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二、ジャミ
被害者の身元が判明した翌日、埼玉県警の刑事部捜査一課に所属する栗栖は、坂尾警察署の廊下を会議室に向かって歩いていた。捜査本部で毎朝おこなわれる捜査会議に出席するためだった。
廊下を右に曲がったとき、後方から声が聞こえた。
「栗栖さん!」
振り向くと、一人の男が小走りに駆け寄ってくる様子が見えた。坂尾警察署の刑事課に所属する大前だった。
大前は、栗栖に追いつくと肩で息をしながら「探したんですよ」と告げた。
「探してくれと頼んだ覚えはないぞ。右も左もわからないガキじゃあるまいし、会議ぐらい一人で行ける」
栗栖の不愛想な返事に、大前は眉をハの字に寄せて、溜め息を吐いた。恐らく「またか」と思っているのだろう。
「そりゃそうですけど、一応、二人一組ってことになってるんですから……」
栗栖は、捜査本部の開設に際して、県警本部から派遣された刑事の一人だった。そこで栗栖の相棒となったのが、この大前という人物だった。
大学卒業後に警察官になり、それから四年後に念願の刑事となって、まだ一年弱の若者だ。確か、年齢は今年二十八歳だったか。
もちろん、栗栖にとっては経験不足が否めないひよっ子だった。聞くところによると、捜査本部で事件を担当するのは、これが初めてとのことだった。
数日前、初めて顔を合わせたときに聞いてみた。
「お前さん、どんな刑事になりたいんだ?」
「はい。一人でも多くの犯人を逮捕し、犯罪で苦しんでいる多くの被害者の無念を晴らす。そんな刑事になりたいと思っています」
憧れていた刑事になったばかりだけに、一見するとやる気に溢れているように見受けられる。だが、明らかに上滑りしているこの若者のあからさまな情熱を、栗栖は危惧していた。
――無駄な情熱や関係者への過度な感情移入は、ときとして真実を覆い隠す。
――刑事は、つねに冷徹でなければならん。
そのような言葉が喉まで出かかった栗栖は、目を瞑って小さく首を振った。
今どきの若者に、そのような価値観を強引に押しつけても、所詮は無意味な話だ。下手をしたら、すぐにハラスメントだ何だと騒ぎになる。そのような事態は御免だ。
――ならば、適度な距離感を保ちつつ、自分なりの方法論で捜査を続ければいい。
そう考えた。
目を開けると、困惑した表情の大前が立っていた。
「取り敢えず、会議に行きましょう」
大前は、気持ちを切り替えるかのように口を開き、栗栖の前に立って歩きはじめる。栗栖も、舌打ちをしたい気持ちを抑えて、大前の後に続いた。
会議室に入ると、すでにほとんどの出席者は集まっているようだった。埼玉県警から派遣されてきた顔見知りの刑事の姿も、何人か確認できた。
栗栖が空いている席に座ると、大前も隣に座る。大前の着席を確認して、栗栖は尋ねた。
「被害者の身元が判明したそうだな。何でも、捜索願が出されていたとか……。その人物は、いったいどういう状況で行方不明になったんだ?」
実を言うと、大体の状況は把握していた。が、今一度、確認すると同時に、大前が情報をどの程度、認識しているかを知っておきたかった。
いわば、適性試験のようなものだ。
大前は、胸の内ポケットから慌てて手帳を取り出すと、真剣な表情でページをパラパラと捲った。
「はい。被害者は八月十二日、高校の三年四組の同窓会がおこなわれた居酒屋で、友人たちと午後九時頃まで酒を飲んだ後、行方不明になったとのことです。同窓会の出席者は十八名で、女性は瑠璃川、佐伯、田中、吉川、それに桜井の五名、男性は……」
「出席者の名前はいい」
「はい。被害者が外出時に持っていたバッグや鍵が自宅マンションから見つかっていることから、行方不明になったのは帰宅後と思われます。失踪から三日後に出された捜索願に関する資料に、そうありました。普段は恋人の部屋で過ごしている時間も長かったようですが、その日は同窓会の場所から近い自分のマンションに戻ったんでしょう」
栗栖は腕組みをしたまま、平坦な口調で尋ねた。
「恋人は当日、何をしていたんだ?」
