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黒薔薇狂詩曲  作者: 楠瑞稀
第一部 邂逅編
15/15

15 日常への帰還



「チェックメイトだ」


 ぞくりとするような深みのある声と共に、長い指が二人の首筋にそっと添えられた。

 それは一瞬の突風のように。

 残像を描く暇も与えず、たぶんその気になれば、彼らが気付く前にその首をひねり落とすことさえ可能だっただろう。

 だけど美貌の吸血鬼はただただ得意げに、にやりと笑った。


「――負けちまった、か……」


 小さく、掠れた声が聞こえた。

 淳哉はがっくりとうなだれると深々とため息をつく。


「全力を尽くした上の敗北だ。俺にできることはもう無いな、見事に完敗だよ」


 降参と言うように彼は両手を掲げる。しかしおどけるようなその仕種は、同時にどこか卑屈めいて見えてあたしはちょっとだけ嫌な気分になった。

 一方、昭仁も弟に続けてうなずいた。


「隣に同じく。さすがは名にし負う常盤闇の鬼神だ。元より我々が敵う相手ではなかったな」

「ふん、今更気付いたか」


 ルードヴィッヒは相変わらずの傲慢な態度で、当然のようにせせら笑った。秀麗な顔を歪めて笑うその様子は、毎度の事ながら比類なく嫌味に溢れている。

 そんなんだから余計に敵を増やすんじゃないかなと思っていると、彼は唐突にあたしを見てたずねた。


「さて下僕よ、これより先はどうするのだ」

「へっ?」

「何を呆けた顔をしておる。きさまの敵だ。処遇はきさまが決めろ」


 望むなら煮るなり焼くなり好きにしてやるぞ、と艶然と微笑むルードヴィッヒにあたしはひくりと頬を引きつらせた。


「べ、別にそこまでしてくれなくてもいいって。あたしは――そうね、もう問答無用で人を連れ去ろうとしないでくれればいいわ」


 そう言って、問い掛けるように彼らを見る。

 別に、多くを望みたい訳じゃない。

 ましてや敵討ちやら、父の死の責任を取れだとか、そういう事を言うつもりは一切なかった。

 ただこれまでどおりの暮らしができるならあたしはそれで、冷たい言い方をするならば後はどうだって、構わないつもりだった。


「分かっているよ。もうこの件についてはすっぱり諦めるから安心してくれ」


 淳哉はあたしの言葉にぶっきらぼうに答えた。

 世を拗ねたように捨て鉢で投げやりなその態度は、確かにあたしが何よりも望んだ答えだっただろう。

 だけどそれは、あたしの中で燻ぶっていた一つの感情を振り切らせた。


「そういう、何もかも終わってしまったみたいな言い方はよして!」


 いきなり怒鳴りつけられた彼らは、驚いたようにぱちくりと瞬きをした。

 まさかここで怒られるとは思っても見なかったのだろう。あたし自身言ってからしまったと顔を引き攣らせた。

 だけど言ってしまったからには、もはやなかったことには出来ない。

 あたしは半ば自棄になって、彼らに向かい合う。


「あのね、あたしは別にあなたたちが一族の中で出世したり、お母さんの為にいい病院を用意したりするのまで止めて欲しい訳じゃないのよ」


 そうした望みは決して悪いことじゃない。その為の力を持ちたいと思うことだって、誰に非難されるようなことではないだろう。


(こんなこと、あたしが言える立場じゃないのは分かっている……)


 彼らにしてみれば、あたしを連れて行くのが一番効率的で確実な手段だったからこそ、今回の計画を企てたのだ。

 それを自分の都合だけで否定して、ぶち壊しにした。そんなあたしの言葉は嫌味なぐらい傲慢で、白々しいことを言っているというのは百も承知の上だ。


 だけどそれでも私は――、本当に彼らがそれを望んでいると言うのなら、そんな簡単に絶望して欲しくはないと思った。

 それはあまりにも、悲しかった。


「諦めないでよ。だってあなたたちは……二人いれば何だって、できるんでしょ?」


 だからあたしは胸から溢れる気持ちをそのまま吐き出すように、彼らに言い放った。

 こんな事を言ってしまえば、彼らがまた同じ事を繰り返す可能性も無い訳ではない。

 それが予想できてあえて言ってしまったのは、きっとこの兄弟を心から憎むことができなかったからだろう。


(だけどやっぱり我が身が大事なら余計なことを言わない方が良かったかな……)


