表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

津軽信枚と妻たちに関する疑問点と仮説にもとづいた「真実」

作者: hιroκι
掲載日:2026/08/01

1. はじめに


「歴史とは勝者の歴史である」とよく言われる。つまり、歴史の勝者、すなわち、時の権力者にとって都合の良い「事実」のみが資料として残り歴史となる。都合の悪い事柄は記述されることなく、歴史として残らない。また、都合の良いように改変された記述が残ることすらありうる。


各地域で伝承として語り継がれるさまざまな物語の一部には、こうして勝者の公的な記録から抹消された物語の断片が残っていることがある。しかしそれらもまた、語り継がれる間に、語り部や地域の都合の良いように改変されている可能性もあり、すでに真実を知る術はない。


例えば、青森県黒石市のホームページにある、黒石藩祖である津軽信英(1620~1662)の紹介記事には、「信英は、1620(元和げんな6)年10月6日、弘前2代藩主津軽信枚のぶひらの二男として、江戸神田の藩邸はんていに生まれた。生母は、藤という人であったが、育ての親は徳川家康の養女で、信枚の正室の満天姫まてひめである。」と記載されている。

(https://www.city.kuroishi.aomori.jp/kankou/bunkazai/jinbutsuden/nobufusa.html 、2026年7月閲覧)


しかし、勝者側の記録である「歴史」としては、信英の生母は津軽藩2代藩主・信枚の正室であり徳川の養女である満天姫とするのが一般的である。そして、そこへ申し訳程度に「満天姫の実子でないという説もある」などと付記されるにとどまり、正体不明の「側室・藤」が歴史に登場することなど、寡聞にしてこの解説記事を読むまで筆者は知らなかった。


歴史に登場しない「側室・藤」とはどういった人物で、どんな役割を果たしたのか。地元・黒石にとって、どのような思い入れを持つ人物なのだろうか。現代の勝者といえる、公的な組織である黒石市が敢えて解説に明記したのはなぜか。


歴史の影に埋もれた人物が数多くいるだろうことは、想像に難くない。あるいは、歴史の中では、ほんの一行の記述としてしか残らない事柄の裏にどんな事実があったのであろうか。


人間社会は、常に人間関係によって成り立つ。そこには個人的な好き嫌いや誤解に基づく行動があったり、決して合理的とはいえない出来事も多いだろう。しかし、人間の行動原理はそれほど複雑ではない。どんな背景を持った人物が、どんな状況に置かれていて、なにを目的としたかが分かれば、その行動はおよそ推測がつこうというものである。


歴史を読み解くとき、単なる教科書的な出来事の羅列の中の一行に、ささいな疑問を感じることがある。その疑問から、その出来事が生じた背景、関係する人物たちの生い立ちや関係性を調べることで、その出来事の真の意味や、勝者の歴史からは抹消されたかもしれない事実を空想することは、とても楽しい娯楽となる。こうして空想した事実を繋ぎ合わせていき、その前後の歴史の流れとの整合性が取れていたりするのが確認できると愉快でならない。


そこに歴史的意義があろうがなかろうが、そこは問題ではない。歴史を読み解くことは、そこにある人間ドラマを空想で補いながら再構築することである。これこそが最高のワクワクのとまらないエンターテイメントである。


「科学、学問というのは、自らの知的好奇心を満足させられれば、それでいいのです。科学は実利的に役にたつべきでない」というのは、筆者の座右の銘である。本稿の執筆の動機を振り返ると、まさしくこれは至言であったと自画自賛している次第である。


筆者は歴史学者でもなんでもないただの空想好きな市井の一科学者である。したがって、本稿は歴史学的な検証を目的としたものではない。史実として確認されている事項を出発点に、その背景にあったかもしれない人間関係や心理を想像し、科学的な思考方法に基づいて論理の組み立てを行い、一つの歴史像として再構成する知的な遊びである。


本稿では、たまたま筆者が興味を持った津軽藩第2代藩主・津軽信枚とその妻たちに関わる歴史再構築を試みる。すなわち、江戸時代初頭、社会構造の転換期に、本来家督を相続するはずのなかった三男「信枚」と、石田三成の三女「辰姫」、徳川の養女「満天姫」、謎の側室「藤」の織りなす人間模様を中心とした歴史の再構築である。


