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十三、水色の建物
情報漏洩が明らかになった十数分後、栗栖は会議室の椅子に腰かけたまま、目を瞑っていた。
栗栖と大前だけが残された会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
名前が報道されてしまった以上、犯人が何らかの行動を起こすであろうことは、容易に想像できた。
「重要参考人である彼女は、一体どこに……」
口を開きかけたとき、背広の内ポケットに入れていた警察専用のスマートフォンが振動した。
栗栖は、苛立たしく思いながらスマートフォンを取り出し、相手を確認する。
表示されているのは番号だけで、名前はわからなかった。
――誰だ、こんなときに。
だが、出ないわけにはいかない。栗栖は通話ボタンを押すと、スマートフォンを耳に当てた。
「はい。栗栖ですが」
「あ、栗栖さんですよね。よかった。玉井です。覚えていらっしゃいますか?」
緊張を感じさせながらも、はっきりとした発音のめりはりがある声に、聞き覚えがあった。以前、同窓会の出席者の一人として、事情を聴いた玉井に間違いなかった。
「ああ、もちろん、覚えていますよ。栗栖です。どうされましたか」
警察関係者に電話をかけるという行為は、ただでさえ緊張する行為だ。栗栖は、相手にストレスを与えないように、可能な限りの明るさを心がけながら言葉を返した。
玉井は、栗栖の明るい声に安心したのだろう。ふうと小さく息を漏らすと、早速、用件を切り出した。
「実は今、高校時代に同級生だった女性と一緒にいるんですが……。羽田という女性です。電話、替わりますね」
――羽田?
初めて聞く名前だった。確か、資料にもなかったはずだ。
栗栖が記憶を手繰り寄せる間もなく、電話の向こうから若い女性の声が響いた。
「もしもし」
「はい。埼玉県警の栗栖と申します。この度は、ありがとうございます」
要領を得ないまま、挨拶を交わした。
「羽田さんは、あの日の同窓会にいらした方ですか?」
「あ。いいえ、私は、クラスが違ったのでその場にはいなかったんですが、玉井君から『警察の人が、例の失踪事件について、また調べてくれてる』って聞いて、お力になれるかと思って」
――同窓会にいなかった?
完全にノーマークの人物だった。
「数ヶ月前だったでしょうか。私、偶然、見かけたんです」
そう言うと、羽田は重要参考人の名を口にした。恐らく、栗栖たちが高校時代の友人たちに彼女の行方を聞いて回っているという話を、玉井から聞いたのだろう。
栗栖は、思わず前のめりに問いかける。
「どこでですか?」
「あの……、藤木市駅ってご存じですか? 埼玉県にある駅なんですけど」
もちろん知っている。東京都から見ると郊外だが、いくつかの路線が乗り入れている、比較的便利な駅だ。
「私、そのとき藤木市駅の近くのケーキ屋のアルバイトに応募してて、面接に行ったんです。あ、結局、そのアルバイトはやらなかったんですけど……。その面接の帰りにバスに乗ってて、そのバスが赤信号で止まったときに、彼女を見かけたんです。マスクをしていたので顔はわかりませんでしたが、間違いありません」
――マスクをしていた?
証言の信頼性が、にわかに揺らいだ。バスの窓越しにたまたま見かけたマスクの人物が誰であるか特定することなど、可能なのだろうか。
「本当にご本人でしたか?」
疑いの気持ちを押し殺しながら、可能な限りの柔らかい口調で確認する。
「はい、歩いていたのがバスのすぐ横でしたし、距離自体はかなり近かったので、自信があります。ちょっと踵を浮かした感じで前屈みになる歩き方も彼女そっくりでした。それだけじゃありません。鶯色の少し変わったデザインのダッフルコートも、高校時代に着てたもの、そのままだったんです。彼女、昔からやたらと物持ちがよかったんですよ。それに……」
いつの間にか、羽田の速射砲のような語り口に、柄にもなく引き込まれていた。
「それに……?」
「そのときの彼女、高校の卒業記念で三年生全員がもらったトートバッグを持ってたんです。白い生地に黒い文字で『Be Ambitious』って書かれたバッグです。私も同じものをもらったので、間違いありません。それを見て『あ、まだ使ってるんだ』って思ったので、よく覚えてます」
最初こそ疑っていたが、こうして聞いてみると、かなり信憑性の高い情報に思われた。
「その後、彼女がどこに行かれたかはわかりませんか?」
駄目元と思いながら、一応聞いてみる。
「バスはすぐに発車したんですが、後ろを向きながら目で追ってたら、すぐ近くにある水色の建物に入っていったように見えました」
――水色の建物?
