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"誰でもできる仕事"をしていた私が辞めたら、会社が止まった【連載版】  作者: 霧原 澪
『先輩、すごいですね』

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第39話「あの言い方は、残る」

 月曜の朝、酒井は八時半に出社した。

 オフィスのエンジニアフロアは、まだ人が少ない。自分のデスクに座ってから、酒井はメールクライアントを開いた。

 九時の朝会まで、まだ三十分ある。早めに来たのは、田中の評価シートをもう一度確認するためだった。

 いつもなら朝会の準備として、新着のレビュー依頼を確認する。だが今朝は、メールではなく、自分が先週書いた評価シートのドラフトを開いていた。

 田中美咲、三年目、評価期。総合評価B。

 来期の目標欄に「サブリードの経験を積む」と書いた。書いた直後、酒井は会議室Cで田中に伝えた言葉を、もう一度画面の中で読み直した。


 『誰でもできるレベルの仕事しかしていない。』


 評価シートには、こんな粗い言い方は書いていない。「業務範囲が一年目と同等の状態が続いているため、次期はサブリードを通じて、設計・運用領域への進出を期待する」と、ちゃんと教育的に整えた文面で書いてある。

 だが、対面では、別の言葉が口から出た。


 昨日の夜、酒井は妻の聡子に評価面談の話をした。

 夕食の片付けを終えて、リビングでテレビを観ていた。聡子は酒井のほうを向かずに、画面を見たまま聞いていた。


「……『誰でもできるレベル』って、言ったの?」


「うん」


「それは、言いすぎじゃないの」


「事実なんだよ」


「事実だとしても、ね」


 聡子はやっとテレビから視線を外して、酒井のほうを見た。


「教育のためなんでしょ? でもね、その人にとっては、一生残る言葉になるかもよ」


「……」


「私も、入社五年目のとき、当時の課長から似たようなこと言われたよ」


「え、そうなの?」


「『お前の業務、誰がやっても同じ結果だ』って。あれから七年経つけど、まだ、覚えてる」


 酒井は何かを言おうとして、やめた。

 聡子の言うことが正しいような気もしたし、自分のしたことが間違っていたとも思えなかった。

 眠りに就くまで、田中が会議室を出ていったときの背中を何度も思い出していた。



 月曜の昼、酒井はCTO室の前に立っていた。

 CTO室と言っても、フロアの隅をガラスドアで仕切った小さな一画で、スタンディングデスクと椅子、革張りのソファが一脚、置かれているだけだ。ドアは、半分開いている。藤崎は自分のノートパソコンを前に、何かのコードレビューをしていた。


「藤崎さん」


「ああ、酒井さん。どうした」


 藤崎は画面から視線を外して、酒井を見た。グレーのTシャツに、デニム。三十六歳、CTO、Co-founder、創業時からの仲間。いつ見ても、同じような格好をしている。


「ちょっと、相談がありまして。十分だけ、いいですか」


「うん、入って」


 酒井はソファに座った。

 藤崎はノートパソコンを閉じて、向かいの椅子に座り直した。


「先週の評価面談の話なんですけど」


「うん」


「バックエンドの田中さんと、面談したんです。三年目で、レビュー指摘が三年間ほぼ同じで、業務範囲が一年目と変わっていない子です」


「ああ、田中さん」


「私、率直に伝えました。『田中さんは、誰でもできるレベルの仕事しかしていない』って」


 酒井が田中の「先輩、すごいですね」を聞いたのは、三年間で数えきれない。チームで田中が誰かに何かを聞きに行くたび、最後に出てくるのは決まってその一言だった。事実を伝えなければ、田中はあの一言で、四年目も五年目も逃げ続ける、と酒井は思っていた。


 藤崎は、しばらく無言だった。

 ガラスドアの向こうで、誰かが大笑いしている声が聞こえる。フロントエンドチームのほうだった。


「事実を伝えたかったんです。来期、新機能のサブリードに付けたくて。今のままじゃ、彼女自身のキャリアにも、チームにとっても、よくない。だから、現状認識を持ってもらいたくて」


「うん」


「でも、家で妻に話したら、『言いすぎじゃないの』って言われて。週末、ずっと考えてました。事実だけど、言い方が、言いすぎだったかもしれない」


 藤崎は酒井の話が終わるのを待ってから、一度、深く息を吐いた。



「酒井さん」


「はい」


「前職で、俺、同じことを言われたんです」


 酒井は藤崎の顔を見た。

 藤崎の表情は、いつもの穏やかさのままだった。だけど、目だけが、微妙に遠くを見ていた。


「中堅メーカーで、ひとり情シスをやってた頃です。会議で、専務が言ったんですよ。『情シスなんて外注で十分じゃないか』って。俺の目の前で」


「……」


「それから二週間後に、基幹システムの大規模障害があって、俺、徹夜で復旧した。三日、ろくに休めなかった。会社のソファで仮眠して、コーヒーで起き直して、コードを叩いてた。元の運用に戻したとき、誰も労ってくれなかった。専務は、復旧したことすら、知らなかったかもしれない」