 今更ながら湧き上がる不安に、おずおずと彼らを窺っていると、


「……ふはっ!」


 ――いきなり淳哉が吹き出した。


 彼は腹を押さえてけらけらと笑い、やがて参ったとばかりに乱れた髪をかき上げた。


「確かに。安心しな、一度や二度の失敗で、そうやすやすと諦めちまうような俺たちじゃないさ」


 そうして彼は吹っ切れたように、晴れ晴れと笑った。

 それは初めて会った時のような野心に満ちた、しかしどこか小気味の良い快活な笑みだ。

 隣では昭仁が温かな眼差しで彼を見ている。


 あたしはそれを見てほっと胸を撫ぜ下ろした。


(ああ、そうか)


 二人からはもはや、何かに必死ですがりついているようなあの狂おしいまでの焦燥感はどこにも見当たらない。


(これで、やっとぜんぶ終わったんだわ)


 気が付けば、東の空がだいぶ白ばんでいる。

 もう、夜明けの時が近いようだった。



 

     ◇◇◇



 

「だからあたしはいったいあんたの何なのよっ」


 これだけを聞くとまるで口喧嘩の最中のカップルのような言い回しだけど、それは飽くまで勘違いだ。


 純哉と昭仁は短く謝罪の言葉を述べ、あの場を後にした。

 そうして残されたのは、あたしとルードヴィッヒの二人だけ。

 もっともルードヴィッヒはいきなり朝日は苦手だと言い放ち、さっさと棺おけの中に引きこもろうとする。それを慌てて追いかけて、あたしは書斎で彼を厳しく問い質すことになった。


 なにしろ聞きたいことは山ほどある。

 ルードヴィッヒは始めて顔を合わせた時からひたすらにあたしを『下僕』扱いしていたけれど、よく考えればそれはとんでもない。

 昭仁が語っていた『常盤闇の鬼神』の言い伝えが正しければ、立場はまるきり逆転するはずだ。

 それに彼の以前の主だったという人のことも、なんだか非常に気にかかる。

 逃がすかとばかりに袖を引っつかむと、ルードヴィッヒはその秀麗な顔を嫌そうにしかめやれやれとため息をついた。


「――下僕」

「いや、だから下僕じゃないって」

「きさまはあくまで余の下僕に過ぎんさ。きさまごときが余を服従させようとはおこがましい、いやむしろ片腹痛いわ」


 ふんと嫌味に笑って肩をすくめる。

 もっともそんな傲慢極まりない仕種すら一枚の絵になりそうなぐらい様になるのだから、それがまたいっそう腹立たしい。


「だけど四ノ宮の言い伝えでは、あんたは本家の人間に仕えるんじゃないの? 始祖の烏有なんとかって人に使役されたって――、」

「そんな昔のことは忘れたわ」

「はぁ、忘れたって……!?」


 彼は本棚から一冊の本を引き出すと、慣れた仕種で隠し扉を開いた。


「用件がそれだけなら余は日暮れ時まで眠りにつく。さすがに疲れた」

「あたしだってばりばり眠いわよっ」


 山登りをして掃除をして逃げ惑って、気がつけば完全に徹夜だ。

 いっそそのまま永眠しろとか思ったけれど、ルードヴィッヒはふいに何か思い出した顔であたしを振り返った。


「そうそう、すっかり忘れておったわ」


 彼は面白そうに、あたしのあごをひょいっと持ち上げる。


「そう言えば、たしか余はまだ食事の途中だったではないか」

「げえっ」


 そんなことは思い出さなくていいっ!!

