第17話 聞き込み:噂は火より広がる
鍛冶町の朝は、眠そうな顔をしない。
火が先に起きているからだ。火が起きていると、人は起きざるを得ない。起きざるを得ない朝は元気に見える。元気に見えるだけで、実際は疲れていることも多い。
今日の町は、まさにそれだった。
通りを歩く人の足が速い。荷車が早く動く。声が短い。笑い声が少ない。短い声は余裕がないときに出る。余裕がないと褒めが刺さる。刺さった褒めは、また人を走らせる。
私はその循環を、町の空気で感じた。
レオンが短く言った。
「聞き込みをします」
規定の声。やるべきことの声。声があると、心が散らからない。
「噂の経路、発生の時刻、場所。……媒体の手掛かりも。持ち込みの可能性があります」
私は頷いた。自分の役割は分かっている。褒めない。煽らない。事実を拾う。手順を整える。
背中の包みが、ふっと温かくなる。
『持ち主よ。……聞くのが上手い』
小さな声。短い。控えめなのに胸に落ちる。落ちると、少しだけ歩きやすくなる。
私たちは工房の外へ出た。
聞き込みは道具屋から始めた。道具屋は町の情報が集まる。人は手元のものを買うとき、自分の状況も一緒に置いていく。置かれた状況が、噂になる。
店先には釘の箱、吊られた槌、重なった革手袋。革の匂いがする。革の匂いは汗の匂いに近い。汗は努力の匂いで、努力は褒めと相性がいい。相性がいいから、危ない。
店主は短く頭を下げた。
「いらっしゃい」
目が疲れている。疲れている目は、こちらをよく見ない。見ないのに顔色だけを読む。顔色読みは早くて、話が早い。
店主の視線が、私の背中の包みに一瞬だけ落ちた。
「……その包み」
レオンが一歩前へ出る。
「調査です。最近――」
言葉が途切れた。言い方を選んだのだろう。規定の言葉は、時々角が立つ。角が立つと現場は閉じる。
私は代わりに、丸い言葉を置いた。
「最近、変な褒め声があるって聞いて。……困ってる人がいるなら、話を聞きたい」
店主の肩が少しだけ落ちた。責められないと分かった肩の落ち方。
「困ってるよ。そりゃ」
店主はため息を吐いた。ため息は、吐けるだけ余裕がある証拠でもある。ため息も吐けない人は、もう危ない。
「最初は笑い話だった。夜の路地で『よくやった』って聞こえたって。酒のせいだって」
私は頷いた。頷きの速度を落とす。落とすと相手が急がない。
「でも増えた。増えたら笑えない」
店主は棚の上を指した。そこには金具の箱が整列している。整列しすぎている。人の手なら、どこかに小さなズレが残る。ズレがない揃い方は、逆に怖い。
「これ、勝手に揃うんだ」
店主が苦笑した。
「最初は助かったよ。忙しいから。……でも勝手に動くってのは、気味が悪い」
気味が悪い、と言えるのは正常だ。正常に戻れている。
私は訊く。
「声が強いのは、どの時間?」
「夜。……あと、納期前」
追い込まれる時間。追い込まれる心。そこに褒めが刺さる。
「場所は?」
「工房の近く。あと、町外れの古い炉の方」
古い炉。噂が同じ場所を指している。
レオンが短く問う。
「紙、札。見たことは」
店主が眉を寄せる。
「紙……ああ、薄いのが混ざってたことはある。荷の間に。……でも、うちじゃない。薪屋の方で聞いた」
薪屋。
次はそこだ。
薪屋は火の町の肺みたいな場所だ。薪がなければ火が保てない。火が保てなければ仕事が止まる。止まったら生活が止まる。だから薪屋の情報は、生き死にに近い速度で回る。
薪屋の主人は声が大きい。大きい声は遠くまで届く。でも今日は、その大きい声が少し擦れていた。寝不足の声だ。
「紙? ああ、あったあった!」
主人は木箱を叩いた。
「納品の縄にくっついてた。剥がして捨てた。……捨てたのに、翌日またどっかに貼ってあった」
貼ってあった。
誰かが貼ったのか、勝手に貼られたのか。どちらでも怖い。
「貼ってあった場所、覚えてますか」
私が訊くと、薪屋の主人は顎をしゃくった。
「工房の裏。廃材置き場の柱。……あと、飲み屋の裏路地」
飲み屋。
噂は酒の場で育つ。育つ噂は尾ひれがつく。でも尾ひれの下に、事実が残ることもある。
昼間の飲み屋は、夜の顔を隠している。薄暗い店内、床の擦れ、木の匂い。匂いが古い。古い匂いは、話が溜まる匂いだ。
店主は、こちらを見るなり言った。
「ユイか」
名前を呼ばれると胸がぎゅっとなる。名前は期待を運ぶからだ。期待は重い。善意でも重い。
店主が笑う。
「戻ってきたんだな。……よかった」
