第06話|就職希望の水の精霊
第6話 就職希望の水の精霊
もっちゃんが尻尾で水面を叩くたび、けたたましい音が小川へ響いた。莉奈は結界の縁で足を止め、その向こう側を見回す。
森の木陰を縫う細い流れの一部だけが黒く濁り、茂みの奥では青白い光が弱々しく明滅していた。水辺の泥には、ねじくれた茨が絡み合い、小さな檻のような形を作っている。
「……何かしら、あれ」
莉奈が結界へ触れると、薄い光の膜に波紋が広がった。昨日も自分ともっちゃんは通れたが、今度は何が潜んでいるか分からない。足元の枝を拾って先に差し出し、何も起きないことを確かめてから外へ出た。
もっちゃんも後ろからついてくる。昨日は動けないほど弱っていたのに、今朝は足取りも軽い。
「もっちゃん、勝手に先へ行かないで。警戒係を頼んだ覚えもないんだからね」
「プクッ」
返事だけは立派だったが、もっちゃんはすぐ莉奈を追い越し、茨の手前で低く身構えた。
その時、檻の奥から微かなすすり泣きが聞こえた。
「……ごめんなさい……。汚い水を流して、ごめんなさい……。すぐ消えますから、怒らないでください……」
莉奈はもっちゃんの横へしゃがみ、茨の隙間を覗き込んだ。青白い光の正体は、手のひらに収まりそうなほど小さな、水の塊のような生き物だった。
透き通った水が人の姿をかたどったような外見で、頭から流れ落ちる水が髪のように揺らめき、腰から下は脚ではなく雫のように細くまとまっている。胸元には黒紫色の術式が刻まれ、そこから伸びた細い鎖が茨へつながっていた。体の大半は泥水のように濁り、青白い光も今にも途切れそうだった。
「あなた、どうしたの?」
莉奈が静かに尋ねると、小さな生き物は怯えて身を縮めた。
「前の契約主様に……『魔力が尽きて、もう役に立たない』と捨てられました。最後の命令は、ここから動かず、消えるまで誰にも見つかるなと……。命令に背くことも、契約を終わらせることも、私には許されていません……」
「使い潰したうえに、見えないところで消えろですって?」
莉奈は茨へ触れないよう手を引き、ゆっくり息を吐いた。動けなくなるまで仕事を押しつけ、役に立たないと判断した途端に切り捨てる。前世で見てきた扱いと似すぎていて、聞き流すことなどできなかった。
ただし、腹が立ったからといって、本人の意思を確かめずに別の契約へ割り込むつもりもない。救う側が勝手に決めれば、形が違うだけで同じことになる。
「確認するわ。あなたは、その契約を終わらせたいの?」
小さな生き物はすぐには答えなかった。胸元の術式が鈍く光るたびに、小さな体が震える。命令へ逆らう言葉そのものを封じられているらしい。
莉奈は【使役の眼】へ意識を向けた。命令ではなく、ただ一つの選択を送る。
――ここに残るか、契約を拒むか。決めるのは、あなた。
翡翠色の瞳を通して意思が届くと、小さな生き物は苦しそうに顔を上げた。声は出ない。それでも、震える両手で胸の鎖をつかみ、はっきりと首を横へ振った。
拒みたいという意思が、莉奈にも伝わってきた。
「分かった。あなたが終わらせたいなら、その拒絶に手を貸す。助けた代わりに私へ仕えろなんて言わないし、後から請求書も出さない。契約を切った後、どこへ行くかもあなたが決めて」
小さな生き物は驚いたように莉奈を見つめ、今度は何度も頷いた。
莉奈は茨の手前へ右手をかざした。【強制拒否】は、合意していない命令や契約から離脱するための力。今は目の前の生き物自身が、契約を拒んでいる。
「顔も知らない契約主へ伝言よ。廃棄処分まで部下へ押しつけるような契約は、本人から返品されました。受け取り拒否は認めません」
目の前の生き物の意思と重なるように、莉奈は強く念じる。
――【強制拒否】。
澄んだ音が一度だけ鳴った。莉奈の指先から白銀の光が細く伸び、小さな生き物の胸元に刻まれた術式へ触れる。
黒い鎖が激しく揺れた。契約を守ろうとする力が茨を締め上げ、小さな体が声もなく折れる。莉奈は腕を下ろさず、【使役の眼】を通して問い続けた。
――本当に、拒む?
