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三、回想一
フェニキア王の娘であるエウロパは、美しい娘として広く知られていた。
その比類ない美しさは、天の神々の耳にまで届いており、多くの神々がその美しさを讃えていた。
神々を統べる大神ゼウスも、その一人だった。
もともとゼウスは、神でありながら、美しい女性に惹かれがちな性格だった。
――エウロパと同じ時間を、同じ場所で、ぜひ過ごしてみたいものだ。
そう考えたゼウスは、ある日、地上に降りると一頭の白牛に変身し、エウロパに近づいた。
野原で花を摘んでいたエウロパは、目の前に突然、現れた大きな牛に驚いた。
しかし、すぐにその美しさに気がついた。
白く輝く毛並みに惹かれたエウロパは、牛に近づくと体を撫で、顔に頬を寄せた。
そうしている間にも、牛は暴れるどころか、熱い眼差しでエウロパを見詰めている。
好奇心旺盛なエウロパは、ほんの出来心で、牛の背中に腰を下ろしてみた。
すると、牛はエウロパを背中に乗せたまま、突然、走り出した。
驚いたエウロパは、振り落とされないように、必死の思いで角に掴まった。
牛は、速度を落とすことなく、平原を走り、山を登り、やがて海に到着すると、躊躇する素振りも見せずに水中を泳ぎはじめる。
やがて、クレタ島に辿り着くと、ゼウスは牛の姿から、本来の姿に戻った。
エウロパは驚き、同時に自分が故郷から遠く離れてしまったことを嘆き悲しんだ。
ゼウスは、そんなエウロパを慰め、彼女に愛を告白した。
そして、ゼウスが変身した牛は、後に天に昇り、おうし座となった。
*
話は、遺体の発見から一年半ほど前に遡る。
埼玉県にある帝洋大学の二年生である白石陽太は、十月のある日、大学近くのファストフード店のカウンター席で、コーヒーを飲みながらレポートの下書きをしていた。
受けている授業の一つが、月に一度の提出を義務づけているレポートだった。
陽太は、寝坊や悪天候などの理由で、たまたまその授業を休みがちになっていた。
だが、その授業は幸か不幸か、レポートさえきちんと提出しておけば、多少の欠席は大目に見てもらえる。
レポートを頑張らない理由がなかった。
とはいえ、気合いだけでレポートが進むわけでもない。煮詰まった陽太は、腕組みをしたまま、ノートパソコンの画面を眺め続けていた。
キーボードは、もう小一時間もの間、叩かれていない。
夕方には、所属している天文サークルの飲み会があるのだが、それまでに目標の文字数まで進みそうな気配は、まったくなかった。
陽太は、深く溜め息をついた。
――山口に、相談してみようか。
パソコンの横に置いたスマートフォンに手をかけようとしたときだった。
スマートフォンのすぐ横に、人の影が落ちた。
――誰だ?
一瞬、知り合いかと考えた。この時間にこの店に来ると言えば、山中か、富山か、あるいは南だろうか。
陽太は、影の主にちらりと視線を向けた。一人の人物の首から下が視界に入った。
誰であるにしても男性に違いないという予想に反して、そのシルエットは、紛れもなく女性のものだった。
女性は、目の前に置かれた陽太のスマートフォンを気にすることもなく、陽太の右側の席に座った。
決して混雑していない店内で、なぜわざわざ隣に座るのか。一瞬、訝しく思った。
だが、得も言われぬ柔らかな香りが鼻孔の奥に流れ込んで嗅細胞を刺激すると、陽太は警戒心を忘れた。
――いい香りだ。
レポートの作成という現実から躊躇することなく逃避した陽太は、本能的にその香りを楽しんだ。
そのとき、女性が座ろうとしている席の前に、スマートフォンを置きっ放しにしている事実を思い出した。陽太は女性の前のスマートフォンを手前に引き寄せようと、腕を伸ばす。
すると、スカートを直そうとしたのだろうか。陽太が腕を伸ばすのと同じタイミングで、女性は上体を陽太のほうにやや傾けた。
陽太の右腕の肘が、女性の左肘に軽く触れた。
女性が身に纏っている上着の柔らかい感触が、肘を通じて陽太の心を騒がせた。
「あ、すみません」
驚きと気まずさが入り混じった謝罪の声に、陽太は思わず女性を振り向いた。
――いいえ、大丈夫です。
動揺を抑えながら、そう答えようとした陽太は、思わず息を飲んだ。
