太閤の死 1
江戸から伏見屋敷へ戻ってすぐ、阿茶は秀忠さまに挨拶するため、若夫婦の屋敷を訪れた。元気になった若殿を目にして安堵し、次に御新造さまの許へ行ってご機嫌伺いをし、本邸へ戻って来てからは殿の生母・伝通院さまの許へご挨拶に赴き、西郡の方さまの許へ行ったときには江戸の様子を話した。そして、お竹の方さまの許へ挨拶に行った阿茶へ、御方さまは嘆いた。
「振の夫となる蒲生さまがとうとう減封されて宇都宮へ移されました。九十一万石から十八万石に減らされたのですよ。母君の相応院さまに横恋慕して振られた腹いせもあるとか。太閤ともあろう方が、なんという為されようでしょう」
世間では、好色な太閤が蒲生氏郷さまの妻で織田右府さまの次女の正室さまに袖にされた嫌がらせだと噂している。それを侍女たちから聞いたのだろう。
けれども実際は、文禄四年(一五九五)に父君の氏郷さまが急死し、十三歳で家督を継いだ鶴千代君が若年のため、重臣たちを統制できず、総石高の過少申告をし、このときは当時の関白秀次が相続を認めたものの、翌文禄五年に元服してから藤三郎秀隆(のちに秀行と改名)と名乗ったあと、重臣たちの対立から御家騒動が勃発したため、東国の抑えである会津を任せられないとの太閤の判断での移封であった。
「おかあさま、わたくしは石高と結婚するのではありませぬ。藤三郎さまに嫁ぐのです」
阿茶が答える前に、傍らに控えていた十六歳の振姫さまが母君をたしなめた。
(姫さまの方が、肝が据わっておるな)
さすが殿の血を引いておられる、と阿茶は感心した。
「お竹の方さま、ご安心召され。太閤がどのようなことをしようとも、殿が娘婿を見放すことなどありませぬ」
と、阿茶は母子を安心させるために微笑んだ。
婚礼が十一月なのは変わりなく、準備は着々と進んでいる。
御家騒動を理由に蒲生秀行を下野国宇都宮に移したあと、慶長三年一月十日、太閤秀吉は越後の上杉景勝に陸奥国会津へ転封を命じた。
旧領の越後・北信濃の城の受け取り、会津領の城の蒲生氏からの受け取りと上杉氏への引き渡しは、石田三成が派遣されておこなった。
太閤は上杉景勝に、「家中、侍は申すに及ばず、中間・小者に至るまで奉公人は残らず召し連れるべく候」と命じ、一方で検地帳面に載せられた百姓は残せ、と言ったので、田畑を耕しながら奉公していた者たちの住んでいた村は、幾つか廃村となった。有力家臣たちは菩提寺や神社も移した。
振姫の夫となる蒲生秀行の父・秀郷は、近江国の守護大名・六角氏の重臣の子に生まれ、六角氏が没落すると織田信長に蒲生氏が臣従する証として、信長に人質に出された。そこで信長に見いだされ、次女を妻とし、数々の戦に参陣して武功を挙げた。織田信長の死後は羽柴秀吉に従い、伊勢国の領主となり、奥州仕置ののち、奥羽の抑えとなるため、陸奥国会津に移された。千利休の弟子であり、切支丹でもあった。そのため、会津の領民にも改宗を勧め、教会やセミナリオが城下にあった。
その地に、上杉景勝は本拠地であった越後から移されたのだった。
「何事か起こったとき、関東の徳川の背後にいる上杉は敵となります」
本多正信さまが阿茶に言った。
「何もなければ、良いのですが」
天下統一を成し遂げた太閤が死ぬことになれば、また乱世に逆戻りしかねない。
阿茶も自分なりに情報を集め、〝そのとき〟奥の女たちをどう守るかを考えておくことにした。
五月に入ってから太閤は床に伏せるようになった。三年前に甥の秀次を切腹に追い込んだのち定めた五大老五奉行の制は、このとき考えられるかぎり、幼い秀頼を支える最良の形であった。
病がますます重くなると、太閤も死期を覚ったのか、七月四日に伏見城へ諸大名を呼び寄せた。
すでにその場での秀頼さまと千姫さまの婚約の内意があったので、阿茶は民部卿局と幼い千姫さまを抱いた乳母と一緒に殿の一行に付いて登城した。
指月の丘に築いた城は地震で崩壊し、すぐ近くの木幡に造られた二つ目の伏見城であった。黄金の瓦が陽にきらめき、山頂に本丸、西の丸、名護屋丸、日下部丸などから成っている。駕籠に乗って大門を潜り、女たちは殿の一行と別れて奥へ通ずる門を通って玄関前で駕籠を降りた。お付きの小者たちをそこに残し、阿茶たちは玄関から邸内へ入った。
案内はきらびやかな衣装を身に着けた女童であった。童といっても、十三歳から十五歳くらいの美少女である。
(武家であれば、小姓か奥女中であろうが、ここは公家風に女童を召し使っているのか)