小さな生き物は鎖を握ったまま、もう一度頷いた。
次の瞬間、黒紫色の術式へ亀裂が走った。
――パキンッ!
鎖は細かな光となって砕け、胸元の印も薄れていく。しかし、現実の茨まで消えたわけではない。力を失った小さな生き物は泥の中へ崩れ落ち、息をするように明滅した。
「ちょっと、契約は切れたんでしょう!? ここで消えたら困るんだけど!」
莉奈は慌てて茨を確かめた。太い棘が絡み合っているため、素手では触れられない。落ちていた丈夫な枝で少しずつ押し広げると、もっちゃんもくちばしで泥を掘り、下側の隙間を広げ始めた。
「だからって勝手に掘らなくていいの!」
「プクッ、プククッ!」
止めても聞く様子がない。莉奈は枝で棘を押さえ、もっちゃんが掘った隙間から手を差し入れた。冷たい泥へ指先が沈む。小さな体をすくい上げると、ほとんど重さを感じなかった。
「水……きれいな、水が……」
かすかな頼みを聞き、莉奈はその体を両手で包んだまま結界へ戻った。もっちゃんもすぐ後ろからついてくる。
台所へ運び込むと、浅い木の器に手押しポンプの水を入れ、小さな体をそっと浸した。最初は水面に泥色が広がったが、何度か水を替えるうちに濁りが薄れていく。青白い光も、弱いながら途切れずに続くようになった。
莉奈は椅子へ座り、器を見守った。もっちゃんもテーブルの下へ伏せている。泥を掘った前足には土がこびりついていた。
「あなたまで泥だらけになって。助ける側の後片づけまで、私の仕事に増やさないでよね」
もっちゃんは申し訳なさそうにくちばしを伏せた。莉奈は文句を言いながらも、濡らした布で前足の泥を落とした。
器の中では、小さな生き物がゆっくり身を起こしていた。濁っていた体は淡い青へ戻り、張りついていた髪も水の中で揺れている。完全に元気とは言えないが、少なくとも今すぐ消えそうな状態ではなくなった。
「……ありがとうございます。契約が、本当に消えています」
小さな生き物は胸元を確かめ、莉奈へ深く頭を下げた。
「お礼はいいわ。私は森川莉奈。こっちではリナでいい。あなたは?」
「水の精霊のネローと申します」
「そう。ネロー、動けるようになるまでここで休んでいいわ。回復したら、どこへ行くのも自由。前の契約主のところへ戻る必要もないからね」
莉奈としては、それで話を終えたつもりだった。器を窓辺の暖かい場所へ移し、自分もようやく椅子の背へもたれる。
だが、ネローは水からふわりと浮かび上がると、空中で姿勢を正した。まだ光は弱いのに、その表情だけは妙に真剣である。
「リナ様。私は本日より、こちらで働かせていただきます」
「自由になった初日に就職しないでください!」
莉奈の声が台所へ響いた。もっちゃんは驚いてテーブルの下から顔を出し、ネローは不思議そうに首を傾げる。
「なぜでしょうか。自由とは、自分の意思で仕える方を選べることではないのですか? 水回り、洗濯、風呂沸かし、毎朝の清掃まで、すべて私にお任せください。休まず働いて、必ずお役に立ってみせます」
「休まず、の時点で不採用よ! 契約から解放された直後に、自分で二十四時間勤務を始めてどうするの!」
「ですが、役に立たなければ、ここにいる資格が……」
そこまで言って、ネローは黙った。前の契約主に捨てられた時の言葉が、まだ強く残っているのだろう。莉奈は頭ごなしに追い返す代わりに、椅子へ座り直した。
「まず、役に立つかどうかと、ここにいていいかどうかは別。ここへいたいなら、そう言えばいいの。仕事をするなら、頼む内容と休む時間をその都度決める。嫌になったら断っていいし、いつ出ていってもいい。私を主人と呼んで、何でも命令どおりにする契約は結ばない。それでも残りたい?」
ネローは何度か瞬きをした。すぐに返事をせず、器の水へ視線を落として考えている。やがて顔を上げると、今度は先ほどより静かな声で答えた。
「……残りたいです。できる仕事があるなら、相談して決めたいです」
「それなら仮採用。報酬は安全な居場所ときれいな水、それから無理な仕事を断る権利。最初の業務は休養よ」
「休むことが、業務……」
「そう。ここは私の休暇用住宅なんだから、休めない人は方針違反です」
ネローは困惑しながらも頷き、器へ戻った。莉奈はようやく息をついた。
