# 第1話:泥の中の金貨
# 第1話:泥の中の金貨
血と硝煙、そして臓物の臭いが、冷たい雨の混じる泥の中に立ち込めていた。
「――全軍、前進! 我が一族の名誉に賭けて、敵陣を踏み破れッ!」
豪奢な甲冑に身を包んだヴィスコンティ伯爵家の若き将校が、抜き放った銀の剣を掲げて叫ぶ。
それに応じて、数千の歩兵と重装騎士たちが地鳴りのような声を上げ、ぬかるんだ谷間へと突撃を開始した。
その突撃がいかに愚かであるかを、泥に伏せた一人の男だけは正確に理解していた。
「……無能が」
アラン・デュ・ボスクは、低く吐き捨てた。
身に着けているのは、死体から剥ぎ取った継ぎはぎの革鎧と、柄のすり減った不格好な長槍一本。身分は一兵卒、農民出身の徴用兵にすぎない。
だがその眼だけは、凄惨な戦場全体を盤面のように冷徹に見渡していた。
敵のマルセル公国軍は、正面の丘の上に陣を構えている。
連日の雨でぬかるんだ谷底を、重い鉄の鎧の騎士が駆ければどうなるか。馬の脚は泥に絡め取られ、勢いは死に、恰好の的になる。少し頭を働かせれば分かる道理だった。
案の定、空を裂く嫌な風切り音が響いた。
「クロスボウ隊、放てッ!」
丘の上から降り注いだ黒い矢の雨が、騎士たちの胸甲や馬の喉を貫く。
足を取られた重装騎士は、折り重なるように倒れていった。そこへ敵の軽歩兵が群がり、身動きの取れない騎士の兜の隙間へ、次々と短剣を突き立てていく。
栄誉と血統を誇った貴族たちが、ただの肉塊に変わっていく。
「おい、アラン! やべえぞ、右翼が崩れた! 俺たちも退却だ!」
泥まみれの顔で叫んだのは、同郷の巨漢の歩兵、マルクだった。丸楯は矢で割れ、息は荒い。
「待て、マルク。後ろを見ろ」
アランは首だけを動かし、自陣の後方を示した。
「退却路の森に、敵の軽騎兵が回り込んでいる。パニックになって背を向ければ、あの森の手前で一人残らず刈り取られる」
「じゃあどうすんだよ! ここにいたって弩の的だろ!」
「伏せていろ。死んだふりだ。矢は動く奴にしか降ってこない」
アランは容赦なくマルクの首根っこを掴み、泥の中へ引きずり倒した。
叫び声、悲鳴、肉の裂ける音、馬のいななき。
戦場は半時間ほど、一方的な屠殺場と化した。
栄誉を叫んでいたあの将校も、腹に矢を受け、無様に泥を舐めて息絶えている。
やがて勝ち誇った敵の歓声が響き、彼らは深追いを避けて丘へと引き揚げていった。森の軽騎兵も、いつの間にか姿を消している。勝ち戦で損害を出すのを嫌ったのだろう。
静寂が戦場を包む。
雨が強まり、散らばった死体から流れる血を洗っていった。
「……死んだかと思ったぜ」
マルクが震える声で顔を上げた。生き残ったのは、アランの周囲にいたほんの数名の農民兵だけだった。
「助かった……お前のおかげだ、アラン。で、これからどうする? 村に逃げ帰るか?」
「帰ってどうする。村に残っているのは重税と枯れた畑だけだ。来年にはまた別の貴族に狩り出されて、どこかの泥の中で死ぬ」
アランは立ち上がると、膝の泥を払いもせず、倒れた将校の死体へ歩み寄った。
指から黄金の指輪を抜き取り、腰の革袋を改める。ずっしりとした銀貨と、数枚の金貨が入っていた。
「おいおい、死体から盗むのかよ? バチが当たるぞ」
顔を引きつらせるマルクに、アランは冷淡に言い放った。
「死人に金はいらない。……だが、俺たちには要る」
アランは指輪と金貨を確かめると、マルクと生き残りの兵たちへ向き直った。
「いいか。戦場に栄誉や大義なんてものはない。あるのは損害の計算と、生き残った者の取り分だけだ。貴族どもは俺たちを使い捨ての駒としか思っていない。なら、こちらも奴らを『金払いのいい一時の雇い主』と思えばいい」
革袋から銀貨を数枚取り出し、怯える兵たちへ放る。
「今日の生き残り手当だ。村へ帰りたい奴は、それを持って去れ。……俺と来たい奴は、その金を元手に新しい仕事を始める」
「仕事……? 盗賊にでもなる気か?」
「逆だ」
アランは将校の長剣を拾い上げ、じっと刃を見つめた。
「盗賊を狩り、領主の小競り合いに加勢し、確実に稼ぐ。どこにも属さず、自分の命に自分で値をつけ、契約書一枚で動く。傭兵になる」
「傭兵だと……? 野良犬の集まりじゃねえか」
「野良犬で結構。首輪をつけられて豚のように殺されるよりはましだ。俺の命令に従えば、無駄な突撃で死なせはしない。働きに見合った金も払う。……どうする?」
兵たちは、手の中の銀貨と、目の前の冷たい眼をした青年とを見比べた。
家柄も血統もない。だがこの地獄で自分たちを生かしたのは、間違いなくこの男の判断だった。
マルクは深いため息をつき、落ちていた楯を拾い上げた。
「……ハッ、どうせ村に帰っても腹を空かせるだけだ。お前のしぶとさに賭けてやるよ、アラン」
他の兵たちも、黙ってうなずいた。
「決まりだ」
アランは低く笑い、空を見上げた。
雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から一筋の光が戦場を照らしている。
身分も、金も、名誉もない。
泥の底から這い出した一匹の野良犬が、やがて大陸の歴史を揺るがす黒狼へと成り上がる。その最初の一歩が、この泥まみれの戦場で踏み出されたのだった。
(第1話 完)
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