第二章 刻まれた呪縛 第10話
10
一方その頃――。
タッタッ、タッタッ、とリズムを取りながら路地に足裏を叩きつける音が、月光に淡く照らされた世界に響いていた。
その音の発生源は、『天城怪異相談所』の近場一帯をぐるりとランニングしているアラタだ。
自宅兼事務所の前まで戻ってきたところで、ふうっと一息吐いて夜空の星々を見上げる。
額からたらりと流れた汗を拭って、僅かに乱れた息を深呼吸で正す。
(けっこう大変なんだな、こういう鍛錬ってのも……)
アラタは生まれたときから完成された肉体だ。
故に、本来ならば鍛錬などする必要はなく、少なくとも昨日まではしていなかった。
だが今日に限っては他にやることがなかった。いつもなら寝るまであーだこーだとミコトが世話を焼いてくるが――やはり歳の近い女の子同士のほうが楽しいらしい。
うるさいミコトに絡まれずに非常にヒマだったし、そのせいで妙に落ち着かなかった。
だから、桜香の「努力」という言葉を思い出し、それを実践してみようと思ったわけだ。
いざやってみたら思いのほか疲れた。
ランニングというのは性に合わないというべきか。
もとより大跳躍で長距離移動ができるし、単純に走るにしてももっと速く走れるアラタは、人間らしくペース配分を考えて走るという行為に疲れたわけだ。
主に肉体ではなく、それを制御するため働かせた頭が、である。
しかし、そんな真実に気付いていないアラタは、素直に人間世界の厳しさを痛感した。
(……こんなふうに努力をして、鍛錬していかねぇと強くなれないなんて、人間ってのはきついんだな……)
それでも憧れる。
いや、だからこそ憧れる、か。
生まれながら『最強』だったアラタとは違って、誰もが努力して日々の成長に励んでいる。
そんな人間たちの輪の中に入ることが出来たらと、時折アラタはそんなことを考えてはボーっとする。
「さて、と」
汗をかくというのは久しぶりだった。
はやく体のべたつきを洗い流したいと思ったアラタは、事務所の中に戻ると迷いもせず一直線に浴室を目指した。
脳の疲労のせいで睡魔に襲われていたせいもあったのだろう。アラタは特になにを確認するでもなくさっさと脱衣所の戸を開けて、
「え……?」
「は……?」
アラタはまるで石化したように硬直した。
視界に飛び込んできたのは肌色。つまるところ一糸まとわぬ肢体を水滴に濡らした花織桜香がそこにいた。
彼女の細くしなやかな首筋からつーっと雫が流れ落ちて、思わずその行き先を視線が追ってしまう。
それは白い鎖骨を経由して、控えめな双丘をふわりと駆け巡って、引き締まった腹部をおへそに沿って落ちていく。やがて柔らかそうな太腿に張り付いて、そこから膝、くるぶしを辿って融けていった。
艶めかしい曲線を描いたスレンダーな肢体を、見事に最後まで駆け下りた水滴だった。
そして、ようやくアラタは事態を理解し、そのときには頬に真っ赤な手形がついていた。
「な、な、ななな、なにしてんのよアンタ!?」
「あ、が――――っ」
桜香の驚きと怒りに満ちた声に、アラタはなにも言えなかった。
ただ口をパクパクさせ金縛りにあったように微動だにしない。
そこへ、
「桜香ちゃん? なに、どうかしたのー?」
ガチャリ、と浴室から脱衣所へと出てくる姿があった。
もちろんこちらも素っ裸だ。昔、まだ人間としての生活に馴染めずにいた頃、この目に映していたはずの肌色だ。
けれど。
あの頃とは違う。
ついているか、ついていないか、それくらいしか違いがなかったときとは違って、いまアラタの瞳にくっきり映ったソレはまさしく女体だった。
桜香ほど引き締まってはいないが、しかしだらしないというわけでもない。
柔らかそうな印象を与えてくるほどよい肉感に、なによりその華奢な体にしてはほどよく成長した胸――。
「アラ、タ……?」
きょとん、とこちらを見つめるミコト。
金縛りから解放されたアラタは咄嗟に手で顔を覆った。
だが、意図せず――あくまで意図せず、指と指との隙間からずっと一緒に暮らしている少女の素肌を見てしまった。もはや純真な少年の視線はミコトの柔軟性のある肢体に釘付けだった。
だが、それも刹那――。
精神年齢が一〇歳にも満たないアラタにとって、視界に広がる二人の少女の透き通った肌色というのは、あまりにも刺激が強すぎた。
そう、生まれながら『最強』と呼ばれた怪物と言えど、性的な刺激には到底勝てなかった。
アラタはその場で意識を失った。




