第19話 夜回り:止まる言葉を配る
夜の鍛冶町は、昼より静かなのに、熱い。
火床の数が減っても、消える火は少ない。火を完全に消すと、朝がつらい。朝がつらいと作業が崩れる。崩れると事故が増える。事故が増えると、余計に火を残したくなる。火の町は、そうやって夜を抱える。
空の下に、赤い点がいくつも浮かんでいた。
工房の窓、炉の口、炭の山の隙間。赤い点は生活の呼吸だ。呼吸があると安心する。でも、今日はその赤が少し怖い。赤が「止まれない」を照らしている気がするからだ。
レオンが灯を掲げ、淡々と言った。
「夜回りをします」
声が小さい。夜の声。夜の声は、人の神経を刺激しない。
「褒め声が強く出る時間帯です。……被害の拡大を抑えます」
被害。そう言われると重い。けれど現実の言葉だ。言葉が重いときほど、手順が要る。
私は頷き、背中の包みに手を当てた。布越しの熱が、昼より少し落ち着いている。剣が夜の空気に合わせているのが分かる。
『……夜は、言葉が刺さる』
剣が短く言う。珍しく観察の言葉。褒めではない。
(だから、刺さらない言葉を使う)
私は心の中で返した。声にはしない。
レオンは鞄から小さな紙束を取り出した。薄い札。白い紙。淡い墨。見た目は“誉めの符”に近いが、文字の癖は今の型で、文言が違う。
「簡易札です。……発話を吸い、偏りを散らす」
吸う。散らす。火の町の感覚で言えば、煙を逃がす換気みたいなものだ。
私は札の文字を追う。
息をしろ。
目を離すな。
十分だ。
止まれ。
短くて、押さない。押さない言葉は、人を守る。
札を受け取ると、紙の角がきっちり揃っていた。揃っている角は、レオンの性格そのままだ。
「配るの?」
「貼ります。……ただし許可のある場所に限定」
規定。面倒でも、境界があるから安全になる。
最初の巡回先は、工房が並ぶ通りだった。
夜なのに、まだ灯りがある。槌の音も残っている。一定ではない。短く、焦る音。焦る音は耳の奥を刺激する。
通りの角で、若い職人が一人、荷車に寄りかかっていた。
肩が落ちている。疲れの肩。疲れの肩は、褒めに刺さる。
若い職人がこちらを見て、目を細めた。
「……ユイ?」
名前を呼ばれると、胸が少し硬くなる。夜の名前呼びは、頼みの前触れだから。
私は一拍置いて頷いた。
「うん。……歩いてる」
わざと曖昧に言った。夜に目的を言い切ると、背負うものが増える気がした。
職人は笑おうとして、笑えない顔になった。
「……さっきさ。聞こえたんだよ」
聞こえた。褒め声だ。
私は先に事実を置く。
「聞こえること自体は、あなたが悪いんじゃない」
職人の目が少し揺れる。責められないと分かった目。
「でも……嬉しいんだよな」
痛いほど正直だった。職人のプライドは“嬉しい”を隠したがる。それでも言ってしまうのは、限界が近いからだ。
「嬉しいと、手が動く。動くと……止めたくなくなる」
止めたくなくなる。
私は札を一枚取り出し、職人の目の高さで見せた。押しつけない。ただ見せる。
「これ、貼っていい?」
職人が札を見て眉を寄せる。
「……なんだそれ」
「止まる言葉」
短く言った。説明を盛らない。盛ると綺麗事になる。
職人は一瞬迷い、それから小さく頷いた。
「……好きにしろ」
好きにしろ、は照れの許可だ。照れの許可は、本当の許可より優しい。
私は荷車の側板の内側――雨が当たりにくい場所に札を貼った。指先で紙を押さえ、糊が落ち着くのを待つ。待つ時間が、私にとっても“止まる練習”になる。
貼り終えると、職人が札を読んだ。
「……十分だ」
声に出して読んだ瞬間、肩が少し落ちた。呼吸の肩。息が戻る肩。
そのとき、背中の剣が小さく言った。
『……良い』
褒めではなく、確認みたいな「良い」。押さない温度。
次に向かったのは道具屋の裏、倉庫の外壁だった。噂で聞いた、札が貼られる場所。
壁には古い紙の剥がれ跡が残っていた。雨でふやけた糊の跡。誰かが剥がした跡。上書きされた跡。
レオンが淡々と言う。
「ここ、媒体化している可能性があります」
私は頷き、札を取り出す。壁に直接貼らず、壁のそばの柱の影に貼る。直接上書きは危険だ。争いになる。争いは呪いの餌になる。
貼った札の文字は「息をしろ」。
命令みたいで、実は許可だ。息をしていい、という許可。息を止めて頑張る人ほど、息をしろが必要になる。