「はい。当日は夜遅くまで外出していたそうです。失踪当時の事情聴取で、アリバイも確認済みです。被害者が恋人の部屋ではなく自分のマンションに戻ったのは、恋人が外出していたことも関係していたのかもしれません」
「なるほどな」
大前は、上目遣いにちらりと栗栖の様子を観察すると、続けた。
「さらに、その資料によると、行方不明時にスマートフォンは見つからず、通信会社に問い合わせて通信記録の解析がおこなわれたものの、とくに事件に繋がりそうな内容は見つからなかったとのことでした」
ちなみに、スマートフォンは行方不明から半年後の遺体発見時にも見つからなかった。
大前の話を聞きながら、今一度、捜査資料に書かれた被害者の情報にざっと目を通していた栗栖は「被害者の名は……」と、小さく呟いた。
「美羅……、か。珍しい名前だな」
栗栖は「女性の名は下に『子』という一文字がつくものだ」という固定観念が、無意識のうちに自らの胸の奥に染みついてしまっていることを自覚している。時代遅れとはわかっていても、そのほうが収まりがよく感じてしまうのだ。
自分の娘が生まれたときにも、周囲の反対を押し切って無理矢理「美代子」と命名した。
「美羅、珍しいですか? いかにも今風の名前だと思いますけど」
大前がさりげなく反論する様子を見て、栗栖は小さく舌打ちをした。
大前の報告を聞いている間に、捜査本部の幹部たちが室内に入って着席し、会議がはじまった。捜査本部長である坂尾警察署長が中央の席に座り、副本部長である刑事課長が、実質的な議長として会議を取り仕切る。
捜査会議では、それぞれの捜査員が昨日の捜査の結果を報告し、現時点で判明している情報の共有と、捜査の担当の確認がおこなわれた。
どれも重要な情報ではあったものの、驚くほど新しい情報が捜査員たちの口から語られることは、とくになかった。
そして、一時間弱の会議が終わると、捜査員たちは次々と部屋を後にし、今日の捜査へと向かっていく。
栗栖と大前は、おもに同窓会の出席者を中心に、友人関係を洗い直すことになった。そして、その前段階として、まずは被害者の実家を訪ねることを指示された。
被害者が住んでいたワンルームマンションはすでに引き払われていたが、失踪当時の彼女の持ち物は、実家に保管されているという話だった。
今一度、彼女の持ち物を詳細に調べることで、新しい手がかりが見つかるかもしれない。上層部は、そう判断したのだろう。
二人は、他の捜査員たちに続いて会議室を出ると、一階へ向かうために階段を降りる。
「おい、被害者の実家には、ちゃんと連絡しておけよ」
階段を降りながら尋ねると「はい、もちろんです」と、思いのほか元気のいい返事が返ってきた。
――こういうところだけは、無駄に威勢がいいな。
栗栖は大前とともに署の建物を出ると、駐車場に止めてある黒い警察車両に乗り込んだ。
*
被害者の実家は、坂尾市から車で一時間ほど北東に走った深田市にあった。
大前が運転する車は、カーナビの指示通りに、一面に広がる畑の間を抜ける。JRの駅に近い住宅地の一角に車を止め、サイドブレーキを引くと、大前は「ここです」と助手席の栗栖を振り返った。
築十年ぐらいの、ごくありふれた二階建ての一軒家だった。玄関の手前には、軽自動車が止まっている。
二人は車を降り、大前が家のベルを鳴らした。
「はい」という返事とともに玄関のドアが開き、一人の女性が顔を出した。
遺体の身元に関する情報は、マスコミに向けては伏せていたが、口外しないという条件付きで被害者の家族には知らせていた。
その情報が原因なのか、母親らしき女性は明らかに憔悴していた。栗栖は、申し訳ない表情をしながら、警察手帳を女性に向けて提示する。
「埼玉県警捜査一課の栗栖と申します。この度はご愁傷様でした」
女性は「美羅の母です。この度はお世話になります」と、か細い声で名乗ると、小さくお辞儀をした。
化粧っ気のない疲れた表情ながら、丁寧な物腰を崩さない女性の健気さが、ことさら気の毒に思えた。
だが、同情してばかりでは、事態は進展しない。栗栖は手帳をしまいながら、単刀直入に切り出した。
「娘さんが行方不明になられたときにお住まいだったお部屋のものを、まだ保管されているそうですね。申し訳ありませんが、それらを改めて見せていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
