北部の日常(二)
「奥様、北東ジェント地区に偵察に行っていた部隊が戻って参りました」
「通してちょうだい」
ルシアナの指示に家令のギュンターは軽く頭を下げると、執務室の扉を開ける。
「失礼いたします!」
待機していた若そうな騎士は張りのある声で敬礼すると、ソファに座る義母に軽く一礼し、執務机に座るルシアナの前にやって来る。
「ジェント地区は異常がありませんでした。山との境も確認しましたが、魔物の気配はなく、雪崩の前兆もありません。また魔物が暴れても雪崩の心配ないでしょう。ですが念のため、次に晴れ間が訪れたときは再度確認に向かうつもりです」
「わかったわ、報告ありがとう。あなたも、一緒に行った他の騎士たちも、温かくしてゆっくり休んでね。スープを用意してもらったからそれを飲んで体を温めて」
「は! ありがとうございます、奥様! それでは御前を失礼いたします!」
騎士は勢いよく頭を下げると、きびきびとした動きで部屋を出て行く。
扉が閉まるのを確認してから、ルシアナは羽根ペンを取り、先ほど聞いた報告を紙に書いていく。
(それにしても……先ほど報告に来た騎士もそうだったけれど、領地の団員はみんなとても元気なのね)
雪が降りしきる真夜中に突然街に繰り出されたというのに、彼らの目は爛々と輝き何とも元気があり余っている。
王都にいるラズルド騎士団の団員に元気がないというわけではないが、やはり雄大な自然環境のなかで生活すると、人はのびのび育つのかもしれない。
(けれど、いいことだわ。冬の間は基本的に外出ができないから、半ば強制的に室内に籠ることになってしまうけれど、それを苦に感じていないということだもの)
雪崩の影響が心配される北西部、北東部ともに問題なし、とまとめたところで、ルシアナは羽根ペンを置く。
扉の傍に控えるギュンターに目を向けると、ルシアナは柔らかく笑んだ。
「ギュンター、こちらはもういいわ。レオンハルト様たちがお帰りになるまでは気を抜けれないけれど、一旦休憩にしましょう。働いてくれているみんなにもそう伝えて。それから、レオンハルト様たちがいつお戻りになるかわからないから、今休める使用人には休んでもらってちょうだい。戻って来た騎士たちにも交代で休むように伝えてくれるかしら」
「かしこまりました。それでは私は一度失礼いたします。必要があればいつでもお呼びくださいませ」
ギュンターはルシアナとユーディットにそれぞれ頭を下げると、執務室を後にした。
扉が閉まると、ユーディットはソファに深く腰掛け、大きく体を伸ばす。
「雪崩の音が大きかったから心配だったけれど何もなくてよかったわ」
「はい。この城がしっかりと防護壁の役割と果たしたようですわ」
安堵したようにソファの背もたれに寄りかかる義母に、ルシアナも同じようなほっとしたような笑みを向ければ、彼女はルシアナを手招いた。
ルシアナはうさぎ型のペーパーウェイトを報告書の上に置き、柔らかな毛皮のショールを羽織り直して義母の元へと行く。隣に座るよう促され、勧められるまま腰を下ろせば、彼女は脇に置いていた地図をテーブルに広げた。
地図にはシルバキエ領全体の地形が記されている。
「北の山脈にはいろいろと魔物が住み着いているのだけど、そのなかでも山脈全体に広く生息しているのが氷角雪兎と尾長熊なの。この時期に起こる雪崩のほとんどは氷角雪兎が原因だから、本格的な冬が始まる前に狩りを行うわ。特に山の麓や、雪崩の起きやすそうな場所は徹底して調査して、生態系に影響を与えない程度に間引くの。そうね、今回は……」
ユーディットは一度言葉を区切ると、城の裏手の山を指差す。
「音と揺れの感じからして、今回の雪崩はおそらくこの辺り……わりと街に近いところで起きたと思うのよね」
「まあ……音と揺れでそのようなことまでわかるのですか?」
(レオンハルト様も、詳細がわかる前に「裏の山で」と口にしていらっしゃったけれど、慣れればわたくしもわかるようになるかしら)
レオンハルトの妻として、この土地の女主人として、これからずっとこの土地で生きていくのだから、自分も彼らのような状況判断ができるようになりたい。ならなければいけない。
そんなルシアナの想いを肯定するように、ユーディットは「そうね」と頷いた。