 あたしは慌てて身を翻し逃亡を企てたけれど、忽然と扉の前に現れたルードヴィッヒに逃げ道を塞がれた。あたしはじりじりと後ずさる。


「ちょ、ちょっと冗談じゃないわよっ」

「それは余の台詞だ。寝起きにこれだけ働かされたのだぞ。ならばそれ相応の対価が与えられてしかるべきだろう」


 ルードヴィッヒは眉をひそめてため息をつく。

 だいたい、と探るような目であたしの顔を覗き込んだ。


「下僕の為にこれほどまでに身を削って働いた情け深い余に、きさまは礼のひとつもないのか?」

「うっ、それは――、」


 それを言われるとかなり弱い。

 いや、感謝の言葉だったらいくら言っても構いはしないけれど、ルードヴィッヒが望んでいるのはまた別のものなのだ。

 ルードヴィッヒはわざとらしい仕種で呆れたように肩をすくめる。


「恩人に感謝も示せぬようでは、下僕どころか人としてもいささか神経を疑わざるを得んなぁ」


 血も涙もない吸血鬼の分際で人の倫理観に訴えかける、その一言が決め手だった。


「わ、分かった。分かったわよっ。あんたに血をあげればいいんでしょ!」


 あたしはとうとうやけっぱちになって、そう叫んでしまった。

 ルードヴィッヒは途端にしてやったりとほくそ笑むけれど、あたしはせめてもの抵抗に慎重に慎重を重ねて念を押す。


「だけどちょこっと、ほんのちょこっとだからね。吸っていいのはっ」

「安心しろ、さすがに干からびるほどは飲みはせん」


(だからそれが信用できないんだってっ)


 早速後悔が押し寄せてくるけど仕方がない。

 あたしは覚悟を決めて、ぐいっと襟元を大きく開いた。


「ほら、どうぞ」


 そう言うと、ルードヴィッヒはふっと双眸を細くする。「イタダキマス」と小さな声が呟いたような気がしたけれど、たぶんそれは空耳だろう。

 美貌の吸血鬼はあたしの肩を押さえると、すっと首元に顔を寄せてくる。なんだかやけに背筋がぞわぞわしていたけれど、後のことを考えればそれは微細な問題だった。


 あたしはぎゅっと拳を握り締め、目をつぶる。

 がちがちに身を固くしていると耳元に小さな嘆息が聞こえ、ひどく蠱惑的な声が低く囁きかけてきた。


「――力を抜け……」


 吹きかかる甘い吐息にぞくりと背筋が強張る。

 ルードヴィッヒは耳朶の下を幾度かついばむと、じらすようにゆっくりと首筋に唇を落とした。どこか冷ややかで湿った感触が、愛撫するように咽喉元に触れては離れていく。


「……っ」


 思わず声が出そうになるのを懸命に堪える。

 それは味わうように、丹念に丹念に。

 皮膚の敏感で柔らかいところをちろりと優しく舐められ、かと思うと強く吸いつかれる。所有の証のように赤く印がいくつも散った。


 次第に足もとがふらつきだす。

 段々立つことさえままならなくなっていくあたしを、ルードヴィッヒの手が危うげなく支えた。

 そんな動作が幾度となく繰り返され、あたしはふいに強く腰を引き寄せられた。

 ふっと楽しげな笑みに紛れて、吐息が肌をくすぐる。

 ルードヴィッヒの鋭い牙がとうとう首筋にあてがわれたのが分かった。そして――、



 

 ――そこがあたしの限界だった。



 

「~~~っ。やっ、駄目! やっぱタンマっっ」


 ぶわぁっと全身を粟立てたあたしは我慢できずに彼の胸を突き飛ばす。が、押し出した腕の勢いがもろに自分に跳ね返ってきて、あたしは思わずたたらを踏んだ。そのままバランスを崩して一歩二歩と後ずさるけれど、三歩目に踏むべき床はしかしどこにもなかった。


