
辰姫は子の平蔵が四歳のとき三十二歳で亡くなったため、平蔵は江戸藩邸へ迎え入れられる。
信枚は平蔵を次の藩主としたいがために、それを満天姫に懇願した。結局、姫はその意を汲み、平蔵は寛永八年(一六三一)に信枚が亡くなると跡を継いで第三代藩主・津軽信義となった。
満天姫と福島正之の子は弘前藩家老・大道寺直英の養子となり、大道寺直秀と名乗る。津軽信枚との子は、弘前藩の支藩・黒石藩の祖の津軽信英となった。
信枚の死後、満天姫は葉縦院と号し、寛永十五年(一六三八)、弘前でその幸薄い生涯を終えたのだった。
九歳で蜂須賀家に輿入れした万姫は、穏やかな生涯を送った。
嫁いでから法華宗の日精に帰依し、三人の子――池田忠雄に嫁いだ三保姫、嫡男・蜂須賀忠英、水野成貞に嫁いだ萬――に恵まれた。しかし、もう一人の母ともいえる姑(ヒメ・慈光院)は嫁いだ六年後の慶長十一年(一六〇六)に四十三歳で没した。
六歳年上の夫・蜂須賀至鎮は病弱であったが、聡明で、関ケ原合戦、大坂の陣で武功を挙げ、領国の阿波・淡路で治水と塩田開発などを行い、名君と称えられたが、父・家政より十九年も先に元和六年(一六二〇)、三十五歳で亡くなった。蜂須賀家は嫡男の忠英が継いだ。
万姫は夫の死後、敬台院と称し、菩提を弔いつつ過ごし、寛文六年(一六六六)、死去する。七十五才だった。
黒田長政に嫁いだ栄姫は、慶長七年(一六〇二)に嫡男を産んだのを始めとして、三男二女に恵まれた。
長男で後に福岡藩二代藩主となる忠之を懐妊したとき、栄姫は上方にいたのだが、舅の黒田如水が「医師の多い京で産むより初めての子は故国で産んで欲しい」との願いで、豊前国中津から移ったばかりの筑前国福岡で産んだ。次男・長興は秋月藩の藩祖、三男・高攻は東蓮寺藩の藩祖、次女・徳姫は榊原忠次の正室、三女・亀子は池田照興の正室となった。
前妻の蜂須賀家の糸姫が産んだ長女の菊子は、黒田家の家臣の許へ嫁いだ。
糸姫の離縁によって、黒田家と蜂須賀家は百二十七年間、不仲となった。
舅の如水は慶長九年(一六〇四)三月に五十九歳で亡くなり、夫・長政は元和九年(一六二三)に、五十六歳で身まかり、大涼院と号した栄姫は、二十二歳であとを継いだ嫡男・忠之と家臣たちが対立した御家騒動を乗り切り、寛永四年(一六二七)には姑の光こと照福院を送り、自らは三代将軍家光にお目見えする孫(光之)に病身を押して付き添い、間もなく寛永十二年(一六三五)に黒田家の江戸藩邸で亡くなった。五十一歳だった。
蓮姫が嫁いだ有馬豊氏は、関ケ原合戦では東軍に与し、後ろ備えの功により、三万石を加増され、丹波国福知山六万石に転封され、慶長七年(一六〇二)に父・則頼が亡くなると、その遺領の三田二万石も継承し、八万石の大名となった。慶長十九年(一六一四)の大坂の陣でも徳川方として戦って軍功を挙げ、元和六年(一六二〇)十二月に筑後国久留米に二十一万石に加増転封され、国持ち大名となった。
蓮姫は慶長八年(一六〇三)に嫡男を産み、その後も二人の男子(信堅・頼次)を産んだ。
一方で側室たちが産んだのは、何故か女子のみであった。
夫・豊氏が寛永十九年(一六四二)に七十四歳で亡くなり、嫡男の忠頼があとを継いだのを見届け、慶安五年(一六五二)、七十一歳で死去した。
読んでくださり、ありがとうございます。
また少し間が空きます。次は『関ケ原合戦』となります。