と、阿茶は豊臣家の家風を観察している。
屋内の襖絵には金が惜しみなく使われ、花鳥風月が色鮮やかに描かれている。
千姫を擁した阿茶たち徳川家の上臈女房たちは、別室で待ったのち、使いの女房に呼ばれて謁見の間に入った。
上座に脇息へ寄りかかった太閤が坐っていた。痩せ衰え、目だけがぎらぎらしている。その隣に、色白で下膨れの顔をした童子がいた。秀頼さまであろう。
太閤の前に、殿と秀忠さまがいる。他の大名たちはその後方に控えていた。
異様な雰囲気だったが、千姫さまが泣き出すことはなかった。
太閤が手招きするので、民部卿局と千姫さまを抱いた乳母が進み、阿茶はそのあとに付いて行った。
「江戸中納言(秀忠)を我が息子の舅とするので、内府(家康)が年をとり、病になったら、中納言は内府のように息子の面倒をよく見てほしい」
と、太閤が告げた。
太閤は六十二歳。殿は五十七歳。
殿も自らとほぼ同世代なので、太閤は徳川家の秀忠さまに秀頼さまの後見を頼みたいというのだ。
太閤の傍らには白装の孝蔵尼さまが控え、その指図で女房たちが祝膳と盃台を持ってくる。
祝膳が置かれると阿茶より少し年上で化粧の濃い女が進み出て、盃を秀頼さまに持たせ、飲む真似をさせた。次に千姫さまへ盃を差し出す。
(千姫さまは、つかまり立ちを始めたばかり。無理でしょう)
と、見守っていた阿茶は思ったが、乳母が上手く手を添えて盃に姫の唇を当てた。
千姫さまは何かの遊びかと思ったのか、「きゃっきゃっ」と笑った。
太閤も破願し、「めでたや、めでたや」と上機嫌になった。
こうして六歳の婿君と二歳の嫁君の婚約式は終わり、阿茶たちはそこを退出した。
控えの間に戻った阿茶は、盃を勧めた女房の名を民部卿局に訊くと、「西の丸さまの乳母の大蔵卿局さまでございます。太閤さまのご信頼もたいそう篤い御方でございますよ」と、教えてくれた。
(豊臣家の奥で権勢ある者じゃな)
阿茶はその顔をよく覚えておいた。
伏見城から一行が徳川屋敷へ戻ってから、阿茶が本多正信さまに使いをやり、太閤との会見の様子を訊くと、やってきて語ってくれる。
「太閤は、秀頼さまが成人して政を担えるようになるまで、殿に政権を委ねるが、成人後は返すことを約束してほしく、盟約を強固にするため、秀頼さまと千姫さまを婚約させて縁を結びたい、と仰せられ、殿が応じられたので、このような次第となったのでござる」
「ま、太閤ともあろう方が、そのようなこと本気で思っておられるのですか」
自分も織田家から主君が亡くなったあと、巧妙に天下の権を奪ったのに。
「殿の律義さを見込んで、『藁をもすがる思い』なのでしょうな」
乱世を生き抜いてきた大名は殿だけではない。その方たちが今後どのように動くか。
他に五人の衆(五大老)――殿、前田利家さま、毛利輝元さま、上杉景勝さま、宇喜多秀家さま――には、秀頼さまを補助することと重要な政策は合議で決めることとし、五人の者(五奉行)――前田玄以さま、浅野長吉(長政)さま、増田長盛さま、石田三成さま、長束正家さま―――には、これまでのように実務を執るように、太閤は申し渡した。長束さまが豊臣家の財政、前田さまが朝廷・寺社を担当し、他の三人は政全般を行うという。
また、伏見城には殿が、大坂城には前田利家さまがいて、殿は庶務をし、前田さまは秀頼さまの守り役をするように、伏見城の留守居役は前田玄以さまと長束正家ともう一人とすること。秀頼さまが大坂城へ移ったら、武家衆も妻子を大坂へ移すこと等。
「右筆あがりの前田民部どのと織田家宿老の丹羽長秀さま旧臣の長束どのは、殿の監視役ですな。前田大納言さまは娘を太閤の側室と養女に出しておりますから、身内同然。宇喜多秀家さまは幼い頃より太閤に可愛がられ、前田大納言さまの実娘で太閤の養女を正室に迎えておりますから、こちらも身内のようなもの。上杉さま、毛利さまは昔から太閤のお味方で、皆で殿を押さえ込もうという意図がもう、あからさまですなあ」
本多さまが皮肉っぽく笑う。
政は合議制、領地を与えることは秀頼さまが成人してから。私的な婚姻の禁止等々。
(六歳の秀頼さまが成人するまで、こんなこまごまとした取り決め、大名たちが守るかしら)
「……どうなろうとも、まずは内を固めておかなくては」
阿茶の言葉に、本多さまもうなずいた。
太閤の命で諸大名、五大老五奉行の間において、秀頼に忠義を尽くすことを誓う誓詞が交わされ、起請文に血判も押された。
