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第18話 廃炉:拍手の中の空洞

 町外れへ向かう道は、少しずつ“音”が薄くなっていった。


 槌の連打は遠ざかり、ふいごの風も細くなる。代わりに、足元の砂利が鳴る音と、草が擦れる音が前に出る。音が前に出ると、心の中の音も前に出る。考えすぎる余地が増える。


 夕方の空は、煙の層を一枚まとっていた。


 光は柔らかいのに色は鈍い。火の町らしい夕方だ。火は暮れない。人が火を持っている限り、夕方は完全に静かにならない。


 それでも――この先は違う。


 廃炉があると聞かされた場所へ近づくほど、空気が冷える。冷えるのは気温のせいだけじゃない。人が寄りつかない場所は呼吸の数が少ない。呼吸が少ない場所は温度が落ちる。


 レオンが先に立ち、足を止めた。


「……ここから先、注意」


 短い言葉。刺さらないのに、身体が引き締まる。


 私は頷き、背中の包みに手を当てた。布の下の重みが、いつもより少しだけ熱い。焦りじゃない。警戒の熱だ。


『……空洞がある』


 剣の声が小さい。褒めではない。嫌なものを嗅いだときの声。


「空洞?」


『……拍手だけが残っている。心が、ない』


 心が、ない。


 その言葉が不思議と怖かった。呪いが怖いというより、心のない褒めが怖い。誰も見ない言葉は、誰かを壊す。


 木々の切れ目の向こうに、廃炉があった。


 大きな石組みが崩れかけている。炉の口は黒く、奥が見えない。煤が雨で流れ、筋になって残っている。周囲には廃材――折れた梁、錆びた金具、割れた桶。働くためのものが、働けなくなった場所に積まれている。


 積まれたままの道具は、寂しい。


 道具は使われているときが一番静かで、使われないときが一番うるさい。存在が主張するからだ。


 レオンが鞄から紙札を取り出し、地面に置いた。札がふわりと光り、空気の輪郭を少しだけ見せる。


「反応、強い」


 声が低い。中心に近い、という判断だろう。


 私は唾を飲み込んだ。飲み込む音がやけに大きい。静かな場所は、自分の音が目立つ。


 そのとき。


「……よくやった」


 声が落ちた。


 空から落ちるというより、炉の口から漏れるように。黒い穴から薄い声がにじむ。温度がない。拍手の前触れだけがある。


 私は反射で肩をすくめた。


 怖い、というより、気持ち悪い。


 褒められているのに褒められていない。誰も見ていない肯定。そこには責任も、思いやりも、終わりもない。


 レオンが淡々と言う。


「外部発話。……媒体が近い」


 媒体。声の出どころになる“何か”。


 私は目を凝らした。


 廃炉の壁に、紙が貼られている。貼られているというより、貼り直されている。古い紙の上に新しい糊の光が薄く残っていた。雨で流れたはずなのに、ここだけ妙に“最近”がある。


