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十五、決行
瑠璃川は、高校で佐伯たちによる嫌がらせが続くなかでも、勉強に対する情熱だけは失わなかった。むしろ、地獄のような現実から逃避するかのように勉学に打ち込んだ。そして、嫌がらせに苦しめられ続けた高校生活を何とか耐え忍び、奨学金を利用して東京都内にある難関女子大学に進学した。
瑠璃川たちの高校からは数年に一度、合格者が出るかどうかというほど、偏差値の高い大学だった。
大学には、高校時代とは異なり、嫌がらせをする友人はいなかった。当然と言えば、当然だった。だが、その当たり前のことが、何よりも嬉しかった。
瑠璃川は、日を追うごとに自分の精神が健康を取り戻していくのを実感しながら、生活費を稼ぐためのアルバイトと勉学に励み、充実した学園生活を送った。
だが、二年生になって数ヶ月がたった頃、事態は一変した。
はじまりは、一本の電話だった。
その日の朝、瑠璃川は大学に向かう道をやや急ぎ足で歩いていた。
電車が遅れたせいで、授業に間に合うかどうか、ぎりぎりの時間になっていた。
数日前に梅雨が明けて以降、本格的な夏となっていた。歩を進めるたびに、こめかみから汗が流れ落ちた。
大学の正門へと続く交差点を右折したとき、バッグの中に入れていたスマートフォンが振動した。
――今は、それどころじゃないのに……。
最初は、無視を決め込んだ。だが、いつまでたっても、振動が止まる様子はない。
瑠璃川は溜め息をつきながら、バッグからスマートフォンを取り出すと、相手を確認した。
高校のときの同級生である、羽田だった。
久しぶりの連絡だった。半年ぶりぐらいだろうか。
一年生の秋に嫌がらせがはじまって以来、急速に心を蝕まれていった瑠璃川だったが、周囲にその事実を悟られるのは、怖かった。
結果として、自分が普通の学校生活を送ることができていることを演出するために、友だちとよばれる人間関係を無理矢理に築くようになった。そのなかでも、もっとも友だちっぽい関係になれたのが、同じ一年二組の羽田だった。
そんな彼女は、どこでどうやって仕入れてくるのかはわからないが、一年生の頃から、生徒たちの人間関係や恋愛事情に妙に詳しかった。
瑠璃川にとって、羽田はあくまでも友だちもどきに過ぎなかったため、彼女に対して佐伯たちの嫌がらせを告白することはなかった。また、二年生以降は異なるクラスになったこともあり、羽田が嫌がらせに気づくこともなかった。いや、もしかすると、すでに気づいていたが、気づかないふりをしていただけだったのかもしれない。
瑠璃川は、覚悟を決めて通話ボタンを押すと、スマートフォンを耳に当てた。
「もしもし」
速まる呼吸のせいで、声が乱れた。
「どうしたの? 何か息が上がってる感じだけど」
「遅刻しそうで急いでたところ」
「そうなんだ。タイミングが悪かったね、ごめん」
そう言いながらも、口調から反省や遠慮の色は感じられない。羽田は、よく通る高めの声で続けた。
「そうそう。それどころじゃないんだよ。大ニュースだよ」
いかにも噂話が大好物の彼女らしい、スクープを匂わせる雰囲気が漂う声色だった。
「白石陽太先輩、知ってるよね。高校時代の一時期、あなたが好きだった白石先輩」
その名に、瑠璃川は小さく動揺した。思わず、足を止めて耳に神経を集中させる。
「久しぶりに会った部活の先輩から聞いたんだけどさ。その白石先輩が、最近……、と言っても去年の話なんだけど、新しい女の子とつき合いはじめたんだって」
脳裏に、白石先輩の面影が浮かんだ。瑠璃川は、自分の心臓の鼓動が、僅かに速くなるのを感じた。
だが。と、瑠璃川は思い直す。
白石先輩は、あくまで思い出の中の人物に過ぎない。誰とつき合おうが今の自分には関係ないし、そんなことでいちいち動揺されては白石先輩自身も迷惑だろう。
瑠璃川は「それが、どうかしたの?」と努めて冷静に問いかける。
「それがさあ、その相手っていうのが、誰だと思う?」
「そんなの、わかんないよ」
会話を打ち切ろうとしたとき、受話器の向こうの羽田が、忌まわしい名を口にした。
「相手は、佐伯美羅さん」
「え?」
スマートフォンを、取り落としそうになった。
――あの、佐伯美羅が、白石先輩と?