そこには、石田三成の次男・石田重成(杉山源吾、辰姫の実兄)はもちろん、豊臣秀吉の妻・高台院(ねね、おね)、高台院の側近から大奥の筆頭女中となる孝蔵主、石田三成ゆかりの甲賀忍者、幕府からの目付役・服部康成(忍者・服部半蔵の子)、家康の側近である天台宗の僧侶・天海らが関わる。他にも福島正則や小早川など、挙げていけばキリがない。筆者の個人的な思い入れとしては、津軽藩初代藩主・為信の正妻である阿保良おうらのキャラクターも外せないところである。


これら、戦国から江戸初期の歴史有名人(と、一部の無名人)たちの関わる北方の辺境・津軽藩の「歴史」に、ワクワクがとまらずに執筆する次第である。門外漢の素朴な疑問と空想に満ちた仮説からの歴史再構築の試みを笑い飛ばしながらお読みいただければ幸いである。



2. 史実における疑問点


津軽信枚とその妻たちに関わる出来事について表1にまとめた。これらは、公式な史実として概ね合意がとれているものと考える。


1600年の関ヶ原の戦いの後、津軽藩初代当主・津軽為信が、石田三成の遺児(次男・重成、のちの杉山源吾)を受け入れたことは、(ア)西軍についた為信の長男・信建が重成の逃亡の手助けをしたという経緯、(イ)津軽家の成立時に石田三成から受けた恩義、(ウ)辺境の土地・津軽という江戸からの距離感、(エ)石田三成の残した商人、技術者、忍者などの人材や資金の魅力などの理由があったものと考えられる。すなわち、この判断の裏には、石田三成への義理や、その遺児に対する人情だけでなく、経済的な打算も多分に含まれていたものと考えられる。しかし、これらの石田三成の遺産が、現在の津軽地方の発展の基礎を成した事実を鑑みると、この判断は大成功であったといっていいのだろう。


初代藩主・津軽為信は1607年末に亡くなり、1608年に信枚は津軽へと帰国する。津軽騒動と呼ばれる家督争いの末に、1609年1月の幕府の裁定をもって、為信の三男・信枚が二代藩主となる。


1610年、二代目藩主・信枚は高台院の養女・辰姫(石田三成の三女)を正室に迎える。高台院は、東軍に寝返った豊臣恩顧の武将たち(福島正則、加藤清正、浅野幸長、小早川秀秋、黒田長政、豪姫(前田利家の娘)など)の中心であり、幕府でも隠然とした発言力をもっていた。このため、高台院の養女という肩書きを持つ辰姫の輿入れは、幕府としても認めざるを得なかったものと考えられる。


その後、幕府は津軽藩での内乱(高坂蔵人の乱、1612年)を理由に、家康の養女・満天姫を信枚の正室とすることで徳川への臣従の証をみせることを求め、1613年に輿入れすることとなる。これに伴い、信枚は、それまで正室であった辰姫を側室に格下げし、大舘(現在の群馬県太田市大舘町)に転居させた。


満天姫の輿入れに際して辰姫を離縁しなかったこと、参勤交代の際には必ず大舘に立ち寄ったこと、辰姫の産んだ長男・信義(幕府へは、満天姫の実子として届出)を次代領主にしたことなどから、信枚は生涯に渡って辰姫を深く愛したと伝わっている。


ここまででいくつかの疑問が生ずる。(ア)第一の疑問として、1610年から1612年までの約3年間、信枚は、どのように辰姫をここまで深く愛するに至ったのか。辰姫は、京都で育った才色兼備の美人であったと伝わっているが、果たして立ち振る舞いや美貌だけで、藩の存立を揺るがすようなことを許容するまでに愛せたであろうか。


徳川将軍も代替わりし、大御所・家康も70歳の齢である。豊臣恩顧の武将たちが次々に失脚していくなか、高台院の威光にも翳りが見え始めた時期であり、幕府が外様大名の粛正に熱心だった当時の情勢を考えれば、辰姫を切り捨てることが合理的な判断であったとも考えられる。


