かわいいひと(五)
「あら、そんなの。残るなんて言ったら逆に怒るわよ?」
(まあ……)
ユーディットの言葉に、彼女の隣に座り羽根ペンを動かしていたディートリヒも、彼の後ろで書類を確認していたギュンターも、手ずからハーブティーを淹れていたバルバラも深く頷いた。
(本当にいいのかしら……)
隣に座っているレオンハルトを見上げれば、彼は目尻を下げ、小さく頷いてくれる。
それでも、本当に城を空けていいのかわからず返答に困っていると、ディートリヒはペンを止め、顔を上げた。
「ここはかつて私の生家だった。私がいたころはもっとひどい雪害や魔物被害もあり、私も直接現場に出たことがある。それに、ギュンターもこの地域の冬の過ごし方には精通している。だから何も心配せず行ってきなさい」
穏やかな声色と柔らかに細められた目に、ルシアナはやっとこくりと頷いた。
「……ありがとうございます、お義母様、お義父様。それに、ギュンターもバルバラも」
「お礼を言われるようなことじゃないわ。初めて一緒に過ごす誕生日くらい心置きなく過ごしてほしいもの。そもそも休暇に入る前はあまり一緒にいられなかったのでしょう?」
ルシアナに向ける優しい眼差しとは違い、ユーディットは厳しい目をレオンハルトに向ける。
「ギュンターから聞いたわよ。貴方が結婚式の翌日に狩猟大会の準備に行っていたのは知っているけれど、ルシアナさんに何も説明してなかったんですって? 休暇も取らずに任務にあたること自体おかしいのに、式の前日! 夜まで! 家を空けてたんですってね? 信じられないわ、まったく」
「すべて私の不徳の致すところです」
深く頭を下げたレオンハルトに、ルシアナは反射的に彼の手を掴むと「いいえ!」と声を上げた。
「仕方のないことですわ! レオンハルト様にとって、わたくしの存在は非日常ですもの! それに真面目にお仕事に当たられているというのは素晴らしいことです! レオンハルト様は――」
「いいんだ、ルシアナ。俺の考えが及ばなかったことは間違えようのない事実だからな」
もう一方の手をルシアナの手に重ねたレオンハルトは、宥めるように数回さするとユーディットへと視線を戻した。
「二度とそのような失態は演じません。これからは決して彼女を蔑ろにするようなことをしないと誓います」
(な、蔑ろになんてされていないわ……!)
そう思うものの、レオンハルトとユーディットの間の張り詰めた空気の間に割り込むこともできず、はらはらと二人を見守る。
しばしの静寂ののち、ユーディットは一つ息を吐き出した。
「その言葉が嘘ではないことを願うわ」
「お任せください」
レオンハルトは力強く頷くと、ルシアナへと視線を戻し、優しく笑んだ。
「今のは貴女への言葉でもある。もし蔑ろにされていると……いや、少しでも不快な思いや不満を抱いたら必ず言ってくれ」
今までだってそんなことを思ったことはない、と言おうとしたルシアナだったが、ルシアナが何か言うより早く、ユーディットが「そうよ!」と声を発した。
「レオンハルトもレオンハルトだけれど、ルシアナさんもルシアナさんよ。貴女はレオンハルトに甘すぎるわ。いくら政略結婚とはいえ、結婚式の前後にそんなことをされたら怒っても……いいえ、愛想を尽かしてもおかしないもの」
「で、ですが、わたくしは本当に気にしておりませんんわ」
「本当に?」
先ほどまでレオンハルトに向けられていた厳しい目が、今度はルシアナへと向けられた。嘘をつくことは許さない、と訴えるような目に見つめられ、ルシアナは思わず口を噤む。
(確かに寂しくはあったけれど……)
けれど、あのころは今のように心を通わせていたわけではないし、もう過去のことだ。今更蒸し返すことではないと考えていると、ギュンターが静かに手を挙げた。
「発言をしてもよろしいでしょうか、奥様」
「えっ? ええ……」
自分に許可を取るのか、と驚きつつ頷けば、ギュンターは目尻の皺を深めながら、優しい眼差しでルシアナを見つめた。
「奥様、あのときもお伝えしましたが、少しでもご不満に感じることがあれば、きちんと言葉にして伝えるべきです。それが原因で衝突することがあったとしても」
ふと、脳裏に式翌日のギュンターの言葉が蘇った。
『奥様。旦那様を慮り慎ましくいらっしゃるのは、貴婦人として素晴らしい行いだと存じます。しかし、もし少しでもご不満に感じることがあったなら、それはきちんと言葉に出しお伝えするべきです。ときには衝突することも覚悟の上で』
(あのとき、わたくしは何も思ったのだったかしら)
事前に知らされていたら、結婚式の翌日からはしばらく会えないのだと知らされた日から毎日寂しい気持ちになっただろう。
あの日の朝、何故事前に知らせてくれなかったのかとショックを受けたが、小さな寂しさを重ねるより、一気に底に落とされたほうが気持ち的に楽かもしれない。
聞き分けよく、まるで言い訳のようにそんなことを考えて、納得したような気がする。
(それで、わたくしはギュンターに――)
「あのときも奥様は『仕方がない』とおっしゃられました。そして、必要なことであればきちんと伝えると。私がこのように意見にするのは大変烏滸がましいことではございますが、奥様が抱かれた気持ちをどんな些細なことでもお伝えするのは、“必要なこと”なのではないでしょうか。それがいい感情ではなかったとしても」
語り聞かせるような彼の言葉に、そうかもしれない、と思ってしまった。
いつもついいい子のふりをしてしまうが、何か思ったことがあるならきちんと伝えるべきではないだろうか。
聞き分けのいい妻でいようとするのは、ある意味、彼を信頼していないということになるのではないか。
(それに……レオンハルト様はいつもわたくしのことを考えて、きちんとわたくしの考えや気持ちを聞こうとしてくださるのに、それに正直に答えないというのは嘘をついているということにならないかしら)
レオンハルトのことが好きだから、彼の目に少しでも良く映りたい。
レオンハルトのことが好きだから、彼の心を曇らせるようなことは言いたくない。
けれど、本当にレオンハルトのことが好きだというのなら、まるで自己保身に走るような言動は避けるべきではないのだろうか。
(そう、よね。だって本当は、もう何回か、すでに寂しいと感じたことがあるのだもの。今後のためにもきちんとお伝えしなければいけないわ)
ルシアナは、レオンハルトの手を掴む手に若干力を込めると、ユーディットとギュンターに視線を送った。
「ありがとうございます、お義母様。ギュンターも。これからは、きちんと気持ちを伝えていきますわ」
「ええ、是非そうしなさい。うちの子も、ルシアナさんには饒舌なようだし、少しも遠慮などしていない様子だから、ルシアナさんももっと自分勝手になっていいのよ。お互いに対する愛情が失われることなくあり続ける限りね」
ユーディットは軽くウィンクをし、ギュンターも肯定するようにしっかりと頷いた。
二人の温かな眼差しを受けながら、ルシアナはレオンハルトへと目を向ける。
どんな言葉でも受け止めると、真剣な眼差しで自分を見つめるレオンハルトに、ルシアナもしっかりと覚悟を決めた。




