第二章 刻まれた呪縛 第11話
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時刻は既に深夜二時を回った。
純情な怪物が脱衣所で気絶するという事件はあったが、いまその当事者たちはすっかり静かになっていた。
そんな寝静まった『天城怪異相談所』の事務所。その執務室には明かりもつけずに沙都弥の姿があった。
『やはり「霊子術式」の書物を盗み出したのは、御子室に近いところにいて内部のことを把握している人間でしょう。そうでなければ、そもそも盗まれる、などという不測の事態は起こり得ませんから』
耳に当てた受話器から届くのは、穏やかでありながら、どこか鋭さを秘めた可憐な声音だった。
沙都弥は眉根を寄せながら応じる。
「ま、そう考えるのが妥当でしょう」
しかし、と沙都弥は続ける。
「相手の目的がわかりません。人智を超えた力に目が眩んだ、ってだけならいいんですが……御子室に近づけるだけの人間がそんな浅はかな考えで動くかどうか……」
『そうですね。一応、アラタさんには警告をしましたし、彼の強さならば万が一の事態は避けらると思いますが……』
「問題はミコト、か」
すぐに返事はなかった。
彼女――サクヤにも思うところがあるのだろう。
やがて返ってきた声には、どことなく複雑な色が浮かんでいるように沙都弥には感じられた。
『ミコト、さん……彼女は、その……お元気そうでしたね……』
「ん、まあ、アラタのヤツと仲良くやってますよ。花織のとこのお嬢さんとも、今日一日で打ち解けたみたいですし」
『私は、ミコトさんが生きてくれていることが、とても嬉しいです。ですが沙都弥……あなたは先代の――母上の判断が正しかったと思いますか?』
「…………」
今度は沙都弥が言葉に詰まる番だった。
先代――つまりサクヤの母は、第二次百鬼大戦を終結へと導いた存在だ。
二代目御子・カグヤ。沙都弥は彼女の側で先の大戦を戦い抜いて、その果てに一人の子供をこの手に託された。
『鬼の烙印』を持って生まれた忌子――本来ならば処分すべき呪われた少女。
「御子と黒き鬼姫との間に交わされた盟約、か」
ぽつり、と沙都弥は呟いていた。
第二次百鬼大戦に人類は勝利した。
だがその勝利は黒き鬼姫の気まぐれによるものだ。
かの鬼は人間を試すかのように人類に一つの呪いを残した。その象徴とも呼ぶべきが『鬼の烙印』を肉体に刻まれて生まれ落ちた忌子の存在だった。
その呪いは遅かれ早かれ火種となり得る。
だが、その現実から逃げるように、沙都弥は気楽な声を作って言う。
「ミコトは元気です。先代御子・カグヤの判断が正しかったかはわかりません。それでもあいつがいまも生きていられるのは彼女のおかげだ。だから、あの判断の是非はともかく、これで良かったとは思ってますよ」
『そう、ですか……ええ、そうですね』
「しかし、このタイミングでその話題となると、やはり敵の狙いはアメノミハシラである可能性が?」
『はい。もし違かったのだとしても、警戒は怠るべきではありません』
今度は即答だった。
沙都弥は事務所の窓から夜に沈んだ帝都の空を見る。
遥か先には暗闇の中に静かにそびえる塔があった。
その場所こそが、先の大戦における終結の地であることを知っている人間は、少ない。
仮に知っている人間がいたとしても、そこにいまも眠り続けているソレらを正しく認知している者となれば、それは先の大戦で最後の瞬間まで戦場に立っていた人間だけだろう。
だが、数が少なくとも、『いる』ということに変わりはない。
『敵が「鬼の烙印」のことを知っていたとすれば……いえ、御子室関係者であるならば、おそらくは知っているはず。そうともなれば「霊子術式」など目的の一端に過ぎないのかもしれません』
「所詮『霊子術式』による技法は、あくまで目的を円滑に進めるための手段でしかない、というわけか。……あるいは御子室の注意をそちらに引き付けるためだけに盗んだとも考えられる。……もしくはその両方……なんにせよ相手方の本命は『霊子術式』の復活なんかではない、と……」
はい、と電話越しにサクヤが頷く気配。
『私も近しい人間だからと気を抜かぬよう警戒をしておきます』
「自分の周囲さえ信用できない、って状況はさぞお辛いことでしょう」
『いいえ、私にはあなたが――母上が信頼した右腕が、いつだって傍にいてくれますから』
「やめてください。もう私はしがない嘱託対魔機動隊員で、しょぼくれた相談所の所長でしかないんです」
くすり、と二人は顔は見えずとも笑みを交わし合った。
しばしの沈黙が続いて、それからサクヤが呟く。
『最悪の事態にならなければ良いのですが……』
「あいつらには改めて念を押しておきます。だから大丈夫、アラタがついていれば、ミコトの安全も保証されます」
不安げなサクヤを少しでも安心させようと沙都弥は言った。
先の大戦に深く関わった女と、先の大戦の結果を誰よりも認識している少女は、世界の中心にそびえる塔を瞳の中に映し続けた。