八月八日には、大老筆頭の徳川家康と大老で秀頼の守り役の前田利家が枕頭に呼ばれ、後事を託された。この間、寺社では病気平癒の祈祷が続けられ、十七日には、方広寺の本尊として伏見地震で壊れた大仏の代わりに祀られていた善光寺如来が元の地に戻された。太閤の病気は、善光寺の仏を勝手に移したことによる祟りだと噂されたからだった。しかし翌十八日の夜中、太閤秀吉は誰にも気づかれず、ひっそりと亡くなった。
死は秘された。
太閤の死の翌日、十九日の午前、阿茶はその死去を知らないまま土井利勝さまの訪問を受けた。
人払いを希望されたので、部屋には二人だけだ。
「これは、しばらく他言無用に願いとうございます」
「承知いたしました。それで、何用ですか」
あのいたいけな少年が胆の据わった若者になったこと。
と、小さい頃から知っているためか、親戚の子を見るようなしみじみとした思いだ。守世と志摩の結婚に世話を焼いてくれて以来、間近で言葉を交わすのは久しぶりだが、徳川家世継ぎの側近としてますます重みを増したようだ。若いのに貫禄がある。殿に似ていると言われるのがよく分かる。
「まずは、ご子息の神尾五兵衛守世どのを危険な任務に就かせたことを謝罪いたします」
土井さまが頭を下げた。
「とは?」
阿茶の問いかけに、面を上げた土井さまが答える。
「昨日未明、太閤殿下が逝去されました」
阿茶は、息を飲んだ。とうとうその時が来たのだ。
「殿はお見舞いのため登城する途中、石田治部少輔さまの使者からそれを知らされました。ご遺体は石田さまをはじめとする奉行衆によってすぐに密葬されたそうです。今、太閤殿下の死は秘密にされておりますが、人の口に戸は立てられないようで、京の町民や寺社の者たちには知れ渡っており、京中の噂となっております。そこで不測の事態を憂慮した若殿の付年寄の大久保(忠隣)さまが、密かに今日の夜明け前、自らの馬で若殿を送り出しました」
「供は誰を?」
「道案内と馬の口取りの伊賀者数名に、與四郎(酒井忠世)と新十郎(大久保忠常)が遅れて付いております。今頃は伊賀国に入っていることでしょう。若殿の一行は、伊勢大湊から角屋の船に乗り、江戸へ向かう予定です」
「……殿の『伊賀越え』のようですね」
「危険といえば、そうですが、あのときのように落ち武者狩りなどありませぬゆえ、まだまし、というところでございます」
「それで、守世はどのような役割をするのですか?」
「神尾どのには、若殿の影武者となって陸路で京を出てもらいます。もちろん、我々も付き従いますが、豊臣方に捕らえられるやもしれません。大名の妻子は在京する決まりとなっておりますから」
「当然、殿はご存知でしょうね」
「はい。父と子、共倒れになるよりは、江戸と京に別れ、危険を分散させる方が良いと判断され、大久保さまの進言を受け入られたようです。この計画で、一番危ないのは、守世どのです。若殿の偽物と知れて殺気立った奉行衆の差し向けた兵が何をするか……」
「おやおや。徳川の侍ともあろうものが、上方の弱兵に負けると?」
「まさか。そのようなことはございません!」
阿茶がからかい気味に言うと、土井さまが眦を上げて反論した。
「ならば、よし。その気概でお行きなさい。守世については、『あとのことは母にまかせて、若さまのお役に存分に立ちなさい』と伝えてください。我ら母子は殿に拾われ、今の身分となりました。ご恩返しをする機会を得て、これ以上ない喜びです。息子が若さまの〝影〟を務めるとは、なんと名誉なことでしょう」
そう答えると、土井さまは神妙な顔をした。
「……阿茶局さまの腹の据わり具合は一軍の将にも匹敵します。確かに、お言葉伝えましょう」
と、土井さまは苦笑して頭を下げた。
「そしてこれを……」
と、懐から藤色の袱紗に包んだ文を取り出した。
「若殿から御新造さまへ宛てた物でございます。『よんどころなき事情があって、そなたに何も告げずに京を去ることを許してくれ。いずれまた一緒に暮らせる日が来ようから、それを待っていてほしい』という内容です。ただ、これは阿茶局さまから今日の夕餉前くらいに御新造さまへ渡していただきたいと存じます」
「若さまはそのころには伊賀国の服部家……宝台院(お愛の方)さまの養家・蓑家が伊賀に所有する屋敷にでも着いておるということですか」
「察しのよいことで。いずれ、豊臣方へ御新造さまのお付きの者どもから、秀忠さま出奔のことが伝わるでしょう。その時間稼ぎをお願いしたいのです」
「わかりました」
阿茶が了承すると、土井さまは辞去した。