 藤崎はソファの背にもたれた。


「もう、何年も前ですよね」


「うん。何年経っても、覚えてる」


「事実かどうかも、関係ない。あの言い方は、残るんです」


 酒井は自分の手のひらを、無意識に膝の上で握っていた。


「それで、俺、CTOになって、自分が部下に同じ言い方をしないように、ずっと気をつけてる。でも、酒井さんの気持ちは分かるんだ」


「……」


「事実を伝えたいのに、相手が踏み込んでこない。何を言っても変わらない。三年も同じ業務だと、本人のキャリアにも傷がつく。だから、強い言葉を使いたくなる」


「はい」


「ただ、その言い方は、別の言葉に置き換えられたはずだ」


「どう置き換えれば」


 藤崎は少し考えてから、ゆっくり言った。


「『君が次のステップに踏み出せるように、一緒に業務範囲を広げよう』。これだけでも、伝わる内容は、ほとんど同じだ。でも、相手の輪郭を削らない」


 酒井は藤崎の言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。

 削らない。


「『誰でもできる』って言うのは、本人の労働を、影に置くんだ。事実だとしても、本人の三年間を、なかったことにしてる。だから、跡が残るんだ」


 酒井は何かを言おうとして、やめた。


「俺の場合、『情シスなんて外注で十分』が、何年経っても、消えなかった。CTOになって、その跡が、今でも、自分の中に残ってる」


 藤崎の声には責める色はなかった。ただ、過去の自分の傷を見せただけだった。



「酒井さん、田中さんと、もう一度話す機会を作ったほうがいい」


「もう一度、ですか」


「うん。お前の口で、補足したほうがいい。評価シートとは別に、君の言葉で。『言い方は悪かった。でも、内容は伝えたい』って」


「……はい」


「あの種の言葉は、ほっとくと、事実として固定する。固定する前に、補足しておいたほうがいい」


「分かりました」


 藤崎はノートパソコンを開き直して、コードレビューに戻る素振りを見せた。

 酒井は立ち上がって、礼を言って、CTO室を出た。

 ガラスドアが、後ろで、静かに閉じた。



 午後七時、酒井は自分のデスクで、田中に送るLINEを、何度も書いては消していた。

 最初の文面——「先週の話、補足させてください」。削除。「補足」という言葉が、業務的すぎる。

 次の文面——「先週の評価面談の話、もう少し話したい」。削除。「もう少し」が、上から目線に見える。

 もう一度——「水曜の夜、軽く飲みませんか。先週の話で」。削除。「軽く」と「先週の話」が、噛み合っていない。


 三十分かけて、ようやく、こう打った。


『田中さん。先週の評価面談で伝えた話、言い方が悪かったかもしれません。水曜の夜、もしお時間あれば、一杯どうですか。会社の近くで』


 送信ボタンを押す前に、酒井はもう一度文面を読み直した。

 送信。

 既読は、すぐにはつかなかった。


 帰り道、地下鉄の中で画面を見ると、既読がついていた。返信は、まだ来ていない。

 帰宅して、シャワーを浴びて出てきたとき、ようやく返信が来ていた。


『お時間いただけるなら、お願いします』


 短い、丁寧な返信だった。何度か読み返した。「お時間いただけるなら」の部分が、控えめで、田中らしい、と酒井は思った。

 酒井はスマホを閉じて、リビングで聡子の隣に座った。


「水曜、田中さんと、もう一度話してくる」


 聡子はテレビの画面から視線を外して、酒井を見た。


「うん。それがいいよ」


「ありがとう。聡子に話したから、藤崎さんに相談する気にもなったんだ」


「いいって。私も、五年目のあの夜、誰かに聞いてほしかった」


 聡子はテレビをまた見始めた。

 酒井は聡子の横顔を、しばらく眺めていた。妻の中にも、削られた跡が、確かに残っていた。

 ソファの背にもたれて、酒井は天井を見上げた。

 藤崎が「あの言い方は、残る」と言ったとき、過去の自分の傷を見せていた、と酒井は気づいた。

 自分が誰かに同じことをしていたと気づくには、誰かに、教えてもらう必要があった。

 教えてもらえなければ、酒井もまた、専務になる側だった。

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