頭の中の細胞が泡立ち、どろどろと崩れていくような感覚に襲われた。
「もしもし、瑠璃川? 聞いてる?」
羽田の呼びかけも、耳に入らなかった。
瑠璃川は無意識のうちにスマートフォンの電源を切り、踵を返して駅へと向かった。大学に行く気には、とてもなれなかった。
自宅に戻ると、乱暴にドアを開けて部屋に入り、ベッドの上に倒れ込みながら布団を被った。暗闇の中で、黒く濁った思考を巡らせた。
――佐伯は、私を貶めたばかりか、白石先輩まで奪っていった……。
急に、今までに感じた経験がないほどの、激しい息苦しさを感じた。
――あいつは私から、いつも大切なものを奪っていく。
――高校時代と同じように女の武器を用いて、先輩を虜にしたに違いない。
自分でも驚くほど大きな憎しみが、心の底に生まれた。
瑠璃川は、布団から這い出ると、鏡台の前に座り込んだ。
薄暗い部屋の中で、鏡台の鏡を見詰める。
すると、苦しかった高校生活の記憶が脳裏をよぎった。記憶の奥底に封じ込めていたはずの、暗く絶望に満ちた記憶だった。
――ジャミはいいな、頭がよくて。でも、見た目がショボすぎ。
――ジャミ、先生に媚び売ってんなよ。
――ジャミ、成績いいから、教科書なくても大丈夫だよな。
――ジャミ、あの男、好きなんだろ。告ってきなよ。
そんなとき、佐伯はいつも取り巻きたちの輪の中心に立ちながら、嫌がらせを受ける瑠璃川を蔑みの目で見ていた。
自分よりも下等な生物を見るかのような、哀れみに満ちた目。その目に宿っていた冷徹な光。それらを、瑠璃川は今も忘れることができない。
*
その夜、瑠璃川は夢を見た。
気がつくと、瑠璃川は底が見えない蟻地獄のようなすり鉢状の窪みの中で、まるでアリのようにもがいていた。
砂でできた巨大なすり鉢のへりに手をかけようと、必死の思いで手を伸ばす。しかし、掴んだはず砂は瑠璃川の懸命な試みをあざ笑うかのように、掌の中からさらさらと崩れ落ちていく。
逃れられそうな気配は、まったく感じられなかった。
疲れ果てた瑠璃川は、思わず振り返ってすり鉢の底を見る。薄暗いすり鉢の中央では、二本の牙が鉛色の光を放っていた。牙が、ゆっくりと開閉するたびに、刃物を擦り合わせるような不気味な金属音が聞こえた。
すり鉢の縁を見上げると、女性の姿が見えた。うす暗いためにシルエットでしか確認できないが、その姿には確かに見覚えがあった。
佐伯美羅だった。
恐怖に駆られた瑠璃川は、息を荒げながら、今までにも増して死に物狂いで砂を掻く。
だが、そうしている間にも、瑠璃川の体は、少しずつ砂の中に飲みこまれていく。
――誰か、助けて!
叫んだとき、目が覚めた。
夥しい量の寝汗をかいていた。
肩で息をしていると、不意に吐き気を催した。
眩暈に耐えながら部屋を出た瑠璃川は、壁に寄り掛かるようにしながらトイレに行き、便器の中に顔を突っ込むと、激しく嘔吐した。
*
その日以来、眠ることが怖くなった瑠璃川は、眠れない日々を過ごすようになった。
とても、大学に行く気にはなれなかった。
食欲もなくなった。体重は、一週間で四キロ近く減った。
鏡を見ると、まるで死人のような顔をした人間が、ガラスの向こう側からこちらを見詰めていた。
羽田からの電話を受けるまで、瑠璃川は自分が過去の忌まわしいできごとによるトラウマから、完全に立ち直ることができたと信じていた。
しかし、それは単なる思い込みに過ぎなかった。
高校時代の悪夢のような記憶は、瑠璃川自身の心の奥底に巣食い、表の世界に出る機会を、つねに伺っていたのだ。
ふと、部屋の隅の暗がりに目を遣る。何か、得体の知れない黒い生き物のようなものが、蠢いているのが見えた。
その塊は、何かを囁いているようでもあった。
瑠璃川は、耳を澄ました。
塊は、こう言っていた。
――……ハ、……ヲ、ユルサナイ。
――……クシュウ、フクシュウ。
瞬間、雷に打たれたように、瑠璃川の脳裏に強烈な電気が走った。
――復讐……。
今まで一度としてリアルに感じたことがなかったその単語が、今は日常生活の中にある当然の権利であるかのように、瑠璃川には思えた。
気がつくと、部屋の片隅にいたはずの正体不明の黒い塊は、瑠璃川の脳内に寄生していた。亡霊のような姿をしたその塊は、瑠璃川の中でみるみるうちに肥大していった。
そして三日目の朝、その黒い亡霊は、瑠璃川の中で泥風船のように弾けた。べっとりとした泥水のような澱が、瑠璃川の心の内側にへばりつき、瞬く間にほかのすべての記憶を覆い隠していった。
――そうだ。
――私は佐伯美羅を許さない。
こうして瑠璃川は、佐伯の殺害を決意した。
良心の呵責や躊躇いがまったくないわけではなかった。が、復讐という甘美な言葉に思考が支配されていた瑠璃川に、自分自身を止めることは、もはやできなかった。