「あ、れ……?」


 ぐらりと視界が傾ぐ。

 ぎょっとした顔のルードヴィッヒが手を伸ばすのが見えたけれど、さすがに間に合わない。

 周囲の光景がスローモーションのようにゆっくりと流れていく。

 全身の血が音をたてて引いていった。


「ちょ、ちょっとまたこれぇっ!?」


 ――そうしてあたしは懲りもせず、再び隠し階段を転がり落ちたのだった。   



 

    ◇◇◇



 

 重い瞼をどうにか開くと目の前に見慣れた天井が見えた。


(あ、雨漏りの染み……)


 たっぷり数拍間を取って慌てて身を起こすと、あたしは自分が自宅のソファーの上にいることにようやく気が付いた。


「え、ちょっと何これっ」


 きょろきょろあたりを見回そうとするも、途端に後頭部に鈍痛が走る。びっくりして手をやると見事なたんこぶが出来上がっていた。ご丁寧にソファーの上には枕代わりに保冷剤まで乗っている。


「ま、まさか夢オチっ!?」


 いや、さすがにそんな事は無いだろうと思うけど、それならどうして自分がこんな所にいるのか。

 あまりのことにソファーの上でしばし呆然としていると、とことこと足音が聞こえリビングの扉が開いた。


「あ~、みすずちゃん。ちょうど良かった、起きてたのね~」

「み、美登里さん……」


 見慣れたその顔に思わずほっと息をつく。それからそんな場合ではないのだと気付き慌てるけれど、彼女はにこにこと呑気な笑顔で先手を打った。


「みすずちゃん、あとでちゃんとお礼を言わなきゃね~」

「へっ?」

「わざわざここまで連れて来てくれたのよ、帽子を被った男の子と茶色い髪の男の子。どっちもなかなかかっこよかったわ。みすずちゃんも隅に置けないわね~」

「……」


 あたしは目をぱちくりと瞬かせた。

 そう言われて即座に脳裏に浮かぶのは、淳哉と昭仁の四ノ宮兄弟。

 だけどなんで帰ったはずの彼らが――、


「お母さん、二人から伝言頼まれちゃった。『キジンに送るよう言われました。後日改めてお詫びに参ります』だって。いまどき珍しいくらい礼儀正しい男の子ね」


 美登里さんはきゃっと恥らうように微笑むけれど、あたしはむしろ頬を引きつらせていた。

 礼儀正しいって言えば礼儀正しいけど、


(むしろ来なくていいから、本当に――っ)


「あ、そうそう。あのね」


 ぽんと手を叩き、美登里さんは今思い出したとばかりに可愛らしく首を傾げた。


「さっき弁護士の稲垣さんから電話があったんだけどね、相続の件どうするか決まりましたか、ですって」

「……そうだった」


 そういえばすっかり忘れていたけれど、あたしは別荘を見るためにあそこまで行ったんじゃないか。

 もっともそんな根本的な理由すら霞ませるくらい事件が立て続けに起こって、はっきり言ってそんなことを吟味するどころじゃなかった。


「――それから、みすずちゃん。ちょっと教えて欲しいんだけど」


 美登里さんは天使のように愛らしい表情で首を傾げると、あたしを覗き込んできた。


「それは、虫さされ?」


 首筋に残る赤い跡を指差して、無邪気な顔を向けてくる。


「……」


 なんだかいきなりどっと疲れがでて、あたしは何も言わずにぐったりとソファーに倒れこんだ。

 もうこんなことには二度と関わりたくないと切実に思うけど、あたしは夢うつつの中で確かにこの言葉を聞いた気がする。


(きさまを喰らうのは次まで待ってやろう……)


 冷たい緑の煌めきが脳裏に瞬いた。


 ――事態はこれで終わりという訳にはなりそうもない。


 あたしはゆっくりと目を閉じる。

 平穏だった日常は、どうやらこの先かなり前途多難なものになりそうだと、そんな予感がひしひしとした。



 


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