(イ)もう一つの疑問は、満天姫はなぜ信義を実子として幕府へ届け出たのか。あるいは、それを許したのかという疑問である。この生母を満天姫とした届出は、すなわち、信義を次代藩主に確定させるものである。満天姫は、なぜこの時点で、実子でない(辰姫の子、石田三成の孫にあたる)信義を次代藩主にすることに同意したのであろうか。信枚が強く懇願したとも伝わるし、信枚が押し通した可能性もあるが、その場合は再び第一の疑問に帰着する。


また、(ウ)第3の疑問として、万一露見すれば藩の存亡の危機となりうる危険を負ってまで、津軽藩が(あるいは満天姫が)虚偽の届出をした理由が挙げられる。そして、幕府はその虚偽の届出をそのまま受理したのは、なぜだろうか。幕府の調査力をもって詳細に調査すれば、信義が大舘の辰姫のもとで誕生したことは、容易に露見することであろう。或いは、幕府側に絶大な協力者がいるなど、詳細な調査はされないという確信、また、仮に露見しても、大事に発展することがないという確信に足る根拠があったのだろうか。


本稿では、この三つの疑問点に焦点を当て、それらを説明し得る仮説を立てる。



3. 仮説


本稿では、以下の5つの仮説をたてる。


(1) 辰姫は、1610年以前に津軽に落ち延び、潜伏していた。

(2) 1610年に輿入れのために孝蔵主に伴われて津軽入りしたのは辰姫の影武者だった。

(3) 満天姫は、前夫・福島正之の死により心的外傷(PTSD)を発症し、子供を産むことに忌避感を持つようになった。

(4) 信枚の次男・信英の生母は、津軽江戸屋敷の奥向きを仕切る女性であった。

(5) 黒石市などの記録にある信枚の側室・藤(信英の生母)は、辰姫の影武者として津軽入りした女性だった。


以下では、それぞれの仮説について、そのような仮説をたてるにいたった理由とその妥当性(あるいは、荒唐無稽さ)について記す。


(仮説1) 辰姫は、1610年以前に津軽に落ち延び、潜伏していた。


第2代藩主・信枚は、1607年に父・為信を亡くし、1608年に藩主となるために津軽へ帰国する。しかし、津軽で信枚を待っていたのは、当時23歳の新米藩主に対する軽視や、本来家督相続するはずだった長兄・信建(1607年没)の遺児・熊千代(当時9歳)を担ぐ一派との諍い(津軽騒動、1608-1609)であった。


もし、この時期に、辰姫が津軽に来ていたら、しかも、兄・石田重成(改名して杉山源吾)や石田三成ゆかりの忍者や技術者、商人などとともに、津軽に溶け込んで暮らしの基盤を整えていたらと、どうしても考えずにはいられない。この仮説が真であれば、精神的にもどん底だった1608年の家督相続争いの際に、辰姫は兄とともに信枚の津軽での地盤固めの手助けをし、特に辰姫は、信枚の精神的な支えとなっていた可能性がある。


信枚が生涯にわたって辰姫を愛したのは、単なる才色兼備の美人であったからではない。もちろん、辰姫が才色兼備の美人であったことが重要な要素であることは否定しない。しかし、人生で最も苦しい時期をともに過ごし、優しく接してくれた美女、精神的な支えとなった妙齢の女性であったからだとすれば、生涯にわたって愛し続ける理由としては、むしろ極めて自然なことのように思われる。


兄・石田重成(杉山源吾)もまた、政務や実務を支え、妹・辰姫は精神的な支えとなる。この兄妹が信枚を助けていたと考えると、その後の信枚と石田一族との強い結び付きも自然に理解できる。


なお、辰姫の津軽潜伏説は、比較的によく唱えられる説である。例えば、1603年の豊臣秀頼への千姫輿入れの際には、京都・大阪は、列席者や商人などでごった返しの状況であった。辰姫が大坂城などから脱出するとすれば、この時が最大のチャンスだったと考えられる。


逃走先は、兄・石田重成(杉山源吾)の仕官先の津軽というのは自然な流れであろう。津軽地方各地には、辰姫が隠れ住んでいたという伝承が残っている。石田三成ゆかりの甲賀の忍者・杉山八郎や多喜一族が逃走中の警護や誘導を行ったことは十分に考えられる。


また、杉山八郎や多喜一族は、1600年以降の歴史文献から名前が消える。このことは、辰姫の逃走に手を貸したかどうかは別にしても、少なくとも、石田重成(杉山源吾)の津軽行きに同行、あるいは、遅れて合流していたと考える大きな根拠となる。



