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閑話一「ユナのひとりごと」



夜、宿の部屋で、ユナは眠れなかった。


エルムの里からダーレムに向かう途中の宿場だ。一日歩いて、夕食を食べて、部屋に戻った。疲れているはずだった。体は疲れていた。足の裏が、長い距離を歩いた後の感触を持っていた。しかし目が閉じない。


天井を見た。


木の板の天井だ。節の模様がある。宿によって天井の高さが違う。この宿は天井が低い。手を伸ばしたら届くかもしれない。届かないだろうが、届きそうな低さだ。


真の部屋とは壁一枚隔てて隣だ。


物音は聞こえない。もう寝ているのかもしれない。昨夜、ガルドと遅くまで焚き火の前にいたと聞いた。今夜は早く休んでいるだろう。


眠れない理由が分からなかった。


体は疲れている。眠れない感触の原因が、体ではなく頭にある。頭が動いている。止まらない。歩いているときは一歩一歩に集中できるから、余計なことを考えない。しかし横になって目を閉じると、頭が動き始める。


ユナは天井を見ながら、静かに考えていた。


何を考えているか、と自分に聞いた。


旅のことか。言霊師のことか。エルフのことか。次の目的地のことか。どれでもなかった。頭の中にあるのは、今日の出来事の断片だ。朝、里を出たときの声。歩きながら農地を見ていたこと。昨日の屋台で焼き菓子を食べたこと。料理を作っているときの真の顔。


真の顔のことを考えていた。


ガルドが「生き生きしてた」と言っていた。朝に真からそれを聞いた。料理をしているときの顔が、他のどの場面とも違う顔だったと。迷いがなく、計算がない顔だと。


ユナも昨日見ていた。


鍋を確認しているときの真の目。食材を切っているときの手の動き。全部を並行して管理しながら、各部分に適切な注意を向けている状態。あれは、コンビニで夜勤をしていたときに身についた能力だと真は言っていた。複数の作業を同時に進めながら、どれも止めない。その感覚が、料理に活きている。


最初に真を見たとき、何者か分からなかった。


黒い髪と黒い目だけで、それが何を意味するかは知っていた。言霊師の特徴だ。伝承に記されている。しかし知識として知っているのと、実際に目の前に現れるのとでは、話が全然違う。


知識の中の言霊師は、力を持った存在だった。世界の秩序を保つための役割を担った種族。三万年前に消えた存在。それが目の前に現れた。


しかし現れたのは、コンビニで夜勤をしていた、自分の力を知らない男だった。


「やめろ」という一言で盗賊が逃げたとき、ユナは驚かなかったわけではなかった。驚いた。しかし、それより先に思ったことがある。


この人間は、自分の力を知らない。


力があるのに、力があることを知らずにいる。その状態は、ユナには何となく切なく見えた。コンビニというところで夜中働いていた話を聞いたときも、似た感覚があった。


どれだけの言葉を、誰にも届かないまま使い続けてきたのだろう。


一人で夜中に立っていた時間。レジを打つだけで、声をかける相手もいなかった時間。声が届く先がない状態で、五年間言葉を使い続けていた。言霊の力を持ちながら、力を使う場所がない状態で生きていた。


それが今、少しずつ変わっている。


ユナは寝返りを打った。


天井が右側から見えた。節の位置が変わった。


自分がなぜこんなことを考えているのかは、分からない。人に興味を持つ方ではないと自覚している。一人でいる方が楽で、一人で動く方が自由で、そうやって生きてきた。人と関わることで得るものもあるが、失うものの方が多い場合が多かった。だから人との距離を一定に保ってきた。


でも今は、壁一枚隔てた隣の部屋に人がいることが、嫌ではない。


それどころか、なんとなく落ち着く。


この感触が何なのか、ユナには説明できない。隣にいると落ち着く、という状態は、これまでの自分には存在しなかった状態だ。一人でいる方が落ち着く、というのが自分の基準だと思っていた。しかし今夜の状態は違う。


壁一枚向こうに人がいることで、眠れる気がしてくる。


「……変なの」


ユナは小声で呟いた。声が暗い部屋に消えた。


なぜ変なのか、と自分に聞いた。


変ではないかもしれない。人間が人のそばで落ち着くのは、おかしいことではない。本来そういうものだ。ユナがそうではなかっただけで、ユナの基準が例外的だっただけかもしれない。


しかし例外的な状態が長く続くと、それが基準になる。


ユナにとって、一人でいることが基準になっていた。だから今の状態が「変」と感じられる。変ではない状態が変に感じられるのは、自分の基準がずれていたからかもしれない。


暗い天井に、「まこと」という言葉が浮かんでは消えた。


意味は「真実」。本当の、偽りのない。


旅の最初の頃、ガルドに教えてもらった。日本語で「真」は真実という意味だと。その名前の通りの人間だと、ユナはなんとなく思っていた。


真が言うことは全部、直接で嘘がない。


格好をつけない。弱いところも、知らないことも、そのまま言う。「分からない」と言える。「できない」と言える。「怖い」とは言わないが、代わりに別の言葉で同じことを言う。言葉を飾らない。必要なことを必要なだけ言う。


昨日の屋台で、「最初の感想の方が本当だろ」と言った。


「美味しい」と言ってから「別に普通だけど」と修正を入れたとき、修正を入れていることに気づかれた。そして修正前の感想の方が本当だと言われた。


正しかった。


最初の感想が本当の感想だった。美味しいと思った。修正は後から来た。修正を入れた理由を考えると、はしゃいでいると思われたくなかったから、という答えが来る。そんなことを気にする必要があるか、と言われると、ない。