「その建物の特徴や住所はわかりますか? あと、そのバスがどの路線だったかについても、お教えいただけると助かります」
栗栖の問いかけに、羽田の声のトーンが明らかに下がった。
「バスは、確か『工業団地行き』って書いてあった気がします。ただ、土地勘がない場所だったんで、彼女を見かけたのがどこだったか、正確にはわかりません。アルバイトの店に行くときにも、迷っちゃったぐらいで……。建物の細かい点についても、何ヶ月も前の話なんで、記憶が曖昧で。でも、建物が水色だったのは印象的だったので、はっきりと覚えてるんです。今どき、珍しい色だなあって思って……。私が知っているのは、ここまでです。すみません」
正直なところ、ほんの少し落胆した。だが、落胆と高揚感を天秤にかけると、高揚感のほうが勝っていた。
その建物が特定できれば、入居者や近隣住民への聞き込みによって、八方塞がりの様相を呈していた捜査に何らかの進展が見られるかもしれない。
そんなことを考えていると、電話の声が、急に男性に変わった。
「もしもし」
玉井の声だった。
「そういうことなんですが……。お役に立ちそうですか?」
「はい、大変貴重な情報です。ただ、やはり一度お会いして、直接お話を伺えればありがたいのですが」
実際に会って話をするのと、電話で話すのとでは、コミュニケーションの濃密さに天と地ほどの差がある。会って話を聞くことで、電話では得られなかった情報を得ることができた経験が、栗栖には何度もあった。
「ちょっと待ってください」
微かな話し声の後、玉井の声がスピーカーから響いた。
「今日の夕方でも、大丈夫でしょうか」
「結構です。場所は、どこがよろしいですか?」
「以前お会いした、寄野市の駅前のファミリーレストランでもいいですか?」
「承知しました。では、以前と同じく十七時にお伺いします」
栗栖は、スマートフォンを耳に押し当てながら、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。実は、栗栖さんにお会いした後、僕も何度か彼女に電話をかけてみたんですが、全然繋がらなくて……。みんな、二人と連絡が取れないことを、凄く心配してるんです。ぜひ、見つけてあげてください。よろしくお願いします」
被害者の名前が報道されてしまった今、今回の事件が単なる失踪事件ではなく殺人事件であることを告げるべきかとも考えたが、電話ではなく会って話したほうがいいだろうと思い、やめておいた。
「わかりました。お任せください」
栗栖は、できるだけ丁寧な雰囲気を心がけながら別れの挨拶をすると、電話を切った。
机の上に置いたスマートフォンを睨みつけたまま、栗栖は考える。
――夕方までは、まだ時間がある。
「藤木市は、ちょうど寄野市に向かう途中にある。彼らに会う前に藤木警察署に寄って、水色の建物について話を聞いてみるのもいいかもしれんな」
そう口にしながら振り向くと、大前がバッグから何やら板のようなものを取り出しているところだった。よく見ると、タブレットだった。
「藤木署に行くのもいいですけど、その前に地図アプリを使ってみましょう。ひょっとしたら、水色の建物が見つかるかもしれませんよ」
――地図アプリ?