(仮説2) 1610年に輿入れのために孝蔵主に伴われて津軽入りしたのは辰姫の影武者だった。


1610年時点で辰姫が既に津軽に来ていたとすれば、輿入れの花嫁行列の中にいた花嫁役が別途必要となる。それ以前に、例えば1603年に辰姫が大坂城など(その時点でどこにいたかは諸説あり)から逃亡していれば、必死の捜査がなされ捕獲されたり、あるいは、暗殺されていた可能性もある。この両者を説明するのが辰姫影武者説である。


これは、この筆者独自の説であり、荒唐無稽と失笑を頂戴して然るべきことは自覚する説である。しかしながら、この説を導入することで、いくつかの疑問が解消するのである。


例えば、1603年に辰姫が大坂城から脱出し逃亡したとすると、豊臣方も徳川方も必死に捜索し、追っ手を派遣するだろう。そこで、辰姫の養母・高台院が次のように言ったらどうだろう。


「辰姫は誘拐されたが、私の配下が無事に救出し、今は私が保護しています。また誘拐されては困りますので、このまま私が保護します」


豊臣方、徳川方の両者に対して政治的権力をもち、かつ、辰姫の養母である高台院の言葉に、両者ともに納得し、手を引かざるを得ない。また、この高台院の発言によって、津軽まで捜索にいく追っ手もほとんどなくなることだろう。


辰姫を保護している体裁を保つために、高台院は辰姫に背格好のよく似た影武者を用意する必要がある。当時の辰姫の年齢は12歳。高貴な女子は普段から人前で顔を晒すことはない。よほど親密な付き合いのもの以外には、偽物であることが露見することはないだろう。もちろん、それまでに辰姫の身の回りの世話をしていたものなどもいたであろうが、誘拐からの救出、保護という機会を理由に全て入れ替えてしまうことも不可能ではない。


高台院側近の孝蔵主がこれらの手配をし、影武者に各種教育を施しながら育成したとすれば、成長した後の、この影武者女性が重要な役割を担って暗躍することすら、空想できてしまうのである。



(仮説3) 満天姫は、前夫・福島正之の死により心的外傷(PTSD)を発症し、子供を産むことに忌避感を持つようになった。


信枚に輿入れする以前に、満天姫は福島正之(広島藩嫡子)と婚姻関係にあり、男子(直秀)をもうけている。正之は、広島藩主・福島正則の甥(姉の子)だが、男子がいなかった正則の養子となり、広島藩を継ぐ立場であった。


しかし、満天姫が正之に輿入れする前年1598年、正則に実子が誕生している。嫡子・正之の派閥、実子・忠勝の派閥との間には、様々な駆け引きや血みどろの抗争があったことは想像に難くなく、また実際にそうであったとされている。1599年の輿入れ当時、正之15歳、満天姫11歳である。はじめから恋愛関係とまではいかずとも、いわば戦友として連帯感のようなものから、好き嫌いを超えた情愛の仲へと発展していったのだろうと考えられる。


1606年、満天姫は男子を出産する。すなわち、嫡子・正之の次の領主候補である。このままいけば、実子・忠勝へ家督相続する流れは完全に断ち切れることになるため、藩主・正則は非情な手段を講じる。すなわち、正之の幽閉と満天姫の離縁である。表向きは、正之が狂心して乱行を繰り返すためとして、満天姫を家康に返上したのである。


1608年、正之が病死したとの報が満天姫のもとに届く。表向きは病死とされたが、藩主・正則の手による謀殺であることは明らかな状況であった。満天姫は、結果として前夫の死を招くことになった我が子・直秀(当時3歳)に憤りをぶつけるわけにもいかず、侍女・松島(満天姫の元乳母)に慰められながらも、徐々に心を壊していったものと考えられる。


そこで、満天姫に植え付けられたトラウマは、(ア) 家督相続争いはもう嫌だ。(イ) 血縁などというものは争いのもとでしかない。(ウ) 自分の血のつながった子供を産むのはもう嫌だという、血縁への忌避感であった。そして、自分たちが幼く何もできなかった無力感からは、常に先手先手を打って争いの芽がでるのを防ぐことの重要性を深く学んだと考えられる。