「何度も経験していると自然とわかってくるものよ。騎士として研鑽を積んできたルシアナさんなら、きっとすぐにわかるようになるわ。もちろん、雪崩なんて本当はないほうがいいのだけれど」
どこか諦めたように肩を竦めたユーディットに、ルシアナも同意するように頷く。
(そうね。そもそも雪崩などないほうがいい……あったとしても、それに脅かされないようにすべきだわ)
この場所をより住みやすい土地にすべく、できる限りのことをしよう、と改めて決意しながら、ルシアナは「それで」と言葉を続ける。
「氷角雪兎が裏山の近いところにいたのは、そこに巣があったからでしょうか?」
ルシアナの問いに、ユーディットは緩く首を横に振る。
「氷角雪兎はうさぎの姿をしてはいるけどとても好戦的で、視界に入ったものはわりと何でも襲うような性質をしているの。だから、民家に近い場所には巣を作らせないようにしているのよ。だけど……」
ユーディットは呆れたような溜息とともに、指先で地図に描かれた山々を叩いた。
「氷角雪兎は、大雪が降っていても、大量の雪が積もっていても、そんなこと気にもしないで移動するのよね。こんな寒いなか、どうして好きこのんで移動するのか……。氷角雪兎が飛び跳ねるのは、木に住み着いている鳥類や小動物を外に出すためだとか、ただ跳ねることを楽しんでいるだけだとか、様々な説があるのだけれど、わざわざ山を移動する理由はいまだにわかっていないの」
「そうなのですね……」
(魔物が移動をするときは、だいたいは餌を探しているか、もともと住んでいた場所に何かが起きて住めなくなったかのどちらかだけれど、理由がわかっていないということは、そのどちらでもない可能性が高いということかしら)
もしかしたらお散歩気分で山中を移動しているのだろうか。
“うさぎが雪山を散歩”、という字面だけ見ればなんとも微笑ましいものだが、そのうさぎは馬ほどの大きさで、散歩した先で他の種族と喧嘩していると考えると、微笑ましさの欠片もない。
「レオンハルト様は、氷角雪兎が尾長熊の縄張りに入ったことが今回の雪崩の原因ではないかとお考えのようでした。二種族の争いはよくあることなのでしょうか?」
「そうね。尾長熊は縄張りに入りさえしなければ無害な魔物なのだけど、氷角雪兎はそんなこと気にせず縄張りに入っていくから……わりとよくあるわ。あの子がそう判断したということは、この辺りに尾長熊の縄張りがあったのね」
ユーディットはしばらく地図を見下ろすと、ふ、と目を伏せて微笑んだ。
「領地を賜ってから全然帰ってないようだったから少し心配していたのだけど……そうね、あの子は真面目だから、自分が管理すべきものを他人任せにはしないわよね」
レオンハルトが領主として領地のことを深く理解していたことが嬉しいのか、ユーディットの横顔はとても優しいものだった。
ユーディットは大切そうに地図をひと撫ですると、ルシアナへと目を向ける。
レオンハルトと同じシアンの瞳の中で、暖炉の炎が穏やかに揺れている。
「かつてルドルティ王国があったこの場所は、北方のなかでは最も人が住みづらい土地よ。でも、私たちはこの不便で偉大な土地を愛してるの。慣れない間は大変かもしれないけれど、ルシアナさんにも大好きになってもらえたら嬉しいわ」
柔らかで、けれど芯の通った眼差しは、この地を愛する者の誇りが感じられた。それは、時折レオンハルトが見せるものと同じだった。
きっと、レオンハルトやユーディットだけではない。
不毛な土地だ、不便な場所だと言いながらも、この地を離れずに住み続ける者たちは、きっとみんな、この場所を愛しているのだ。
(……素敵だわ)
いつか、自分も同じ熱量の愛をこの土地に抱きたい。
何かが起きても慌てることなく、当たり前の日常なのだと何事もないように受け入れ、対処をして、過ごせるようになりたい。
義務感ではなく、羨望から、そんな気持ちを抱いた。
(もっともっとこの土地について知りたい。心からそう思うわ)
ルシアナは一度目を伏せると、深く息を吸い込み、それをゆっくりと吐き出していく。すべて吐き出し終えると視線を上げ、真っ直ぐユーディットを見つめる。ただ静かに自分の選択を待ってくれているユーディットに、ルシアナは己の覚悟を示すように、しっかりと、そして大きく頷いてみせた。




