表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『先輩、すごいですね』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/76

第40話「言い方は、悪かった」

 水曜の夜、田中は会社の最寄り駅の改札を出た。

 空はもう暗かった。七月初旬の蒸し暑い空気が、駅前のロータリーに残っている。田中はスマホで地図を確認した。酒井から指定された店は、駅から徒歩五分、雑居ビルの二階にある「居酒屋・四ノ風」というところだった。


 LINEが来てから、田中は二日間、考え続けていた。

 月曜の夜、酒井からの「水曜の夜、もしお時間あれば」というメッセージを受け取ったとき、田中は最初、断ろうと思った。先週の評価面談で削られた言葉が、まだ消えていない。さらに削られる場所に、自ら出向く理由がない。

 でも、最終的に「お時間いただけるなら、お願いします」と返信した。

 断れば、来週の月曜から会社で気まずい。それに、もし酒井の言ったことに何か誤解があるなら、その誤解を解いておきたかった。

 金曜の夜の藤本翔の「お前、三年いて、何ができるようになった?」が、まだ頭の中で反響していた。


 雑居ビルの二階、看板の電飾が黄色く光っていた。

 田中はエレベーターを使わず、階段を上った。

 ガラス戸を引くと、煮物の匂いと、客の話し声が、一斉に流れ出てきた。

 店内は半分ほど埋まっていた。二人連れのサラリーマンが、隣のテーブルでビールを傾けている。週の半ばの夜、こういう小さな店が、街の中で、何百と開いているのだろう。


「いらっしゃいませ」


 店員が田中を迎えた。

 奥のカウンターに近い席に、酒井が先に来ていた。Tシャツとデニム。会社の格好と同じだった。

 田中は向かいに座った。


「来てくれて、ありがとう」


 酒井は、軽く頭を下げた。


「いえ」


 田中はメニューを見て、生ビールを注文した。酒井はハイボールを選んだ。

 乾杯はしなかった。グラスを傾けて、それぞれ一口飲んだ。


 最初の三十分、酒井は雑談だけを話した。新機能のリリースが予想より早く終わったこと、フロントエンドチームに新人が馴染んでいること、来月の合宿で長野に行く予定だということ、社員食堂のメニューが先週から変わったこと。

 田中は相槌を打ちながら、本題が来るのを待った。途中で一度、社員食堂の話で笑った。それから、もう一度。

 ハイボールが二杯目に変わった頃、酒井がグラスを置いた。



「先週の評価面談の話、なんだけど」


 田中は箸を止めて、酒井のほうを見た。


「言い方は、悪かった。それは謝る」


「……はい」


「『誰でもできるレベル』は、人格否定に聞こえる。社会人三年目に、その言葉は重すぎた。踏み込みすぎた」


 田中は唇を噛んで、頷いた。


「ただ」


 酒井はハイボールを一口飲んでから、続けた。


「内容は、撤回しない。君の業務は、客観的に見て、責任範囲が三年前と変わっていない。それは事実だから、撤回したら、嘘になる」


「……」


「言い方は謝る。でも、内容は、もう一度伝える」


 田中は酒井の顔を、まっすぐ見た。

 酒井の表情は、責めるものでも、慰めるものでもなかった。ただ、事実を伝えようとしていた。



「俺、二十六歳のとき、当時の上司に同じことを言われた」


 田中はビールのグラスを、置いた。


「『お前は、誰でもできる仕事しかしていない』って。あの上司は、たぶん、いい人だった。教育のために言ったんだと思う。でも、俺は本当に腹が立った」


「分かります」


「あのときは、ずっと、上司の悪口を同期に言ってた。あいつは管理職に向いてないって、毎週末、居酒屋で愚痴ってた」


 田中は黙って、頷いた。


「半年経って、ある日、自分の業務リストを書き出してみたんだ。新人のときにできなかったことで、二十六歳の今ならできることって、いくつあるかなって」


 酒井は、ハイボールを飲み干した。


「ほとんど、なかった。設計書の書き方も、業務マニュアルの読み方も、新人の頃に教わったままだった。新しい技術書を読んだ気になっていただけで、自分の仕事に応用したことが、なかった」