しかし気にしていた。


なぜ気にしていたかを、真の前では考える機会が増えた。修正を入れようとするたびに、なぜ修正するのかを一度考える。考えると、理由がない場合が多い。理由がなければ修正しなくていい。それが「楽しみ」という言葉が修正なしで出てきた過程だ。


そういう人間に、ユナは会ったことがなかった。


いや、正確には、会う機会がなかった。


ユナの来た場所を、ユナはあまり思い出したくなかった。


神聖国の神官が言っていた言葉がある。「銀髪紫眼の少女が神の器として生まれた」という記述があると。その少女がユナである可能性があると。


確認しなくていい、と言った。


なぜ確認しなかったかは、確認して何かが変わるのが怖かったからではない。確認することで、外側から自分の在り方が決まることへの拒否があったからだ。


私は私のことを自分で決める。


その言葉は本心だった。来た場所がどこであれ、何のために生まれたとされていても、自分が何者かは自分が決める。外側から定義されることへの抵抗は、ずっとある。


そしてこの旅を通じて、少しずつ自分で決められてきた感触がある。


一人でいる方が楽、という基準が正しいかどうかを疑えるようになってきた。修正を入れる前に理由を考えるようになった。「楽しみ」という言葉を声に出せた。「一緒にいていい?」と聞けた。


「一緒にいていい?」と聞いたとき、真は「当然だ」と言った。


迷わなかった。


一秒も間がなかった。考えてから言った言葉ではなく、思ったことが言葉になった感じの速さだった。「当然」という言葉が、どれだけのものを含んでいるかが伝わった。一緒にいることが当然だ、というのは、一緒にいてほしいという意味でもある。


その言葉が、夜が変わっても頭の中に残っていた。


ユナは天井から視線を外した。


窓を見た。今夜は雲があって星が見えない。暗い窓だ。外の音も少ない。宿場の夜中は静かだ。


今夜は少し、来た場所のことを思い出してしまった。


真実という意味の名前を持つ人間が隣にいるから、かもしれない。その人間が、ユナの言葉の修正に気づいて、修正前の言葉の方を選ぶから、かもしれない。そういう人間がいると、自分の在り方を誤魔化さなくていいという感触が来る。誤魔化さなくていいということは、来た場所のことを思い出すことも、できる。


来た場所は、あまり良くない場所ではなかった。


良くないと言い切れるかどうか分からないが、一人でいることが基準になった場所だった。人との距離を保つことが安全な場所だった。関わることで失うことが多かった。


しかし今は違う。


今この宿場で、壁一枚向こうに人がいる。その人間が「当然だ」と言った。一緒にいていいかと聞いたら、迷わず「当然だ」と言った。


そういう言葉を、来た場所では聞いたことがなかった。


目を閉じると、真が作った料理の味が蘇った。


煮込みスープの、食材の旨味が出た味。薄皮包みの、外が焼けて中が柔らかい食感。甘い菓子の、木の実と蜜が合わさった味。それぞれが記憶に残っていた。


味の記憶は体に入る。頭だけでなく、体が覚える。その食べ物を食べたときの状況と一緒に残る。里の広場で、里の人間が「美味しい」と言っている声の中で食べた味だ。真がユナの横で料理を配っていた。ユナが「美味しい」と言われるたびに真の方を見ると、真が確かめるような目でユナを見た。


そういえば、スープの隠し味を何にしたか聞くのを忘れた。


あの味の出所が分からなかった。根菜と肉だけではない何かが入っていた気がした。香草が何種類かあったが、どの香草がどの効果を出しているかが分からなかった。聞こうと思っていたが、片付けの手伝いをしているうちに忘れた。


明日、聞いてみよう。


それだけのことだった。


しかしそれだけのことが、いつもより楽しみに思えた。明日、真に聞く。真が答える。それだけのことが、明日の楽しみになっている。


こんなことが楽しみになるのは、以前の自分にはなかった感触だ。


一人でいた頃、明日が楽しみだったことはほとんどなかった。明日に何があるかは分かっていて、特別なことはなかった。変化がない日々の繰り返しに、楽しみを見つける習慣がなかった。


しかし今は、明日に何があるか分からない。何かが来る。それへの期待がある。その期待が、壁一枚向こうの人間と一緒にいることで来ている。


ユナは少し自分に呆れながら、目を閉じた。


眠れそうな気がしてきた。さっきまで止まらなかった頭の動きが、少し落ち着いてきた。


考えることが減ったのではない。頭の中の整理が少しついた感触がある。考えていたことが、一通り言葉の形になった。言葉の形になったことで、頭の外に出た感触がある。


眠れる。


目を閉じながら、ユナは今夜の最後の考えを確認した。


真は自分の力を知らないまま、五年間言葉を使い続けていた。誰にも届かない言葉を。それが今、届くようになった。里の人間に届いた。ガルドに届いた。オリヴィアに届いた。


ユナにも届いている。


それを言葉にするつもりはなかった。少なくとも今夜は。しかし頭の中では確かにある、ということを、暗い部屋の中で確認した。


明日、スープの隠し味を聞く。


それだけで十分だ、と思いながら、ユナは目を閉じた。


宿場の夜が、静かに続いていた。


---


続いて**閑話二「ガルドの手紙」**に進みますか?",

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