貼った瞬間、薄い声が鳴った。
「……よくやった」
空っぽの声。背筋が冷える。
でも、いつもより弱い。札が吸って、散らしている。効いている。
レオンが小さく頷いた。
「……弱まった」
効いたなら、夜回りは意味がある。
通りを進むと、別の工房の前に人だかりがあった。
夜の人だかりは危険だ。騒ぎが起きている。騒ぎは呪いの餌になる。
近づくと、戸口で中年の職人が腕を押さえていた。血は見えない。けれど腕の角度が変だ。捻ったか、打ったか。痛みがあると焦る。焦ると声が刺さる。
中年の職人が唸る。
「……くそ、まだやれるのに」
その言葉が、自分の言葉じゃないみたいに空虚だった。呪いは、人の口を借りる。
周囲が口々に言う。
「休めよ」
「病み上がりだろ」
「今日はもう――」
言いかけた瞬間、空気が硬くなる。
ぱち、ぱち。
乾いた拍手が鳴った。
「……立派だ」
声が落ちる。
中年の職人の目が宙を見る。宙を見る目は現実を見ない。
腕を押さえていた手が、炉の方へ伸びた。
怪我した腕で火の前は危ない。
私は一歩出た。今度は止まらない。ここで止まれば間に合わない。止まるのは手順のため。でも、命が先だ。
私は中年の職人の前に立ち、低い声で言った。
「止まれ」
三文字。短く、刺さらないように落とす。命令に聞こえてもいい。今は命を守る音でいい。
中年の職人が私を見る。目が揺れる。
背中の剣が、短く重ねた。
『止まれ』
二重の「止まれ」が空気に落ちた瞬間、拍手が一拍だけ乱れた。乱れると、呪いの波が減衰する。
中年の職人の肩が落ちる。
「……止ま……れ……」
自分で呟いて、膝が折れた。周囲の人が支える。支える人がいるのは救いだ。町はまだ壊れていない。
私は札を一枚取り出し、中年の職人の手の上にそっと置いた。握るかどうかは本人が選ぶ。
札の文字は「十分だ」。
中年の職人が震える声で読んだ。
「……十分……」
読んだ瞬間、涙が滲んだ。痛みの涙じゃない。許された涙だ。止まっていいと許された涙。
周囲の人が息を吐いた。見ている人も、止まれている。止まれる空気が戻ると、人は助け合える。
レオンが淡々と状況を整える。
「今夜は作業を停止。怪我の手当て。必要なら医療班を呼ぶ」
規定の声。冷たいようで、こういうときは温かい。個人の優しさだけでは足りない穴を、規定が埋める。
人だかりが散り始めた。
散ると夜が戻る。夜が戻ると危険も戻る。危険は暗闇が好きだ。
私たちはさらに町を回った。廃材置き場、倉庫の柱、工房の裏口。噂で出てきた場所に短い札を貼る。貼るたび、空っぽの褒め声が薄くなる。薄くなると拍手も弱くなる。
完全には消えない。
消えないから、根はまだある。
けれど今夜は、“止まれる場所”を増やせた。
夜更け、通りを曲がったとき、私は足を止めた。
地面に小さな紙片が落ちていた。新しい紙。薄い糊の匂い。最近貼られて、剥がれた札だ。
私は拾おうとして、止まった。
触ると媒体になるかもしれない。触ると声が移るかもしれない。手順が必要だ。
レオンに視線を送ると、レオンは頷き、手袋をはめて紙片を回収した。封袋に入れる。境界ができると安心する。
封袋の中から、薄い声が漏れた。
「……もっと、やれる」
背筋が冷える。
レオンが淡々と結論を置いた。
「新札が流通しています。……今夜も貼られた」
今夜も。つまり今も誰かが動いている。廃炉の版木が使われているか、別の場所で刷られているか。
私は夜空を見上げた。
煙の向こうに星は見えない。見えない星は焦りを増やす。焦りは褒めを目標にしてしまう。褒めは目標になってはいけないのに。
背中の剣が静かに言った。
『……持ち主よ。配った。止まる言葉を』
褒めではない。確認だ。記録だ。
私は小さく頷いた。
「うん。……配った」
配っただけで全部は変わらない。けれど配らないと始まらない。
夜の最後に、遠くから拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち。
乾いた音。空っぽの音。
でも、今夜の拍手は、少しだけ弱い気がした。弱いなら、まだ間に合う。まだ戻せる。
私たちは灯を小さくして、町の影の中を歩いた。
止まる言葉を配りながら。
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