莉奈は戸棚から果実を取り出し、自分の昼食にする分ともっちゃんへ与える分を切り分けた。もっちゃんには昨日と同じように少量ずつ食べさせる。ネローの器は水が濁るたびに入れ替えた。
「私まで食事を用意したほうがよろしいでしょうか」
三度目に水を替えた時、ネローが器の縁から顔を出した。莉奈は果実をかじりながら首を横へ振る。
「今日は休養が仕事だって言ったでしょう。そもそも私の食事は、この果実を切っただけ。手伝うほどの工程はありません」
ネローはまだ落ち着かない様子だったが、言われたとおり水へ体を沈めた。莉奈が皿を洗い、もっちゃんの食べこぼしを片づけている間にも、青白い体の濁りは少しずつ薄れていく。
窓から差す光が台所の奥まで移った頃、ネローは器から浮かび上がった。まだ素早く飛ぶことはできないものの、家の中をゆっくり移動できるまでには回復している。
勝手口から外を眺めたネローは、もっちゃんが作りかけた細い水路に気づく。流れは家の近くまで届いているものの、ところどころへ泥が溜まり、水があふれかけていた。
「リナ様。休ませていただいたお礼に、あの流れだけ整えてもよろしいでしょうか。短い範囲なら、今の力でもできます」
莉奈はすぐには許可せず、ネローの光と動きを確かめた。無理をしている様子はなく、本人も待っている。
「家の近くまで。今ある溝を整えるだけ。広げない、増やさない、疲れたらやめる。それでいいならお願いするわ」
「はい!」
許可を得たネローは水路の上へ移動し、両手をかざした。あふれていた水が細い帯となって浮き上がり、泥を避けて流れ始める。
そこへ、もっちゃんが「プクーッ!」と割り込んできた。平たい尻尾を振り、自分が掘った水路を得意げに示している。
ネローは水の流れを見つめ、少し考えてから口を開いた。
「もっちゃん殿。水脈を見つけた腕前は見事です。ただ、この場所は少し傾きが足りません。泥が溜まるので、入口だけ広げてもよろしいですか?」
「ペチペチッ! ペシンッ!」
もっちゃんは反対するように尻尾で泥を叩いた。跳ねた泥がネローへ飛ぶと、水の膜がさっと受け止め、まとめて脇へ流す。
「では、流れを止めずに直す方法で競争いたしましょう」
「競争しない! 相談はどこへ行ったのよ!」
莉奈が止める間にも、もっちゃんは泥を押し固め、ネローは水流を細く分け始めた。二人とも最初に決めた範囲からは出ていないが、仕事への熱意だけはすでに過剰である。
結局、家の近くの水路は短時間で整った。莉奈は追加工事を始める前に二人を家へ戻し、ネローには再び器で休むよう言い渡した。
夕方、ネローは許可を取ったうえで浴室の水を温める手伝いをした。炉の薪で湯を沸かし、ネローが水をゆっくり巡らせたことで、浴槽の温度はどこも同じになっている。
「便利なのは認めるけど、毎日やる必要はないからね」
「はい。リナ様がお望みの日だけ、お手伝いします」
少しは話が通じたらしい。湯上がりの莉奈は長い髪を拭きながら居間へ戻り、明日の朝こそゆっくり眠ると宣言した。
「いい? 日の出前に仕事を始めない。庭を掘る時は、先に私へ相談する。明日は空き地の端に、自分で食べる分だけの小さな菜園を作る場所を見ます。見るだけなら構わないけど、勝手に広げないこと」
「承知いたしました。場所を確認するだけですね」
「プクッ!」
二人の返事を聞き、莉奈はソファーへ横になった。今度こそ、規則は十分に伝わったはずである。
◇
翌朝。
土を叩く音で目を覚ました莉奈は、嫌な予感を抱えながら勝手口へ向かった。扉を開けると、朝の冷たい空気と土の匂いが流れ込んでくる。
昨日まで草の残っていた空き地には、何本もの真っすぐな畝が並んでいた。もっちゃんが尻尾で土を固め、ネローが水を細く流して高さを測っている。二人の言う「場所の確認」は、どうやら整地と試掘まで含むらしい。
しかも、作業範囲は空き地の端どころではない。家の裏側いっぱいまで、黒い土が掘り返されていた。
「……誰が、庭を農場にしろって言ったのよぉぉぉっ!?」
莉奈の叫びに、もっちゃんとネローはそろって振り返った。
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