このように、満天姫は前夫との婚姻期間中の家督相続に関する諍い、実子・直秀を産んだことによる事態の急変、そして、前夫の死のショックから、PTSDを発症し、大きなトラウマを抱え、自身が子を産むことを拒絶するようになったのではないかという仮説である。


もし、この説が真であれば、満天姫が実子でない辰姫の子の長男・信義を実子として幕府に届け出、将来の津軽藩第3代藩主として確定させたことへの説明となる。特に確証のない説であるが、満天姫の背景を鑑みるに、十分にあり得る話だろうと考える。


余談であるが、福島正之との間に生まれた実子・大道寺直秀が福島家再興のために幕府に働きかけようとした際に、津軽藩の存立を優先して、実子・直秀を諌め、一説には毒酒を授けて毒殺したとされる伝承も存在する。この満天姫のかかえる血のしがらみへの呪縛と忌避感を考えると、この伝承も納得感をもって理解することができる。



(仮説4) 信枚の次男・信英の生母は、津軽江戸屋敷の奥向きを仕切る女性であった。


1613年、辰姫の転居と満天姫の輿入れと同時期に、神田の津軽藩江戸屋敷が再整備される。これまでは江戸滞在時の宿泊施設(旅宿)に過ぎなかったが、幕府との関係構築が藩の存亡を握る時代となり、領地にある本城(弘前城)と同様に、藩主や奥方が格式高く生活できる空間へと生まれ変わった。同時に、将軍家や幕閣との緊密な外交交渉(折衝)を重ね、中央の政情をいち早く察知するための「対幕府の政治拠点」として整えられた。


当時はまだ明文化はされていなかったものの、幕府からは、江戸屋敷にいわば人質として妻子を置くことを求められていた。そこで、この人質役として江戸屋敷に送られ、その奥向きの仕切りを任されていた女性(江戸屋敷の女主人)が、信枚の次男・信英を産んだのではないかという仮説である。


史実としても、信英は江戸屋敷で生まれたとされている。比較的頻繁に江戸に行く機会はあったとはいえ、主に津軽(弘前城)に住んでいた満天姫が江戸で産んだとするにはいささかの不自然さがある。江戸屋敷の女主人が産んだとすれば、この点はすっきりと納得できるのである。


また、すでに、側室・辰姫の産んだ子(信義)を満天姫の実子として幕府に届けているのだから、他の側室の産んだ子(信英)を、満天姫の実子として登録するのは自然な流れであると考えられる。



(仮説5) 黒石市などの記録にある信枚の側室・藤(信英の生母)は、辰姫の影武者として津軽入りした女性だった。


仮説(4)で挙げた津軽藩江戸屋敷の女主人こそが側室・藤であり、高台院や孝蔵主の薫陶を受けて育った辰姫の影武者だったのではないかという仮説である。もちろん、これこそはなんの確証もない荒唐無稽の空想力の賜物である。


しかし、地元の黒石市のホームページにまで公然と名が明記されている側室・藤が只者であるはずがない。一般には、信枚の次男・信英(黒石藩主)は、満天姫の実子とされつつも、側室・藤の子であるという伝承が公然と語り継がれている理由があるはずである。


側室・藤は、よほど優秀で活躍した人物であったに違いない。しかし、その出自や担った役割からして、歴史上は決して表には出せない秘密があったに違いない。


津軽藩江戸屋敷が再整備された翌年1614年には、孝蔵主が高台院のもとを離れ、大奥の筆頭女中に就任している。この異動の理由には諸説あるが、高台院の養女・辰姫を守るなどの目的で、この津軽家江戸屋敷の奥向きと連携をとるための動きだったと解釈することもできる。


筆者の空想の上では、彼女たちは、辰姫の保護や長男・信義(石田三成の孫)への家督相続を裏で画策したに違いないと確信するのである。このように考えた時、「側室・藤 = 影武者 = 孝蔵主と連携」という図式がピタリとハマるのである。