 レオンが近づこうとした瞬間、剣が小さく言った。


『……近い。だが、違う』


 違う。


 剣が反応しているのに同調していない。その事実だけで、少し息ができた。


 レオンは手袋をはめ、壁の紙へ手を伸ばした。指先で触れる前に符を一枚挟む。挟んで、反応を見る。慎重な手順。


 符が紙に触れた瞬間――


 ぱち、ぱち。


 乾いた拍手のような音が鳴った。


 音は小さいのに耳の奥に残る。工房で聞く拍手の温度じゃない。機械が鳴らす拍手みたいな、空っぽの乾き。


 声が重なる。


「……もっと、やれる」


 その言葉が胸に針みたいに刺さった。


 もっと。やれる。


 褒めを装った命令。肯定を装った強制。終わりを奪う言葉。


 私は息を吸って、吐いた。吸うと胸が痛い。吐くと少し楽になる。


 廃炉の足元に置かれた工具が、わずかに動いた。


 最初は気のせいみたいな揺れ。次に、金属が石に触れて鳴る音――かつん、と乾いた音。乾いた音は危険の合図だ。


 錆びたトングが、地面を滑り始めた。


 誰も触っていないのに。


 滑る方向が悪い。足元へ。足を払う角度だ。払われたら転ぶ。転べば炉の壁にぶつかる。頭を打てば――取り返しがつかない。


 私は反射で飛び出しそうになって、止まった。


 止まる。


 止まって、手順。


 距離。視線。足場。回収。


 レオンが私より先に動いた。


「距離を取って」


 短い声が飛ぶ。私はすぐ一歩下がり、足元の石を確認した。滑らない場所に立つ。立てたら次ができる。


 レオンが符を二枚、地面に投げた。符がひらりと舞い、トングの進路に落ちる。淡く光って、トングが一瞬だけ減速した。


 でも止まらない。


 力が強いからではない。方向が固定されている。決められた“整え”が走っている。整えの力はしつこい。善意の顔をしているほど、しつこい。


 トングが、ぐい、と角度を変えた。


 今度は炉の口へ向かう。落ちたら取りに行くのが危ない。危ない場所へ“整える”。


 レオンが淡々と指示を出す。


「右。回り込み。足元、石」


 私は頷き、右へ回り込む。走らない。走れば滑る。滑れば終わる。歩幅を小さく、呼吸を一定に。


 背中の剣が熱を持つ。


『……止まれ』


 短い声。内側からなのに、廃炉の空気にも響く気がした。


 ぱち、ぱち、という乾いた拍手が、一拍だけ乱れた。


 トングの動きが、ほんの僅か、鈍る。


 ――今。


 レオンが符を一枚、地面を滑らせてトングの先端へ送った。符は風を切る音もなく、這うように進んで貼り付いた。


 貼り付いた瞬間、トングが止まった。


 止まっただけで空気が一段軽くなる。軽くなると、私は息ができた。


 レオンはトングを慎重に拾い上げ、封袋へ入れる。封袋は道具を“物”として扱うための境界だ。境界ができると心が落ち着く。


「……物理的危険、あり」


 短い結論。


 私は頷いた。


「さっきの拍手、すごく嫌な感じだった」


 言葉にすると、自分の中で少し整理できる。


 剣が低く言った。


『拍手は、終わりの合図だ。終わりの合図が、始まりに変えられている』


 終わりが始まりに。


 それは最悪の上書きだ。終わりは人を救う。始まりだけが続くと、人は燃え尽きる。


 レオンが壁の紙へ戻り、符を添えて剥がし始めた。丁寧だ。古い紙は乱暴に剥がすと裂け、裂けた紙は情報を失う。


 一枚、二枚、三枚。


 下から出てきた札は、古いものと新しいものが混ざっていた。古い札の上に、新しい札。重ねられているというより、上書きされている。筆の癖が違う。糊の匂いが違う。意図の温度が違う。


 レオンが眉を寄せる。


「……上書き、確定」


 私は札の文字を追った。


 古い札は短い制動が多い。


 落ち着け。目を離すな。火を怖がれ。息をしろ。


 怖がれ、があるのが優しい。怖がることは悪じゃない。安全の入口だ。


 新しい札は違う。


 もっと。まだ。いける。立派。続けろ。


 終わりがない。


 終わりのない言葉は、人を追い詰める。


 廃炉の奥から、また声が漏れた。


「……よくやった」


 薄い。空っぽ。誰も見ていない。


 私は腹の底が冷えるのを感じた。怖さというより寂しさだ。誰も見ていない褒めは、褒めじゃない。壁の反射だ。


 レオンが炉の口を覗き込む。


 私は反射で止めそうになって、止めない。レオンは手順を持っている。止めるべきときは止める。今は観察だ。


 炉の中は暗い。湿っている。煤の匂いが濃い。火が消えた場所の匂い。


 レオンが小さな灯を掲げた。


 光が炉の奥の床を照らす。


 そこに――木が見えた。


 木片ではない。平たい板。表面に彫った溝。文字の形。札を刷るための版木。


「……版木」


 レオンが言った。


 版木がここにある。ここで札が作られていた。古い仕組みの源。けれど、今の匂いが混ざっている。


 剣が熱を増す。


『……工房……讃歌……誉……』


 断片が連なる。連なるのに繋がりきらない。核心がまだ隠れている。


 私は包みに手を当てる。


(短く。いまは、短く)


