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四、回想二
エチオピアの王妃であるカシオペアは、美貌の持ち主として知られていた。
だが同時に、自分の美貌に過剰な自信をもっていた。
ある日、カシオペアは人々の前で、こう言った。
――私は、海に住む精霊であるネレイスたちよりも美しい。
ほんの軽い気持ちで口走った言葉ではあったのだろう。だが、天の神々がこれを聞き逃すはずはなかった。
ネレイスの一人であるアムピトリテも、例外ではなかった。
彼女はカシオペアの言葉に立腹し、自分の夫である海神ポセイドンにその内容を告げた。
怒り狂ったポセイドンは、エチオピアに海の怪物ケートスを差し向け、エチオピアの町に壊滅的な打撃を与えさせた。
多くの犠牲に胸を痛めたエチオピア王が神に伺いを立てたところ、「罰として、娘のアンドロメダを生贄として差し出すように」との神託が下った。
こうして、若き王女であるアンドロメダは、海岸の岩場に鎖で繋がれることとなった。
そこにたまたま通りかかったのが、怪物メデューサを退治して帰路についていたペルセウスだった。
空駆ける馬ペガススに乗ったペルセウスは、美しい娘が鎖に繋がれていることに気がついた。
怪訝に思ったペルセウスは町に降り立つと、人々に理由を聞いて回った。
美しい娘の正体はアンドロメダであり、彼女が神への生贄であるという事情が飲み込めたペルセウスは、自分に怪物を退治させてほしいと王に申し出た。
王は、半信半疑ではあったが、藁にも縋る思いで青年の申し出を受け入れた。
王の許しを得て海岸に赴いたペルセウスは、アンドロメダの前に現れたケートスに対してメデューサの首をかざし、ケートスを石に変えてしまった。
こうして、アンドロメダは一命を取り止めた。
喜んだエチオピア王は、アンドロメダとペルセウスの結婚を認めた。
こうして二人は結ばれ、幸せを手に入れた。
その後、ペルセウスとアンドロメダは神の手で天へと上げられ、星座となった。
*
大学は、試験後の長期休暇に入っていた。
多くの学生は、実家に帰省していた。
しかし、実家がマンションからそれほど遠くない陽太と美羅は、普段から時折、実家に顔を出している。
そのため、陽太と美羅は、長期休暇だからといってとくに帰省することもなく、今まで通りに多くの時間を陽太のマンションで過ごしていた、
その日、美羅は夕方から知人に会う予定になっていた。
だが、運が悪いことに、彼女は体調を崩していた。どうやら、軽い風邪のようだった。
今は、病院に行っている。
「病院、一緒に行こうか」と尋ねたが、「ううん、一人で大丈夫。帰りに、ちょっと寄りたいところもあるし」と、やんわりと断られた。
美羅は、普段は向こうから擦り寄ってくるくらいの態度を取るのに、ときどき思い出したように素っ気なくなる。
その度に、陽太の心の中には小さなさざ波が立つ。だが、考えてみれば、それも美羅の魅力のひとつだった。
美羅が帰ってきたのは、十四時を過ぎた頃だった。
美羅は、病院から帰ってくるなり、力なく部屋のベッドに倒れ込んだ。顔色は、あまりよくなさそうだった。
「今晩、出かけないほうがいいんじゃない?」
心配になって尋ねると、美羅は「今日は、できれば行きたいの」とかすれ気味の声で答え、そのまま眠りに落ちた。
美羅が再び目を覚ましたのは、夕方の十六時を過ぎた頃だった。美羅は突然むくりと起き上がると、軽くシャワーを浴びて、身支度をはじめた。
「本当に大丈夫?」
陽太は驚いて、今一度、確認した。
洗面台の鏡の前で薄いピンク色の口紅を塗りながら、美羅は「うん、大丈夫。だいぶよくなったみたい」と振り向いた。
確かに、昼間よりは随分と顔色がよくなっているようだった。病院で処方してもらった薬が効いたのかもしれない。
玄関を出るとき、陽太が「無理しちゃ、駄目だよ」と念を押すと、美羅は陽太の顔を正面から見据え、明るく微笑んだ。
「心配しなくて大丈夫。ごめんなさい。行ってくるね」
玄関のドアを開けたとき、美羅はそう言いながら、陽太に対して再び、軽く笑いかけた。
