第40話「言い方は、悪かった」
水曜の夜、田中は会社の最寄り駅の改札を出た。
空はもう暗かった。七月初旬の蒸し暑い空気が、駅前のロータリーに残っている。田中はスマホで地図を確認した。酒井から指定された店は、駅から徒歩五分、雑居ビルの二階にある「居酒屋・四ノ風」というところだった。
LINEが来てから、田中は二日間、考え続けていた。
月曜の夜、酒井からの「水曜の夜、もしお時間あれば」というメッセージを受け取ったとき、田中は最初、断ろうと思った。先週の評価面談で削られた言葉が、まだ消えていない。さらに削られる場所に、自ら出向く理由がない。
でも、最終的に「お時間いただけるなら、お願いします」と返信した。
断れば、来週の月曜から会社で気まずい。それに、もし酒井の言ったことに何か誤解があるなら、その誤解を解いておきたかった。
金曜の夜の藤本翔の「お前、三年いて、何ができるようになった?」が、まだ頭の中で反響していた。
雑居ビルの二階、看板の電飾が黄色く光っていた。
田中はエレベーターを使わず、階段を上った。
ガラス戸を引くと、煮物の匂いと、客の話し声が、一斉に流れ出てきた。
店内は半分ほど埋まっていた。二人連れのサラリーマンが、隣のテーブルでビールを傾けている。週の半ばの夜、こういう小さな店が、街の中で、何百と開いているのだろう。
「いらっしゃいませ」
店員が田中を迎えた。
奥のカウンターに近い席に、酒井が先に来ていた。Tシャツとデニム。会社の格好と同じだった。
田中は向かいに座った。
「来てくれて、ありがとう」
酒井は、軽く頭を下げた。
「いえ」
田中はメニューを見て、生ビールを注文した。酒井はハイボールを選んだ。
乾杯はしなかった。グラスを傾けて、それぞれ一口飲んだ。
最初の三十分、酒井は雑談だけを話した。新機能のリリースが予想より早く終わったこと、フロントエンドチームに新人が馴染んでいること、来月の合宿で長野に行く予定だということ、社員食堂のメニューが先週から変わったこと。
田中は相槌を打ちながら、本題が来るのを待った。途中で一度、社員食堂の話で笑った。それから、もう一度。
ハイボールが二杯目に変わった頃、酒井がグラスを置いた。
*
「先週の評価面談の話、なんだけど」
田中は箸を止めて、酒井のほうを見た。
「言い方は、悪かった。それは謝る」
「……はい」
「『誰でもできるレベル』は、人格否定に聞こえる。社会人三年目に、その言葉は重すぎた。踏み込みすぎた」
田中は唇を噛んで、頷いた。
「ただ」
酒井はハイボールを一口飲んでから、続けた。
「内容は、撤回しない。君の業務は、客観的に見て、責任範囲が三年前と変わっていない。それは事実だから、撤回したら、嘘になる」
「……」
「言い方は謝る。でも、内容は、もう一度伝える」
田中は酒井の顔を、まっすぐ見た。
酒井の表情は、責めるものでも、慰めるものでもなかった。ただ、事実を伝えようとしていた。
*
「俺、二十六歳のとき、当時の上司に同じことを言われた」
田中はビールのグラスを、置いた。
「『お前は、誰でもできる仕事しかしていない』って。あの上司は、たぶん、いい人だった。教育のために言ったんだと思う。でも、俺は本当に腹が立った」
「分かります」
「あのときは、ずっと、上司の悪口を同期に言ってた。あいつは管理職に向いてないって、毎週末、居酒屋で愚痴ってた」
田中は黙って、頷いた。
「半年経って、ある日、自分の業務リストを書き出してみたんだ。新人のときにできなかったことで、二十六歳の今ならできることって、いくつあるかなって」
酒井は、ハイボールを飲み干した。
「ほとんど、なかった。設計書の書き方も、業務マニュアルの読み方も、新人の頃に教わったままだった。新しい技術書を読んだ気になっていただけで、自分の仕事に応用したことが、なかった」
田中は、その言葉が、自分の胸の中に、何かを当てた感触を覚えた。
自分の三年間が、画面のスクロールで遡った金曜の夜の景色と、重なった。
「上司の言ったことは、事実だった、と気づいた。腹が立ったのは、事実を突きつけられたからだった、と気づいた」