『……承知』


 レオンが炉の中へ手を伸ばし、版木に触れない距離で符を滑らせた。符が版木のそばで止まり、淡く光る。


「最近、使われています」


 声が硬くなる。


 私も見た。版木の縁に、新しい煤の擦れ。指の跡みたいな乾いた汚れ。雨で流れた煤じゃない。つまり、ここ最近、人が触った。


「……誰かが、ここで札を刷ってる?」


 レオンが頷く。


「可能性が高い。……廃炉は人目につきにくい。火の町では、火の跡がある場所ほど隠れやすい」


 煤と影が、何でも同じ色にする。だから隠れるには丁度いい。


 私は炉の口を見つめた。


 黒い穴。空洞。空洞から出る褒め声。心のない褒め声。


 そこに誰かの意図が貼りついている。意図は人を動かす。動かす意図は責任を持たなければならない。責任を持たない意図は、ただの刃だ。


 そのとき、風が吹いた。


 木々がざわめき、草が倒れる。廃材が擦れ、金属が鳴る。


 ぱち、ぱち。


 拍手が、また鳴った。


 今度はさっきより大きい。風に混じって耳の奥へ入り込む。拍手が合図なら、本来は止まる合図のはずなのに、ここでは押す音になっている。


「……もっと、やれる」


 声が重なった。


 私は歯を食いしばり、息を吐いた。息を吐いて足元を見る。足元を見ると現実が戻る。現実が戻れば手順が戻る。


 レオンが淡々と指示する。


「撤収。版木は回収できない。今は封を優先」


 無理に回収すれば事故になる。事故になれば現場が壊れる。壊れたら誰も救えない。


 私は頷き、炉の口から距離を取った。


 レオンが符を数枚、炉の周囲に置いていく。置くたび空気が締まる。締まると拍手が薄くなる。薄くなると声も弱くなる。


 完全には消えない。


 消えないのは、ここが“核”に近いからだ。核を見つけたのに掴めない。もどかしさが胸に刺さる。


 刺さると、頑張りたくなる。


 頑張りたい気持ちは危ない。


 その瞬間、背中の剣が短く言った。


『止まれ』


 一言で、私の足が止まった。


 私は自分が一歩、炉へ戻りかけていたことに気づいた。戻って何かしたくなっていた。何かしないと気が済まない焦り。焦りは空っぽの褒めと相性がいい。


 剣の「止まれ」は、私を救った。


(ありがとう)


 心の中でそう言う。


 剣は褒めない。


『……当然だ』


 その「当然」が少し照れくさく聞こえて、私は小さく息を漏らした。笑いじゃない。息の漏れ。息が漏れると胸の硬さが少し溶ける。


 廃炉を離れると、町の音が少し戻ってきた。


 遠い槌の音。遠い火の音。生活の音。生活の音は、やっぱり少しだけ安心する。


 レオンが歩きながら言った。


「版木があるなら、札は作られている。……誰かが意図を上書きしている」


 私は頷く。


「上書きの目的は……何だろう」


 レオンは即答しない。証拠が足りないときの即答は危険だ。


「利益か、支配か、自己満足か。……いずれにせよ、終わりを奪う仕組みは危険」


 終わりを奪う仕組み。


 私は胸の奥で、その言葉を反芻した。


 終わりがあるから、人は温かくなれる。終わりがないと温かさは燃えて消える。燃えて消えたあとに残るのは、空洞だ。


 廃炉の黒い穴は、まさにそれだった。


 拍手の中の空洞。


 誰も見ていない褒め声が、まだ背中の方で薄く響いている気がした。


 私は振り返らずに歩いた。


 振り返ると、引っ張られるから。


 引っ張られないために足元を見る。


 足元を見るために息をする。


 息をするために――止まる許可が必要だ。


 その許可を町に戻す。心のない拍手を、終わりの合図へ戻す。


 そう決めて、私は背中の包みを、少しだけ強く抱えた。

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