相も変わらず荒唐無稽な説ではあるが、ここまでの疑問を全て解消する絶妙な説ではないかと自負するところである。



4. 仮説に基づいた「史実」


ここまでに挙げた5つの仮説に基づいた主なイベントを表1の時系列に加え、一部修正を加えると表2のようになる。


この壮大な物語は、例えば1608年のふたりの再会から1623年の辰姫死去までの15年を描くだけでも、山あり谷あり超大作の大河ドラマになる。


大変に残念であるが、この超大作を紹介するのは、他の機会に残しておき、本稿では割愛することとする。



5. おわりに


本稿で述べた仮説は、いずれも筆者の空想による産物であり、史実を証明するものではない。しかし、この仮説に基づいて描かれる人間ドラマ、信枚、辰姫、満天姫、藤らの姿は、筆者にとって驚くほど自然で、いきいきとしたものであると感じる。


しかも、これらの仮説によって、先に挙げた疑問のおおかたが氷解する。すなわち、(ア)信枚が最も苦しい時期を支えた辰姫を生涯愛したこと、(イ)血のつながりという呪縛に苦しんだ満天姫が実子にこだわらなかったこと、(ウ)幕府内権力者への強力なコネクションをもつ有能な江戸の女主人・藤の存在によって幕府への工作が容易であったことが、疑問を必然の流れへと変えるのである。


さらにはそこに関わった高台院と孝蔵主の動きや心情も見えるようになる。高台院の晩年は幕府による豊臣恩顧大名のお取り潰しの時期であった。つまり、血のつながらない多くの子供達の母親であった高台院にとっては、相次ぐ我が子達の没落や破滅を目の当たりにし続けた日々だったのである。その中での高台院にとっての唯一の救いが、最後の愛娘・末娘の辰姫の幸せだったのではないだろうか。辰姫が津軽家嫡子を残し、愛する信枚に看取られる最期を聞いた翌年に、高台院もまた、幸せに息を引き取ることができたのではないだろうか。


血縁の呪縛に苦しんだ満天姫もまた、実子でない子どもたちを愛し守った。この点は、初代藩主・為信の正室であった阿保良おうらも同様であったが、実子を優先し贔屓するのが普通であった大名の正室としては、このふたりの存在は奇跡の連続であった。


満天姫は、血縁とは無関係に地域を愛し、津軽をまもり通した津軽の国母として、現在も津軽の民(津軽衆)から愛される存在になっている。津軽家は、信英が藩祖となった黒石津軽家と強固な連携をとりながら、江戸時代を逞しく生き延び、現在まで、その両家は存続している。これは、豊臣恩顧の外様大名家として異例のことである。


冒頭に述べた通り、歴史に残るのは、多くの場合、勝者が残した結果だけである。そして、勝者の歴史は藩主や武将の名を残す。しかし、その結果へ至る過程には、名も残らなかった多くの人々の意思や感情が存在したはずである。その歴史を支えた名もなき人々の存在は、時として一行の記述にも満たない。本稿における「側室・藤」は、そのような「歴史からこぼれ落ちた人々」の象徴である。


歴史とは、年号や出来事だけではない。その時代を生きた人々の思いを想像することもまた、歴史を楽しむ一つの方法ではないだろうか。もし本稿が、読者にとって津軽の歴史をもう一度読み返してみようと思うきっかけになれば、筆者としてこれ以上の喜びはない。



歴史ってオモシロイ!空想ってオモシロイ!両方が揃えば、もっとオモシロイ!




表1と表2の画像はこちらにあります。

https://x.com/fluxprofiler/status/2085099672323162183


(以下はテキスト版)


表1 津軽信枚とその妻たちに関わる出来事

 年  出来事

1550年 初代藩主・津軽為信誕生

1560年 石田三成誕生

1574年 津軽為信の長男・信建誕生

1575年 津軽為信の次男・信堅誕生

1585年頃 石田三成の次男・重成(のちの杉山源吾)誕生(生年は諸説あり)

1586年 津軽為信の三男・信枚(のちの第2代藩主)誕生

1589年 松平康元の娘・満天姫(徳川家康の養女)誕生

1592年 石田三成の三女・辰姫(高台院の養女)誕生

1597年 津軽為信の次男・信堅死去(23歳)

1598年 豊臣秀吉死去(61歳)

1598年 辰姫が高台院の養女となる。

1599年 満天姫、徳川家康の養女として、福島正之(広島藩嫡子)に輿入れ

1600年 関ヶ原の戦い、石田三成死去(41歳)、

1600年 石田三成の次男・重成が津軽に落ち延びる。杉山源吾と改名。

1606年 福島正之の長男・直秀誕生(生母は満天姫)