その笑顔にはなぜか、微かな決意めいた思いが隠されているように思えて、陽太は何も言い返せなかった。
戸惑いを押し殺しながら、陽太はマンションの入り口まで美羅を見送ると、小さくなっていく彼女の後ろ姿を、無言のままで見送った。
*
玄関のドアを閉めて部屋に戻ったとき、スマートフォンが鳴った。
手に取って発信者を確認する。着信を知らせる通知バーには「翔」の一文字が表示されていた。
陽太がスマートフォンの通話ボタンを押すと、スピーカーからいつもと変わらない翔の声が響いた。
「先輩、お久しぶりです」
翔は、高校の天文部の後輩だった。一学年下なので、美羅と同じ学年にあたる。陽太が卒業した後の天文部の部長だったこともあり、たまにではあるが卒業後も連絡を取り合う仲になっていた。
美羅とつき合いはじめた後に明らかになったのだが、翔は美羅の幼馴染でもあった。
あれは、美羅との交際がはじまったばかりの頃だったろうか。翔とたまたま会う機会があり、美羅とつき合っている事実を告げた。
すると、翔が驚いた様子で言った。
「以前から、先輩が俺たちの同級生とつき合ってるって話は聞いてましたが、その彼女、美羅だったんですね」
意外な反応だった。
「彼女を知ってるのか?」
「知ってるも何も、彼女とは小学校と中学校もずっと同じで、仲もそれほど悪くなかったんですよ。まあ、男と女ですから、高校に入る頃にはただの知り合いみたいな感じになってましたけどね」
美羅と翔がそんなに近しい関係だったとは……。正直言って驚いた。
「世の中、狭いもんだなあ」
「そうですね」
そう言いながら、翔は目を細めて笑った。高校時代と変わらない、心の底を読みづらい不思議な笑顔だった。
そのような過去のできごとを思い出しながら、陽太はスマートフォンを握り締めたまま、翔の問いかけに答える。
「翔か。久しぶりだな。どうした」
「あれ、何だか元気がないですね。ひょっとして、美羅にフラれました?」
先輩を先輩とも思わない失礼な話しぶりは、相変わらずだった。ここで冷静さを失っては、相手の思うつぼだ。陽太は可能な限り、冷静さを心がけながら返事をする。
「美羅とは、上手くいってるよ。ご心配なく」
「そうですか、それならよかった」
本当によかったと思っているようには到底思えなかったが、陽太は気にしないことにして会話を進めた。
「それはともかく、用事は何だよ」
「そうそう、先輩、今日が何の日か知ってます?」
とくに、心当たりはなかった。
「いや……。いったい何の日だ?」
木星の衛星を発見したガリレオの誕生日だったろうか。いや、彼の誕生日は、確か陽太にはおよそ関係のないバレンタインデーの翌日だったはずだ。
翔は、少々呆れた口調で「ペルセウス座流星群の極大日ですよ」と答えた。
――そうだ。すっかり忘れていた。
ペルセウス座流星群とは、ペルセウス座を放射点として出現する流星群だ。数ある流星群の中でも現れる流星の数が比較的多く、しかも明るい流星が多い。そのため、初心者が観測しやすい流星群の一つとして、よく知られている。
ちなみに、流星群は数日続くことが多いが、そのなかで流星がもっとも多く見られる日を極大日という。
「今日、高校の天文部で、ペルセウス座流星群の観察会をやるらしいんですよ。俺、そこに先輩面して出席してみようと思ってるんですけど、もしよかったら、先輩も一緒にどうですか?」
一瞬、美羅の後ろ姿が脳裏をかすめた。
――美羅の体調が悪化したしたときのために、外出は控えたほうがいいのではないか。
しかし、後輩たちが催す流星群の観察会は、陽太にとって非常に魅力的なコンテンツだった。
しかも、出席する生徒たちは、美羅にとっても恐らくだが、可愛い後輩たちなのだ。話を聞いた美羅が、陽太の出席に反対するとも思えなかった。
――もし、外出先で体調が悪くなったりしたら、スマートフォンに連絡があるだろう。
――そのとき、すぐに美羅を迎えに行けば問題はないはずだ。
最終的には、その判断が決め手となった。
「で、場所は、どこなんだ?」
電話口で、陽太は尋ねる。