想像もしていなかったほどに、美しい女性だった。
少々困った様子で陽太を見詰める大きな目、高過ぎず低すぎず、バランスよく整った鼻すじ、理想的な大きさと形をもってその下に配置された桜色の唇、そして、動くたびにさらさらと揺れる長い黒髪……。
例えるなら、十二月の新月の夜空を彩る流星のはかなさと、漆黒の夜空に輝く一等星のような眩しさを併せもっているような……。上手く表現できないが、とにかく陽太の目には、それほどの美人に見えた。
陽太は、言葉を忘れて彼女を凝視した。
彼女は、半ば放心状態にある陽太に心を留めるでもなく、ロングスカートに覆われた膝の上に置いたバッグから、スマートフォンを取り出した。細く繊細な十本の指が、バッグとスマートフォンの周囲で、艶めかしく踊った。
と、スマートフォンのアクセサリーに引っかかったのだろうか、一冊の本がバッグから飛び出し、床に落ちた。
パタリという乾いた植物的な音が、人影まばらな店内に響いた。
陽太は、すかさず椅子を降りると、無意識のうちに本を拾い上げていた。
本をテーブルの上に持ち上げたとき、表紙の文字が目に入った。黒いゴシック体の文字で『よくわかる星と宇宙』と書かれていた。
中高生向けの、天体に関する入門書だった。
しかも、著者は陽太が尊敬して止まない、著名な天文学者だった。
この場にそぐわないと思いながらも、気がつくと気持ちが高揚していた。この高揚感は、天文学者の名前のせいなのか、あるいは今、自分の横に座っている女性が原因なのか。
陽太には判別できなかった。
陽太は、拾い上げた本の表紙についた僅かな汚れを手で払うと、彼女に差し出した。
「星、お好きなんですか?」
彼女が本に手を伸ばしたとき、高揚感を悟られないように冷静を装いながら尋ねてみた。
勇気を振り絞っての一言だった。彼女は「ありがとうございます」というお礼の言葉に続けて、こう答えた。
「はい。友人の女性が天体観測が好きで、貸してくれたんです。私自身が星に詳しいわけじゃないんですけど。変……、ですよね」
彼女は、上目遣いで陽太に視線をよこした。長い睫毛越しに見える黒く大きな瞳が、恥ずかしそうな表情を湛えながら、陽太の顔を見詰めていた。
「いえ、全然変じゃないですよ。星が好きなんて、素晴らしいことじゃないですか」
陽太は、瞳の光の圧力にやや戸惑いながらも、無意識のうちに身を乗り出して、そう主張した。
若い女性に対して、積極的に話しかけている自分に驚いた。
だが、今はそんなことを気にしているときではないと、もう一人の自分が陽太の背中を押した。陽太は、まるでいつも交わしているお決まりの挨拶であるかのように、彼女に語りかけた。
「星の観察、いいですよね。僕も天体観測が趣味なんです」
彼女は、目を丸くした。
「本当ですか。偶然ですね」
「大学では、天文サークルに入ってるんです。拾い上げた本が星の本だと気づいたときは、びっくりしましたよ。しかも、この本の著者は、俺が尊敬している先生なんです」
陽太は、女性の手元に置かれた本を指差しながら、いつになく饒舌に語る。彼女は一瞬、本をちらりと見た後、視線をすぐに陽太に戻した。
「そうなんですか。この本、専門的な部分もあるのに、凄くわかりやすいですよね」
自分を褒められたような気分だった。
その後、陽太と彼女は、当然のように星に関するさまざまな話で盛り上がった。
話の内容はというと、こんな感じだった。
水星は自転と公転の速さが比較的近いため、一日の長さが地球の約半年分もあるのに対して、木星は公転に比べて自転のほうがはるかに速いため、一日は地球の約十時間分しかないこと。
気象衛星などの静止衛星は、地球の重力と衛星自体の遠心力が釣り合っていないと静止できないため、高度が三万六千キロに限定されていること。
そして、これがもっとも重要なことなのだが、ドレイクの方程式により、宇宙人と人類が出会える可能性は決してゼロではないこと。
陽太は我を忘れて、天体関連の話を熱く語り続けた。彼女は陽太の話を聞きながら、あるときは楽しそうに笑い、あるときは不思議そうに質問を投げかけてきた。
質問の内容は的外れなものも多かったが、少なくとも星や宇宙に対する好奇心や情熱だけは、十分に伝わってきた。