1607年 福島正之、廃嫡。満天姫と離縁する。

1607年 津軽為信の長男・信建死去(34歳)

1607年 津軽為信死去(58歳)

1608年 津軽信枚、京都より駿府、江戸などを経由して、津軽入り

1608年 福島正之死去(24歳)

1609年 津軽騒動落着、津軽信枚が公式に第2代藩主となる。

1610年 辰姫、津軽信枚に輿入れ

1611年 弘前城(当時は、鷹岡城または高岡城)完成

1612年 辰姫を正室から側室に降格、大舘(群馬県太田市大舘町)に移住

1613年 満天姫、津軽信枚に輿入れ

1614年 孝蔵主、江戸・大奥の初代責任者となる。

1614-15年 大阪の陣

1619年 側室・辰姫、信枚の長男・信義を出産。生母は満天姫として幕府へ届け出

1620年 満天姫、信枚の次男・信英を出産。生母は満天姫として幕府へ届け出

1623年 辰姫死去(32歳)

1624年 高台院死去(76歳)、信枚の娘(子之姫)誕生

1631年 津軽信枚死去(46歳)、長男・信義、第3代藩主となる。

1636年 大道寺直秀(福島直秀)死去(31歳)

1638年 満天姫死去(50歳)

1641年 石田重成(杉山源吾)死去(57歳ぐらい?)



表2 5つの仮説に基づいた歴史の時系列

 年   出来事

1550年 初代藩主・津軽為信誕生

1560年 石田三成誕生

1574年 津軽為信の長男・信建誕生

1575年 津軽為信の次男・信堅誕生

1585年頃 石田三成の次男・重成(のちの杉山源吾)誕生(生年は諸説あり)

1586年 津軽為信の三男・信枚(のちの第2代藩主)誕生

1589年 松平康元の娘・満天姫(徳川家康の養女)誕生

1592年 石田三成の三女・辰姫(高台院の養女)誕生

1597年 津軽為信の次男・信堅死去(23歳)

1598年 豊臣秀吉死去(61歳)

1598年 辰姫が高台院の養女となる。

1599年 満天姫、徳川家康の養女として、福島正之(広島藩嫡子)に輿入れ

1600年 関ヶ原の戦い、石田三成死去(41歳)、

1600年 石田三成の次男・重成が津軽に落ち延びる。杉山源吾と改名。

1603年 ※辰姫、大坂より脱出、津軽へ落ち延びる。

1606年 福島正之の長男・直秀誕生(生母は満天姫)

1607年 福島正之、廃嫡。満天姫と離縁する。

1607年 津軽為信の長男・信建死去(34歳)

1607年 津軽為信死去(58歳)

1608年 津軽信枚、京都より駿府、江戸などを経由して、津軽入り

1608年 ※信枚、辰姫に津軽にて再会(板柳の深味であろう)

1608年 福島正之死去(24歳)

1609年 津軽騒動落着、津軽信枚が公式に第2代藩主となる。

1609年 ※辰姫と信枚、実質的な婚姻関係となる(尾上の可能性が高い)

1610年 ※辰姫(影武者と入れ替わり)、津軽信枚に輿入れ

1611年 弘前城(当時は、鷹岡城または高岡城)完成

1612年 辰姫を正室から側室に降格、大舘(群馬県太田市大舘町)に移住

1613年 満天姫、津軽信枚に輿入れ

1613-14年 ※藤、津軽藩江戸屋敷に入る。(江戸屋敷奥向きを担う)

1614年 孝蔵主、江戸・大奥の初代責任者となる。

1614-15年 大阪の陣

1619年 側室・辰姫、信枚の長男・信義を出産。生母は満天姫として幕府へ届け出

1620年 ※側室・藤、信枚の次男・信英を出産。生母は満天姫として幕府へ届け出

1623年 辰姫死去(32歳)

1624年 高台院死去(76歳)、信枚の娘(子之姫)誕生

1631年 津軽信枚死去(46歳)、長男・信義、第3代藩主となる。

1636年 大道寺直秀(福島直秀)死去(31歳)

1638年 満天姫死去(50歳)

1641年 石田重成(杉山源吾)死去(57歳ぐらい?)

「※」を付記した部分は、筆者の仮説に基づき追加・修正した事項


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