ひとり考える
その日の夜……
レンは自分の仮住まいである小屋の中で、藁の上に布を敷いただけの簡素な寝床に寝転んでいた。
サテュロスの乱入というハプニングがあったとはいえ、今日も平和に終わったと言えるだろう。
クオリアとレディアンへの名付けのあとは、和やかな時間だった。
エミリがサービス精神を出して、マンドレイクたちと次から次へと果物を運び、オーガたちがそれを潰してジュースにし、オークがその補助をし、サテュロスはこれを酒にしたらと話を交わす。
最後の方にはオーガがちょっとした願いごとをリュールにして、リュールは笑顔でそれを了承していた。
みんなが笑顔で過ごしていた。
「…………」
暗闇でもわずかな光さえあれば見通せる目でレンが見ているのは、自分の手である。
名付けの影響による進化で、リュールの無意識に引っ張られて変わり果てた姿。
オーガの基準からすれば軽く力を入れただけで折れそうな、細くて白い腕。
一見頼りない腕だが、オーガの姿であった時以上の膂力を持っていることを今では知っている。
最初こそ戸惑いが先走っていたこの体だが、半年が経つ今ではもう慣れた。
魔物の進化は一方通行だ。どうあっても戻れないし、戻らない。であれば、順応するという方向性にレンの選択は動いていた。
もちろん、ただちに馴染めたわけではない。
人間と間違われるたびに胸が痛んだ。視線の高さから感じる視界の狭さに不安を覚えた。鋭くなった味覚や嗅覚のせいで、食事が苦痛で仕方なかった。触れるたびにこれが自分の体かと違和感があった。
しかし今では、人間に間違われてもそんなものだと感じられる。人間に似た姿を使ってマルスに潜入することにもためらいはない。まだ難しいことはできないとはいえ、料理にも慣れてきた。こうして自分の手を見ても、もう違和感はさほど感じない。……酒が飲めなくなったことだけは残念だが。
レンは頭からちょこんと生えている角に触れる。ひんやりとして滑らかな手触り。
この姿になった当初は、角にはあまり触れたくなかった。嫌でも自分は変わったのだと痛感させられたから。けれど今は違う。
この角は確かに自分が変わった象徴だ。しかしそれと同時に、変わらなかった象徴でもある。
オーガとしての巨体も、鋭く硬い牙や爪も、鎧のような筋肉も、何もかもが失われた。でもオーガにとっての誇りである角だけは形を変えても残った。
それがレンにとってどれだけ救いになったことか。こればかりはオーガの仲間たちにすら分からないだろう。
これがあるからこそ、レンはオーガであるということを忘れずに済むし、自己が揺らぐこともない。
そういう意味では、自分よりもリュールの方が危ういように感じられた。名付けを求められた時にふと見せた、罪悪感に満ちた表情。今思い出しても胸を締め付けられるほどだ。
――そんなに、気にしなくても良いのにな。
胸の中に湧いてくる過剰なものを深呼吸でなだめながらレンは思う。
魔物の世界では、名付けで服従や忠誠を刻むのは当たり前だ。自分の件では少し違うが、裏切れないという点ではそこまで変わらない。
そういう意味では、レンはリュールを恨んではいない。力と生還の代償としては、今となっては軽いと思えるほどだ。
リュールが自分に服従を求めていたなら、自分はただリュールの指示を待ち続けるだけの人形となっていただろう。
忠誠を求めていたなら、過剰な崇拝をする狂信者となっていただろう。
しかし自分はそのどちらでもない。リュールに大きく影響を受ける精神構造にはなってしまったが、それは自分を操るほどの強度を持たない。
感情のままに行動するも、それに逆らうも、レン自身が選べる程度だ。
それができずに壊れたり、もしくは名付けの影響に気付かず流されたりする魔物もいるだろうが、自分はそうではない。
これだけの魔力を押し付けられてなお、自分の思考がこうして生きていることは、生還できたことも合わせて奇跡に思えた。
レンはそのように考えており、名付けの意味すら知らなかったリュールにその責任を問う気は無いのだが……どうやらリュール本人はそうは考えていないらしい。
自分を見る罪悪感と緊張の入り混じった表情。あれを見て、薄々そうではないかと思っていたことをレンは確信した。
――リュールは……オレへの名付けを後悔している。
それも魔力の与え過ぎではなく、倫理的なことだ。理由は何となくだが分かる。
リュールは優しい。魔物としては珍しいほどに。魔物であるはずなのに、精神は人間を友と思い、人間に近いものがある。きっとそのことと関係があるのだろう。
レンが最初に説明した名付けの影響……強い親しみを感じる程度のことで、あんな顔ができるほどに優しいのだ。
「本当のことは……言えないな」
レンは胸に手を当てながら呟く。
実際の影響は、親しみを感じるどころではない。レンの思考や感情の中心は、自分ではなくリュールで固定されてしまっている。
リュールが喜べば嬉しい。
リュールが落ち込めば悲しい。
リュールが願えば一も二もなく叶えたくなる。
リュールと一緒にいると満たされる。
リュールと離れていると不安を感じる。
リュールに好かれたい。
リュールに嫌われたくない。
リュールに触れたい。
リュールを抱きしめたい。
リュールの手をいつだって握っていたい。
リュールのことなら全て知りたい。
常に心に吹き続けるそれは、生来の自分が持つ気質ではない。自分の中心を他人に置くなどとは、本来の自分なら一番嫌う生き方だ。
だが、植え付けられた以上はもうどうしようもない。レンは生涯をかけてリュールに対する執着と依存に向き合っていかねばならない。
そしてリュールがもしもそれを知ってしまったら、心優しい彼は罪悪感と自責で潰れることだろう。
――絶対に、悟られるわけにはいかない。
レンは胸元に当てた手をきゅっと握った。