 田中は、その言葉が、自分の胸の中に、何かを当てた感触を覚えた。

 自分の三年間が、画面のスクロールで遡った金曜の夜の景色と、重なった。


「上司の言ったことは、事実だった、と気づいた。腹が立ったのは、事実を突きつけられたからだった、と気づいた」


「半年も、かかったんですか」


「うん。気づくのに時間がかかる。気づいて、変わるのに、もっと時間がかかる」


「……」


「酒井さんは、どうやって変わったんですか」


 酒井は、店員にハイボールのお代わりを頼んでから、答えた。


「最初に、自分が分からないことを、ノートに書き出した。三十項目くらいあった。技術書を読むだけじゃなくて、業務に試した。コードレビューで指摘されたら、その指摘の意味を、自分で説明できるまで考えた」


「……」


「分かるって、説明できることなんだ。説明できないなら、まだ分かってない」


 田中は、自分が三年間、レビューで同じ五項目を指摘され続けたことを思い出した。命名、テスト、エラーハンドリング、ログ。それぞれの意味を、自分の言葉で説明できるか、頭の中で試してみた。

 できなかった。

 教科書通りの定義は言える。だが、自分の業務にどう翻訳されているか、説明できない。教科書の言葉と、自分のコードの間に、橋がかかっていない、と田中は気づいた。



「酒井さん」


「うん」


「私、何を変えればいいんでしょうか」


 酒井はちょっと考えてから、軽く笑った。


「『先輩、すごいですね』を、言うのをやめたら?」


 田中は、息を呑んだ。

 酒井は、田中の顔を見たままだった。


「えっ」


「君が、『先輩、すごいですね』って言うとき、本当は『分からない』って言いたいんじゃないか」


 田中の手の中で、ビールのグラスが汗をかいていた。


「……」


「分からないことを、『分からない』と言ったら、教える。それで、君が次に踏み出せる」


 田中はグラスを置いて、しばらく黙っていた。

 頭の中で、酒井の声と、藤本翔の声が、重なった。

 『分かんない』って言わない癖、あったよね。大学のときから。

 翔も、同じことを言っていた。


「酒井さん」


「うん」


「来期の新機能のサブリード、私、やってみたいです」


「即決でいいの?」


「分からないことだらけだろうし、たぶん何度も酒井さんに聞きに行くと思います」


「うん、いいよ。聞いて」


 酒井は短く笑って、ハイボールを一口飲んだ。

 田中もビールを一口飲んだ。

 あと一杯ずつ頼んで、それでお会計にした。

 会計は、酒井が出した。田中が払いますと言ったが、酒井は「今日のは、こっちが誘った会だから」と短く返した。

 店を出るとき、酒井は田中のほうを向いて、もう一度言った。


「来週から、踏み込んでみてほしい」


「はい」



 店を出て、駅までの五分の道を、田中は一人で歩いた。

 酒井は反対方向の駅へ向かった。別れの挨拶は、簡単なものだった。「ありがとうございました」「うん、お疲れさま」。

 夜の道は湿気で、シャツの背中がわずかに張り付いていた。街灯の下に、虫がふたつ三つ、舞っていた。コンビニの自動販売機が、低くうなる音を立てている。

 田中は歩きながら、頭の中で言ってみた。


 先輩、すごいですね。


 ずっと、自分の口から出てきた言葉。三年間、何百回も言ってきた言葉。

 次に、別の言葉を言ってみた。


 分からないので、教えてください。


 言ってみると、語感が違った。

 空気の質が、違った。

 「すごいですね」は、田中の身体の表面で、滑っていく感じがした。「分からないので、教えてください」は、田中の身体の中に、入っていく感じがした。


 駅前のコンビニで、ペットボトルの水を一本買った。レジで店員に「ありがとうございました」と言われた。田中は「ありがとうございます」と返した。三年前から、お礼を言うときの定型句だった。これは、変えなくていい、と田中は思った。

 駅の改札の前で、田中はスマホを開いた。

 藤本翔とのトークルームに、何かを打とうとして、やめた。

 何を打てばいいのか、分からなかった。「ありがとう」だと、軽すぎる気がした。「翔の言葉、刺さった」だと、伝わるかどうか、自信がなかった。

 代わりに、自分のメモアプリを開いて、こう書いた。


「先輩、すごいですね」を、明日から、言わない。


 短い、自分宛のメモだった。

 田中はスマホを閉じて、改札にSuicaをタッチした。

 地下鉄のホームで電車を待ちながら、田中は、自分の手のひらが、震えていないことに、初めて気づいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