母親は目を伏せながら「はい」と今一度頭を下げ、栗栖たちを玄関に招き入れた。
栗栖と大前は軽くお辞儀を返して屋内に足を踏み入れると、彼女に招かれるまま、玄関横の階段を上がる。
娘の部屋は、二階の奥にあった。女性はドアを小さく二回、ノックする。だが、もちろん返事はなかった。女性は、そのままドアノブを捻った。
部屋は、六畳ほどの広さだった。
奥の窓際にクマらしきぬいぐるみが置かれたベッドがあり、入って右側には勉強机が設置されている。その他の家具といえば、シンプルなデザインの本棚や小ぶりな箪笥ぐらいだ。
全体的に明るく淡い色使いに統一された、いたって普通の若い女性の部屋だった。
埃一つ、見当たらない。恐らく、娘の帰宅を信じ、こまめに掃除をしているのだろう。
ほんの少し、胸が締めつけられる思いがした。
何年、刑事をやっていても、このような状況は苦手だ。
栗栖は、余計な感情を払拭するように、部屋の左手に視線を移す。隙なくデザインされた部屋には不釣り合いな、数個の段ボール箱が乱雑に置かれていた。
「この段ボール箱が、娘の美羅が借りていたマンションの部屋にあったものです」
女性が、視線で示した。
「中を確認させていただいてもよろしいですか」
一応、確認すると、女性は「よろしくお願いします」と弱々しく答え、ゆっくりと部屋を出ていった。
栗栖は、大前とともに、段ボール箱に向かって軽く手を合わせた。いつもの習慣だった。
箱を開けると、中には雑多な品物が乱雑に詰め込まれていた。記録を取りながら、その一つ一つを確認していく。
とはいえ、捜索願が出されたときに一通りの確認はおこなわれていた。そのため、目新しい手がかりはそう簡単に見つかるはずもなかった。
「なかなか、厳しいですね」
調べた結果を以前の資料に書き加えながら、大前が溜め息をついた。
「いいから、黙って手を動かせ」
そう言いながら、栗栖はカレンダーを手に取った。被害者が一人暮らしをしていたとき、キッチンの壁に貼られていたカレンダーとのことだった。
七月以前のページはすでに破り取られ、事件が起こった八月のページが一番上になっている。
資料とカレンダーを交互に見比べていた大前が動きを止め、「あれ?」と不思議そうに呟いた。
「何だ」と、栗栖は振り向く。
「八月十二日、失踪当日の欄に、何か書き込まれていたみたいですね。以前の資料には記載がありませんが」
大前が指差す場所に目をやると、なるほど、カレンダーの八月十二日の欄には、確かに鉛筆で書かれた後、消されたような跡が確認できた。
目を近づけて、薄く残っている文字を確認する。
同窓会がおこなわれた居酒屋の名前……。
その横に「ジャミ」という文字が書かれていた。
――ジャミ?
意味不明だった。さらに目を凝らしてみると、そのさらに横には、頭を下げているのだろうか、女性らしき人物の簡略化されたイラストが描かれていた。
「前回の資料にないということは、解読できなかったのかもしれんな」
「何を意味してるんでしょうね」
栗栖の肩越しにカレンダーを覗き込んでいた大前が、顎に手を当てながら、眉間に皺を寄せた。
栗栖も一応、考えてみた。だが、この場で思い浮かぶことは、何もなかった。
「取り敢えずメモして、写真も撮っておけ。意味は、あとで考えよう」
その後、小一時間ほど段ボール箱の中の品々を検めたが、結局、目新しい手がかりは見つからなかった。
栗栖と大前は、一階に降りて女性に対して深く頭を下げると、家を出た。
そのまま、車に乗り込む。
新しい手がかりが一つ増えるとともに、謎が一つ増えた。
車の中には、重苦しい雰囲気が漂っていた。
最初に口を開いたのは、大前だった。
「ジャミ……。ものごとが駄目になることを『じゃみ』っていうって、高校のときに古典で習ったような記憶がありますけど。まさか、そんな意味じゃないですよね?」
助手席の栗栖は、シートベルトの上から、腕を組む。
「ジャミという言葉だけじゃない。その横に描かれた女性のイラストも、意味不明だ……」
――ジャミとは何か。
――イラストは、いったい何を意味しているのか。
住宅街を走る車の中で、栗栖は黙考した。