何事も、情熱が第一だ。知識は後からついてくる。高校時代の天文部の顧問の口癖を思い出した。
喋り過ぎてすっかり乾いてしまった口をコーヒーで潤した陽太は、このような会話で踏むべき手順を、しっかりと踏んでいないことに気がついた。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね」
すると、彼女は右手で口を隠すような仕草を見せながら「そういえば、そうですね」と小さく笑うと、バッグの中から取り出した学生証を見せてくれた。
「これ、何て読むんですか?」
陽太は戸惑いながら、学生証に書かれている名前の部分を指さした。
「あ、『みら』です。『美羅』と書いて『みら』」
「みら、ですか」
――素敵な名前だ。
迂闊に口にすると笑われるかもしれない。だが、真剣にそう思った。
そう思ったところで、気がついた。学生証の上の部分には大学名が書かれていた。陽太は、美羅という名前の次に、その大学名に意識が向いた。
「大学は、浅見女子大学なんですね」
「あ、そういうことになりますね」
美羅は、今まで気がつかなかったことが、よほど可笑しかったのだろう。全天でもっとも明るい恒星といわれるシリウスかと見紛うほどの、明るい笑顔を弾けさせた。
その屈託のない美羅の笑顔の眩しさが、陽太の純粋な好奇心をますます刺激した。
浅見女子大学は、陽太が通う帝洋大学から歩いて十数分ほどの場所にある大学だ。駅からはやや遠いが、帝洋大学の学生である陽太たちと同じ駅を利用している浅見女子大学の学生も多い。
「通学は、電車で?」
ちょっと馴れ馴れし過ぎるかとも思ったが、聞かずにはいられなかった。
「はい。駅からは歩きですけど」
――ということは、同じ駅を使っている?
陽太が住んでいるのは、大学の最寄り駅から二駅離れた藤木市の駅の近辺だった。一九九〇年代の香りがする、今どき珍しい淡いブルーの外壁をもつマンションだ。普段、陽太はそこから自転車で大学に通うことが多いが、天気が悪いときや寒いときは電車を使っていた。
「俺もときどき、電車を使います。ひょっとしたら、駅ですれ違っていたことがあったかもしれませんね」
美羅は、何かを考えているかのように、ほっそりとした顎に人差し指を当てた。その表情の色っぽさに、陽太はどきりとした。
だが、美羅はそんな陽太の心の騒めきに気づくはずもない。やや気まずそうな表情を浮かべたかと思うと、桜色の唇から、思いもかけない言葉を発した。
「あの……。急にこんなこと言ったら驚かれるかもしれませんけど……。白石さんですよね?」
その言葉通り、陽太は驚いた。
「はい、確かに白石ですが……。どうして、それを?」
「やっぱり……」
美羅は、納得したように、大きく頷いた。首の動きに合わせて見え隠れするうなじに、陽太は意味もなく見とれた。
「私、実は白石先輩と同じ高校の一年後輩なんです。天文部の部長だった先輩のことは、高校時代から知ってました。さっき本を拾っていただいたときに『ひょっとしたら』と思ったんですけど、先輩が星の話をあんまり嬉しそうにするもんだから、つい言いそびれてしまって……」
その言葉に、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。陽太は、美羅のうなじから視線を逸らした。
――ひょっとして、自分は美羅の都合も考えずに、勝手に話を進めてしまっていたのだろうか。
「迷惑、でしたか?」
恐る恐る、聞いてみる。
「そんなことないですよ。楽しかったです。ただ、先輩だと気づいたときには、本当にびっくりしましたけどね。世の中、狭いですよね」
――よかった。
美羅の優しさが垣間見える否定の言葉に、陽太は胸を撫で下ろした。
笑ったときに微かに見える八重歯が、とても魅力的だった。
その後、陽太はレポートを忘れて、美羅と語り合った。
気がつくと、夕方近くになっていた。結局、レポートはまったく進まなかったが、最早そのような些末なことはどうでもよくなっていた。
そして、別れ際。
ファストフード店の前で手を振りながら、思わず口にした。
「あの、また会ってもらえますか?」
美羅の表情が、ぱっと明るくなった。
美羅は、非日常的な状況のなかで浮き足立っている陽太の耳元で、囁いた。
「はい、もちろんです」




