母の思い
最近、娘の様子がどこかおかしい。
それが母である陽子の悩みだった。
あんなに苦手だった珈琲や紅茶を好むようになった。
部屋にこっそり近づいてみてみると、何やら楽しげな話し声が聞こえる。部屋にこもりがちになった。
娘の様子が明るくなった点は母として嬉しい事には違いないのだが、どうしても不自然なのである。最初は隠れて動物でも飼い始めたのかと思った。でもそれにしてはペットフードやペットシーツは見つからないし、鳴き声もしない。
「ねぇ、あなた。最近あの子の様子がおかしいと思わない?」
長年連れ添った夫である正人にも聞いてみるのだが
「まぁ、少し変わったけど、何やら楽しそうじゃないか。それなら俺は良いと思うぞ」
彼は基本的に娘に甘いので、期待した娘を行動を案じるような返事は返ってこない。
娘が特に明るくなったのは、自分達が用事で家を開けたあの日からだ。
だが案外真面目な娘に限って男性や友達を勝手に家に連れ込んだりするはずはない。
そう考え込んでいると、リビングの棚が目に入った。
棚の中には可愛い娘と自分達の秘密の証が入っている本の形をした小物入れがある。
いつもと変わらないような棚の様子に安堵しながらも気づいてしまった。
「もしかしてあの子......」
小物入れの位置が少しズレているのだ。
全身に悪寒が走った。
急いで箱を取り出して中を確認するが、中にあるはずの物がなかった。
青い心臓の形になる2つのネックレス。
いつかいつかと考えながらも言えなかった本当の事。
自分達が本当の両親ではないという証であるあのネックレスがない。
「まさか、あの子は記憶を取り戻して......っ」
「どうしたんだお前っておい、それはまさかあの......」
急に取り乱し始めた妻の様子に気づいた夫がその手に持っている物に気づき、同じように青ざめた。
幼い頃に、実の両親に目の前で兄を殺された、その記憶を失くした彼女を施設から引き取って、それは大切に育ててきた。
自分達の本当の娘として。
「ど、どうしましょうあなた」
理解できなかった。理解したくなかった。
可愛い娘を失うようで認めたくなかった。
いつか話す、なんて嘘だ。話せる訳もなくそのままで今までずっとやってきた。
「でも考えてみろ、あの子あんなに楽しそうじゃないか。あのネックレスを見つけた理由は分からないが記憶までは戻ってないんじゃないか?」
確かにそれもそうだ。我に返って娘の様子を振り返ってみると記憶を取り戻したようなそぶりなどまるでなかった。
最悪の形で真実が娘に知られる事はなかったようで思わず安堵した。
親として、それだけはどうしても避けたかった。1番深く彼女を傷つけてしまうから。残酷な事実を突きつけたくなかったから。
「12月1日......あの子の、雫の17歳の誕生日に......全て、話す事にしましょう」
「あぁ、分かった。......そうしよう」
妻の硬い決意を目にした夫は真剣な表情で頷く。この人と夫婦になって良かった。そう心から思う瞬間だった。
「ただいまー!」
学校から帰ってきた娘の明るい笑顔に暗く沈んだ気持ちなど自然と吹き飛んでいく。
「おかえりなさい」
泣いていた事など悟られないようにさっと顔を洗って出迎え、いつもと同じように彼女の大好きなお菓子をおやつに用意して珈琲を入れ、部屋へと持っていった。
「それでね、遠。今日ね」
聞こえた話し声に愕然とした。
遠。雫の実の兄の名前である。やはり記憶が戻ってしまったのかと焦ったがどうやらそうでもないようだ。
扉の隙間からこっそりと中の様子を伺ってみると、なんと娘が大きな姿見の前で1人、楽しげに話しているではないか。
鏡に映っているのは彼女だけ。そう、つまり彼女は鏡と話しているのだ。
真実を知った?違う、壊れてしまっているのだ。
何が?彼女の心が。
何も言えなかった。
でもまだ今すぐに真実を伝えられることも出来ず、固まった顔を無理やり笑顔にして扉をノックした。
「わぁまたケーキだ!嬉しいな」
「喜んでもらえたら良かったわ」
「うん、ありがとう」
無垢な笑顔に込み上げてくる涙と悪寒を堪えて、娘の大好きなケーキと苦手だったはずの苦い珈琲を渡したのだった。
娘は病気だ。そしてそれから救ってやるのがきっと、親である自分達のしてやれる最大の事などなのだ。そう思った。