「半年も、かかったんですか」
「うん。気づくのに時間がかかる。気づいて、変わるのに、もっと時間がかかる」
「……」
「酒井さんは、どうやって変わったんですか」
酒井は、店員にハイボールのお代わりを頼んでから、答えた。
「最初に、自分が分からないことを、ノートに書き出した。三十項目くらいあった。技術書を読むだけじゃなくて、業務に試した。コードレビューで指摘されたら、その指摘の意味を、自分で説明できるまで考えた」
「……」
「分かるって、説明できることなんだ。説明できないなら、まだ分かってない」
田中は、自分が三年間、レビューで同じ五項目を指摘され続けたことを思い出した。命名、テスト、エラーハンドリング、ログ。それぞれの意味を、自分の言葉で説明できるか、頭の中で試してみた。
できなかった。
教科書通りの定義は言える。だが、自分の業務にどう翻訳されているか、説明できない。教科書の言葉と、自分のコードの間に、橋がかかっていない、と田中は気づいた。
*
「酒井さん」
「うん」
「私、何を変えればいいんでしょうか」
酒井はちょっと考えてから、軽く笑った。
「『先輩、すごいですね』を、言うのをやめたら?」
田中は、息を呑んだ。
酒井は、田中の顔を見たままだった。
「えっ」
「君が、『先輩、すごいですね』って言うとき、本当は『分からない』って言いたいんじゃないか」
田中の手の中で、ビールのグラスが汗をかいていた。
「……」
「分からないことを、『分からない』と言ったら、教える。それで、君が次に踏み出せる」
田中はグラスを置いて、しばらく黙っていた。
頭の中で、酒井の声と、藤本翔の声が、重なった。
『分かんない』って言わない癖、あったよね。大学のときから。
翔も、同じことを言っていた。
「酒井さん」
「うん」
「来期の新機能のサブリード、私、やってみたいです」
「即決でいいの?」
「分からないことだらけだろうし、たぶん何度も酒井さんに聞きに行くと思います」
「うん、いいよ。聞いて」
酒井は短く笑って、ハイボールを一口飲んだ。
田中もビールを一口飲んだ。
あと一杯ずつ頼んで、それでお会計にした。
会計は、酒井が出した。田中が払いますと言ったが、酒井は「今日のは、こっちが誘った会だから」と短く返した。
店を出るとき、酒井は田中のほうを向いて、もう一度言った。
「来週から、踏み込んでみてほしい」
「はい」
*
店を出て、駅までの五分の道を、田中は一人で歩いた。
酒井は反対方向の駅へ向かった。別れの挨拶は、簡単なものだった。「ありがとうございました」「うん、お疲れさま」。
夜の道は湿気で、シャツの背中がわずかに張り付いていた。街灯の下に、虫がふたつ三つ、舞っていた。コンビニの自動販売機が、低くうなる音を立てている。
田中は歩きながら、頭の中で言ってみた。
先輩、すごいですね。
ずっと、自分の口から出てきた言葉。三年間、何百回も言ってきた言葉。
次に、別の言葉を言ってみた。
分からないので、教えてください。
言ってみると、語感が違った。
空気の質が、違った。
「すごいですね」は、田中の身体の表面で、滑っていく感じがした。「分からないので、教えてください」は、田中の身体の中に、入っていく感じがした。
駅前のコンビニで、ペットボトルの水を一本買った。レジで店員に「ありがとうございました」と言われた。田中は「ありがとうございます」と返した。三年前から、お礼を言うときの定型句だった。これは、変えなくていい、と田中は思った。
駅の改札の前で、田中はスマホを開いた。
藤本翔とのトークルームに、何かを打とうとして、やめた。
何を打てばいいのか、分からなかった。「ありがとう」だと、軽すぎる気がした。「翔の言葉、刺さった」だと、伝わるかどうか、自信がなかった。
代わりに、自分のメモアプリを開いて、こう書いた。
「先輩、すごいですね」を、明日から、言わない。
短い、自分宛のメモだった。
田中はスマホを閉じて、改札にSuicaをタッチした。
地下鉄のホームで電車を待ちながら、田中は、自分の手のひらが、震えていないことに、初めて気づいた。