「さすがは先輩。そう来ると思ってましたよ。場所は、高校の第三校舎の屋上です。今から、車でお迎えに上がります」
こうして、陽太は翔とともに、母校での流星群観察会に参加することになった。
*
陽太と翔は、学校に到着すると、迎えのために校舎から降りてきた後輩とともに屋上に上がり、あらかじめ準備しておいたマットの上に仰向けに寝転んだ。
屋上は街灯よりも高い場所にあるため、寝転んでしまうと、見えるものは星の光以外にほとんどない。
だが、マットの上に陣取ったばかりの陽太の目は、まだ暗闇に慣れていないせいか、数個の一等星の姿しか捉えることができないでいた。
目が慣れるまでの時間つぶしといった感じで、何気なく耳を澄ませてみる。
周囲で同じように寝転んでいる女子生徒たちのひそひそ話が、漏れ聞こえてきた。「彼氏」、「告白」といった単語が聞き取れた。多分、ロマンチックな雰囲気に浸りながら、恋バナに花を咲かせているのだろう。
少し離れた場所に目を遣ると、数人の生徒たちが天体望遠鏡を交代で覗き、星を観察していた。
天頂に近い西の空を向いている望遠鏡の方角から推測すると、恐らくはくちょう座の一等星デネブ、わし座の一等星アルタイル、こと座の一等星ベガからなる巨大な三角形辺りを眺めているのに違いない。
改めて夜空を見上げると、暗闇に目が慣れてきたせいだろうか、透き通るように澄み渡った空一面に、星々が宝石のように輝いているのが見えた。
――綺麗だ。
星が見える幸せを全身で感じながら、陽太は空に全神経を集中させた。
時折、流星が光の筋を描きながら消えていった。その度に、陽太の胸は意味もなく高鳴った。同時に、集まった生徒たちから歓声と拍手が沸き起こった。
流星が消えると、我に返った陽太は、手を頭の後ろに組みながら翔に問いかけた。
「大学は、どうだ?」
「まあ、薔薇色とまではいきませんが、くすんだ鶯色ぐらいのキャンパスライフを、それなりには楽しんでますよ。それより、先輩の就職活動は、どんな感じなんですか?」
「ああ、インターンシップも、ようやく一段落した。これから先は、エントリーシートを提出したり、会社説明会に行ったりで、また忙しくなるよ。その後は、卒業論文もあるしな」
「就職活動って、大変なんですね」
翔は空に向かって手を伸ばしながら、まるで他人事のように笑った。
「来年は、お前も同じようになるんだぞ」
そうなると、こうして一緒に星空を眺めるなどという青春ごっこも、しばらくはお預けだ。
「そうですね。だったら、そのときまでは鶯色の世界でしっかり遊んどかなきゃ。青春は、一度きりですからね」
「何を、昭和世代の親父みたいな臭い台詞を言ってるんだか」
陽太が呆れると、翔はおもむろに上体を起こし、陽太に顔を向けた。
「それにしても、驚きましたよ」
「何だよ、突然」
「先輩が美羅とつき合いはじめたこと、ですよ。最初、話を聞いたときは本当にびっくりしたんですから」
「何だ、そんなことか」
美羅とつき合っていることを翔に話したのは、去年のことだ。今さらという以外に、表現のしようがなかった。
そんな陽太の戸惑いを知ってか知らずか、翔は急に真顔になった。
「美羅、高校時代のことを先輩に話したりします?」
陽太は思わず顔を上げ、翔の方向に目を向けた。
「何で、そんなことを聞くんだ?」
「いえ、ふと思いついただけですよ。別に深い意味はありません」
翔は頭を掻きながら、目を細めて笑った。その表情を何気なく眺めながら、陽太は考えた。
「そういえば、高校時代のことはあまり話さないかな。別に話したくないわけじゃないんだろうけど。まあ、機会がなかったんだろうな」
翔は「そうですか」と気のない返事をした。
自分から聞いてきた割には淡白な翔の返事に、陽太は少々、肩透かしを食らった気持ちになった。
そのときだった。
これまでの流星よりもはるかに明るい光の筋が夜空を横切り、そのまま地平線の彼方へと消えていった。
――今、美羅は、あの流星の下辺りにいるんだろうか。
今すぐ美羅のもとに駆けていって、力一杯抱き締めてあげたい。そう、強く思った。