思ってもみない方法だった。
大前は、まずブラウザを開いて、藤木市駅周辺のバスの路線図を探し出す。
工業団地行きの路線は、二本あった。
大前は路線を確認すると、栗栖をちらりと見て、得意げに地図アプリを起動させた。
「アプリに表示された地球を拡大していくと、その場所の風景が表示されるんです」
――俺だって、そのぐらいは知っている。
言葉が喉まで出かけたが、止めておいた。あくまで知識として何となく知っているだけであって、使ったことはなかったし、詳しい使い方も知らなかったからだ。
「しかも、ただの航空写真じゃなくて、鳥瞰図的な感じなんですよね」
やがて、画面には真っ暗な宇宙空間に浮かぶ地球が表示された。
大前は、表示された地球を指でくるくると回したかと思うと、二本の指で器用に拡大していく。不思議な光景だった。
驚いている間にも、日本が拡大され、関東地方が大きくなり、藤木市付近の航空写真が現れた。
次に大前は、右下にある「3D」と書かれたボタンをタップする。平面的な航空写真が、立体的な写真に置き換わった。
「この写真は、表示されている日付から見ると、去年の春ですね。まだ一年ぐらいしかたってませんから、恐らく一部を除いて、建物の外見はそれほど変わってないでしょう。この画面を見ながら、バスの路線沿いにある水色の建物を探せばいいんですよ」
あるときは拡大縮小を繰り返しながら画面をスライドさせ、あるときは画面の向きを変えながら、大前は駅の近くで手際よく水色の建物を探した。
間もなく、水色の建物が二つ見つかった。一つは少々古びたマンションで、もう一つは雑居ビルだった。
「試しに、このマンションの住所を調べてみましょうか」
大前は「座標をコピー」というメニューを選択して、緯度と経度をコピーする。
そのまま、通常の地図アプリを立ち上げ、検索用のボックスに貼りつけた。
表示された場所をクリックすると、緯度と経度の下に、住所が表示された。
藤木市本町三六-一七八
「なるほど」
大前の横で腕組みをしながら画面を見詰めていた栗栖は、思わず唸った。
――こんなことが可能なのか。
まるで、浦島太郎になったかのような気分だった。
顎を撫でながら何気なく住所に目を遣ったとき、ちょっとした既視感に気がついた。
「おい、この住所、ひょっとして……」
大前も、気づいたようだった。大きく息を吸い込んだ後、独り言のように呟く。
「驚きましたね。まさかとは思いますが、確認してみる価値はあると思います」
大前の声を聞き終わらないうち、栗栖は叫んだ。
「すぐに、藤木市に向かうぞ!」
言うが早いか、廊下を階段の方向に向かって走り出す。
大前は「はい!」と叫ぶと、慌ててタブレットをしまい、栗栖に続いた。
――確証はないが、あの女はここにいるかもしれない。
そして。
――一刻も早く直接、あの女に会って、真相を確認しなければならない。
階段を駆け降りながら、栗栖は心の中で何度も繰り返した。
*
藤木市は、坂尾警察署から車で三十分ほどだろうか。
藤木市駅へと向かう車の中で、栗栖は腕を組んで前方を見詰めていた。
大前の判断で、最短距離である国道を選んだ。だが、運悪く事故渋滞に巻き込まれ、数メートル進んでは止まるという状態を繰り返す羽目になった。
――こんなときに限って。
タイミングの悪さを恨んだ。だが、不可抗力に対して苛立ち、冷静さを失っては、元も子もない。栗栖は、目を固く瞑り、平静さを保とうと心がける。
――場合によっては、玉井と羽田に連絡して、会う時間を調整してもらわなければならんかもしれんな。
そのとき。
「あの……。自分は、栗栖さんに謝らなきゃいけないことがあります」
大前が、ハンドルを握ったままで静かに言った。
「何だ?」
「やっぱり、彼女に何かあると睨んだ栗栖さんの見立ては、正しかったのかもしれません。生意気なことを言って、すみませんでした」
――そんなことか。
悔しそうにしているのかと、栗栖は大前の表情を観察する。だが、大前の表情は、むしろ清々しそうにさえ見えた。
栗栖は、自分の第六感がまだ衰えていなかった事実を認められた気がして、取り敢えずほっとした。
安心感に、気が緩んだのだろうか。気がつくと、以前から薄々感じはじめていた本音を口にしていた。
「なあに、お前さんももう少し経験を積めば、俺以上に目鼻が利くようになるさ」
大前が、はにかんだように笑った。
「褒めていただいたの、初めてです」
――こいつは、意外に見どころがあるかもしれんな。
多少、距離が縮まった気がした。
だが、安堵してばかりはいられなかった。
当然ではあるが、今はそんな二人の距離を確認するよりも、一刻も早く現場に到着することのほうが、はるかに重要だった。
栗栖は、ゆっくりと時間をかけて深呼吸をし、気持ちを入れ替える。
「ニュースを聞いたあの女が、何か行動を起こす可能性がないとも限らん。とにかく、今は現場に急ぐんだ」
栗栖の声に、大前は「はい!」と歯切れのいい声で答えた。
――俺の第六感が、まだ衰えていないとしたら……。
嫌な予感しかしなかった。
――手遅れにならなければいいが……。




