【13】勇者、やらかす
杏珠が走り去る音に一瞬遅れて、扉の前で待機していた護衛の動きだす合図があった。同時に微かな足音も立っていたので、学院の者に扮している護衛兼監視の者も移動したようだ。少なくとも、この直後に杏珠の身に危険が降りかかることはないだろう。
状況の整理を終えた修がひとつ息を吐くと、つい先程まで少女の叫び声に満ちていた空間が、誰も身じろぎすらしない静寂に変わる。つんと耳に響いたその落差には、流石に修の頭も冷えた。
――――――――やらかした。
現在の修の思考は、後悔と反省に満ちていた。
しかし、このまま黙って去るわけにもいかない。とりあえず程度にはなってしまうが、修にはこの場をおさめる責任がある。
「…………すまない。見苦しい姿を見せた」
「あ……いえ…………」
教師である修の謝罪に、杏珠の友人である少年たちも身の置き場がないようで、視線を彷徨わせてもごもごと口籠る。互いの立場を考えれば決して褒められた返答ではないのだが、やらかしの挙句に彼らを巻き込んだのは修のほうである。他の場面では気をつけてほしいと思いながら見逃して、この場を去ることにした。
この失態のフォローをいったいどうするべきか。修の足取りはずしりと重く、あまりにも頭が痛い。ぐしゃぐしゃと髪を乱すほどに強く頭を抱えたいが、あらゆる矜持をかき集めてなんとか耐えた。
落ち着くための小休止を終えた修は、急ぎ自らの失態を各所へと報告することにした。杏珠の状態の悪さを、様子見で放置するわけにはいかないからだ。
ちなみに、学長には呆れられ、サンダルフォンには苦笑いで慰められ、神殿長には深く謝罪された。三者三様すぎである。
とはいえ、この三人で一番厳しい評価を下した学長ですら、常の辛辣さとは程遠い対応をされてしまった。他者への興味が極端に薄い学長から見ても、魔王討伐の旅で負った修の傷の深さが、わかりやすいのだろうか。己はまだまだ未熟だと、修は奥歯を噛みしめた。
いくら相手が対の聖女だろうが、その主張が幼稚だろうが、杏珠はまだ子供である。むやみに怒りをぶつけるのではなく、冷静に諭さねばならなかった。子供と大人で、仮の生徒と教師だ。いくらなんでも、完全に修が悪い。
しかし、謝罪の場を早めに作らねばと決心をしたものの――――以後は完全に避けられるようになってしまった。
その後も勇者と聖女の膠着状態は続き、あれからまたひと月が経とうとしていた。
杏珠は、数日ほど神殿の私室に引きこもっていたのだが、現在は落ち着いた様子で学院に通っている……らしい。
表面上はにこやかだが、気落ちしているようにも見える。わざとらしさすらあった天真爛漫さは影を潜め、人との関わりも消極的になっている……らしい。
すべてが伝聞系なのは、修が相変わらず杏珠に避けられているためである。
だが現在の杏珠は、ジブリールを遠ざけなくなっていた。距離感を測りながらもめげずに自分を気にかけてくるジブリールを、杏珠はいつの間にか受け入れていたのだ。学院で静かに過ごす杏珠の様子は、ジブリールから修へ直接もたらされている。
それと同様に、ジブリールは杏珠に修の話をしているという。気まずそうに濁しながらだが、杏珠が気にしているらしい。
「そういうことなら、嫌われては……いないのか?」
「はい、おそらくは。少なくとも、聖女様から嫌悪感のようなものは感じられませんもの。あえて言い表すのなら、あれは…………罪悪感でしょうか」
「………………嫌われていたほうがマシな気がしてきた」
前髪をぐしゃりと掴むように片手で額を覆い、修は長く息を吐く。
反感を持たれた結果、相手に嫌われてしまっていたほうが、まだ気持ちが楽だった。内容が理不尽だったとは今も思っていないが、頭ごなしに怒りをぶつけたのは愚行でしかないからだ。穏便な言い方も優しい宥め方も、あとから考えれば色々と思いついた。
杏珠の幼く柔らかい心は、あの怒りを真っ直ぐに受け止めてしまったのだろう。落とした粘土細工のようにへこんだ心を大事に撫で、きれいに均そうとしている時間が今なのだ。修が謝る機会を無理に得ても、自己満足にしかならない段階だ。ただ、待つしかない。
「何があったかはまだお聞きしませんけど……。えぇと、あの方のお気持ちがもう少し落ち着かれてからになりますが、対面の機会をわたしから提案してみます。きっと、そのほうがおふたりにとって良いはずですから」
「ああ、ありがとう。世話を掛けるよ」
「シュウ兄様のお役に立てて何よりですわ。ご褒美は街デートで手を打ちましょう」
「もちろん。今度は何処がいい? まあ、陛下たちの許可が出る場所に限るけどな」
「あら、それは残念だわ。行きたい場所を考え直さなきゃ」
「待て。どこを希望するつもりだったんだ……?」
「淑女の秘密でーすーのー」
ふたりでこんな話をしているのは、学院休日の午前。
いつもの四阿で、ジブリールがわざとらしく拗ねながら焼き菓子を頬張る。
修とジブリールは、互いに必要な報告はすれど、動きを連動させない方針を継続中だ。
特にいまは、出来る限りフラットな感情で以て杏珠に接すべきだとジブリールは主張する。「ご事情はとっっっっっっても気になりますけど、今は詳細を知らないことが聖女様の信頼に繋がるはずです」と、いうことである。
修がふいと視線を巡らせると、よく手入れをされた王太子の庭が、季節の移ろいと共に違う景色を見せていた。
妊婦を主張する大きな腹を抱えるユエルサニーは、過保護の鬼と化したサンダルフォンによって、宮の敷地内に軟禁されている。この庭は、そんな彼女のために、庭師たちが日々奮闘している。
そんな見違えた庭の一部を通り、見慣れた執事の案内に従った見慣れぬ男が、四阿に近づいてきた。
膝をつき中央神殿の上級神官だと名乗った男は、神殿長に託された言葉を震えた声で述べる。
「中央神殿の神殿長より、ゆ……勇者様に緊急のご連絡を申し上げます。聖女様が――――――――」
修はよく知っている。
女神も現実も、ひとりの人間の心のことなど、微塵も考慮してくれない……ということを。