よかった、は温かい。温かいからこそ怖い。縋ると背負うものが増える。
店の奥から客が顔を出した。煤の顔、疲れの顔。
「おい、ユイなら何とか――」
言いかけたところで、背中が少し熱い。剣が褒める息を吸う気配。
『おお……持ち主よ、期待――』
(だめ)
私は包みを押さえた。合図。短く。今は褒めると期待が膨らむ。膨らんだ期待は、人を止まれなくする。
『……承知』
剣が抑える。
私は自分の口で境界を作った。
「私、何でもはできないよ」
店内の空気が一瞬止まる。止まるのは怖い。けれど必要だ。
丸く、でも逃げない。
「できるのは、話を聞くことと、手順を整えること。……それだけ」
客は口を開きかけて閉じた。怒りではなく戸惑い。戸惑いの先に現実がある。
店主が咳払いをして空気をほどく。
「まぁ座れ。……飲み物は湯でいいか」
湯。ありがたい。酒は噂を増やす。湯は呼吸を戻す。
湯気が鼻を撫でる。柔らかいと、人は少しだけ本音を出せる。
客がぽつりと言った。
「褒め声、聞くとさ……」
言葉が途切れる。嬉しいなんて言うのが恥ずかしいのだ。職人のプライドが邪魔をする。でも嬉しいのは事実で、その事実が危ない。
「手が動くんだよ。勝手に。……止めると、罪悪感が来る」
罪悪感。止める罪悪感。止めたら迷惑がかかる。止めたら自分の価値が下がる気がする。
私は湯を一口飲んで、喉を湿らせてから言った。
「止めても、価値は下がらない」
言い切ると綺麗事になる。だから事実を添える。
「止められるのは、判断ができてる証拠」
客は黙った。黙ったまま湯を飲んだ。湯を飲むのは、言葉を飲み込む時間ができた証拠だ。
店主が言う。
「……最近さ、拍手みたいな音も混じる」
拍手。
背中の剣が小さく熱を持つ。
『……合図』
短い呟き。
私は店主に訊いた。
「拍手が鳴るのは、いつ?」
「誰かが無理したとき。……頑張ったとき。納期前の夜とか」
無理したとき。頑張ったとき。そこで合図が鳴る。合図が鳴ると次の無理が続く。続くと折れる。
私の胸が少しだけ苦しくなった。
ここでまた、“頼まれごと”が始まる。
「ユイ、うちの工房も見てくれよ」
「うちの若いのが止まれなくてさ」
「今夜、夜回りしてくれねぇか」
頼みは雪崩みたいに来る。ひとつなら受けられそうに見えても、雪崩はまとめて押し潰す。
断るのは怖い。断ると嫌われる気がする。嫌われると居場所がなくなる気がする。
でも断らないと、私はまた止まれなくなる。
背中の剣が短く言った。
『止まれ』
一言が胸の内側で支えになる。
私は一拍置いて、言った。
「窓口を通して」
自分の声が少し震えた。でも言えた。
「まとめて順番を作る。順番がないと、誰も救えない」
客の一人が眉をひそめる。
「順番?」
「うん。……順番があると、止まれる」
止まれる、と言ったとき、胸の奥が少し軽くなる。止まれる場所を作ることは、優しさだ。
レオンがそこで、規定の声を重ねた。
「管理局へも報告します。個別対応はできません。記録を取ります」
硬い言葉が私の言葉を支える。硬い言葉は嫌われることもあるけれど、境界になる。境界があると、人は諦められる。諦められると期待が減る。期待が減ると、私は潰れにくい。
店主が苦笑した。
「規定ってのも、たまには役に立つな」
その苦笑が、少しだけ救いだった。
聞き込みを終えて店を出ると、空は少し暗い。煙が濃い。煙が濃いと空も重い。重い空は心も重くする。
私たちは町外れへ向かった。噂が一致している場所――古い炉の方。
歩きながら、私は町の人の顔を見た。
みんな、頑張っている顔だ。頑張っている顔は、褒めが刺さる顔だ。刺さると止まれなくなる顔だ。
止まれなくなる前に、止まる合図を戻したい。
(拍手は合図、って言ってたよね)
私は背中の包みに手を当てた。
剣が小さく答える。
『……拍手は、終わりの合図。危険の合図。……止まれの合図』
終わりの合図。
私はその言葉を胸に置いた。終わりがあるから人は折れない。終わりがないと、人は燃え尽きる。
町外れの道は、少しだけ静かだった。
静かだから、聞こえるものが増える。
風の音、草の擦れる音、遠い槌の音。
そして――
誰もいないはずの場所から、薄い声がした。
「……よくやった」
霧のない空気で聞く褒め声は、余計に気味が悪い。
レオンが足を止め、淡々と言った。
「……方向は一致。中心が近い」
私は息を吸い、吐いた。
噂は火より広がる。
火が広がる前に、止める。
そのために今夜――廃炉へ向かう。




