第一話 転生した先は、子爵家の次男だった
新作ですっっ!!
今回は結構長めかも
死ぬ瞬間というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
走馬灯が流れるとか、人生の意味を悟るとか、少なくとも何かしら厳かな感じがするものだと。
でも実際は違った。
脚立から落ちた。それだけだ。
書斎の高い棚に押し込んだ歴史書を取ろうとして、最上段に手を伸ばした瞬間、古びた脚立の足が折れた。背後から床が迫ってくる感覚があって、頭のどこかで「ああ、これは死ぬかもな」と妙に冷静な声が聞こえた。
中田隼人、享年二十八歳。高校の世界史教師。独身。趣味は歴史書の読破と一人旅。死因は自宅書斎における転落事故。
我ながら、間抜けな最期だった。
最初の記憶は、光だ。
眩しい光ではなく、柔らかな乳白色の光。何かに包まれている感覚。温かく、少し窮屈で、でも不思議と怖くない。
次に気づいたのは、自分が泣いているということだった。
声を上げて、腹の底から、どうしようもなく泣いていた。意志とは無関係に身体が泣いていた。それが赤ん坊という生き物の仕様なのだと理解するのに、少し時間がかかった。
俺は生まれ変わっていた。
記憶を持ったまま。二十八年分の記憶をそっくり抱えたまま、見知らぬ女性の腕の中で、ただただ泣いていた。
緩やかに視界が焦点を結んでいく中で、俺を覗き込む顔があった。茶色がかった金髪を持つ女性。疲労の色が濃いのに、その目は今にも溢れそうなほど柔らかく濡れていた。
「ライナス」
と、彼女は言った。
「ライナス・フォン・エールハルト。あなたの名前よ」
中田隼人は死に、ライナスとして産声を上げた。
泣きながら、俺はぼんやりと考えていた。ここはどこだろう。あの女性は誰だろう。これから俺はどう生きていくんだろう。
でもそれよりも先に、もっと動物的な眠気が来て、俺は意識を手放した。二度目の人生の、最初の眠りだった。
成長は早かった。
正確には、身体の成長は普通だったが、精神の成長はほぼなかった。最初から大人の思考回路を持って生まれてきたのだから、当然といえば当然だ。
一歳になる前から言語を習得し始め、二歳には簡単な読み書きができるようになった。周囲の大人たちは「神童だ」と囁き合ったが、俺としては何のことはない、前世でそれなりに鍛えた言語習得能力がそのまま活きているだけだった。
エールハルト子爵領。
王都から馬車で二日ほど南に下った場所にある、中規模の領地だ。肥沃とは言えないが飢える土地でもない。丘陵地が多く、冬は雪が積もる。主産業は牧畜と、少量の金属鉱石の採掘。城というほど立派ではない領主館が丘の上に建っていて、麓に人口三千人ほどの町が広がっている。
俺を産んだ女性の名は、アンネリーゼ・フォン・エールハルト。エールハルト子爵、ベルンハルトの妻だ。
三歳になるころ、俺は自分の置かれた立場をほぼ把握した。
ここは地球ではない。魔法が実在し、貴族制が機能し、複数の国家が競合している、ヴァレリア大陸という世界だ。俺は貴族の次男として生まれた。兄はルートヴィヒといい、俺より四歳上で、温厚だが少し頼りない。父のベルンハルトは厳格だが不正を嫌う人物で、領民からの評判は悪くない。
魔法の存在は、最初こそ驚いたが、五歳になるころには日常の一部として受け入れていた。教師として生きた前世の経験からか、未知の事象に対して俺は比較的冷静に対処できる。知らないことがあれば学べばいい。それだけだ。
自分の魔法的な才能に気づいたのは、六歳の時だった。
あれは領主館の裏庭でのことだ。
母が好きな薔薇が一輪、台風のような暴風雨で散りかけていた。花弁がちぎれそうになっているのを見て、俺は何の気なしに手を伸ばした。「あそこにあればよかったのに」と思いながら。
次の瞬間、薔薇は俺の手の中にあった。
散ってしまう前に、完全な姿のまま。
何が起きたか理解するのに、三秒かかった。俺は薔薇をあの場所から、自分の手元へと「移動させた」のだ。空間を介して。
それが俺の魔法との初めての出会いだった。
後から知ることになるが、俺の属性は「虚空」だという。空間を操る系統の魔法で、現存する魔法師の中でその属性を持つ者はほとんどいない。しかも俺の親和度は測定器の最大値を振り切るほど高く、後年の鑑定では「SSSランク」という、測定担当者が生涯一度も見たことがないと言うような数値が出た。
だが、六歳の俺はそんなことを知らない。ただ、薔薇を手の中に持ったまま、雨の中でぼんやりと立ち尽くしていた。
母が後ろから抱きしめてきた。
「怖かった?」
「いいえ」
「驚いた?」
「……少し」
母は俺の頬に顔を寄せて、低く笑った。
「あなたは不思議な子ね、ライナス。生まれた日からずっとそう思ってたわ。あなたの目は、何もかも見えているみたいで」
俺は何も答えなかった。この世界に来てから、ずっとそう思ってきた。見えすぎているのは、前世の記憶のせいだ。歴史を学んだ人間として、目の前に展開するこの世界の政治も社会も、どこかで見たパターンとして映ってしまう。それが時々、少し寂しかった。
薔薇の香りが雨に溶けていく中で、俺は初めて「この世界で生きること」の手触りを感じた気がした。
十五年間、エールハルト子爵領で育った。
前世の知識は意識的に隠した。歴史の教師として培った分析眼も、極力表に出さないようにした。目立ちすぎるのは危険だと本能で理解していたし、何より子爵家の次男という立ち位置を正確に把握していたからだ。
王都の魔法学園に行く十五歳になるまで、俺は「やや優秀な子爵家の次男」として過ごした。魔法の練習は毎日続け、転移と、もう一つの固有魔法であるアイテムボックスの習熟に努めた。両方とも家庭教師には秘密にした。固有魔法の存在は、報告義務こそないが、知れ渡ると面倒なことになると分かっていた。
特に転移は。
この魔法の価値は、軍事的な文脈で測れば計り知れない。前世の歴史的知識に照らせば、「圧倒的な移動能力」を持った個人がどういう扱いを受けるか、ある程度想像できた。便利な道具として使われるか、あるいは潰されるか。その二択になりやすい。
だから、慎重に。焦らず、じっくりと実力をつけながら、適切なタイミングで適切な形で使う。
十五年、そう決めて生きてきた。
学園入学の前夜、一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見た瞬間、俺の心臓が奇妙な音を立てた。
エリーゼ・フォン・バルトアルト。
俺の許嫁だ。
婚約の話が持ち上がったのは、俺が五歳の時だった。
バルトアルト伯爵家は、エールハルト子爵家より家格が一段上になる。伯爵と子爵では爵位が違う。普通に考えれば不釣り合いな縁談だが、バルトアルト伯爵がエールハルト子爵と学生時代からの親友であったこと、そして「互いの子どもに選ばせたい」という珍しい方針を伯爵が持っていたことが重なり、両家の縁談が成立した。
もっとも五歳の子どもに選ぶ自由などなく、俺もエリーゼも親が決めたことを事後報告された口だが、バルトアルト伯爵の意図は「最終的には本人たちに任せる」ということらしかった。破談にしても構わない、ただ知り合いの機会だけは与えたい、という。
それ以来、年に三度から四度、両家は行き来があった。
エリーゼに初めて会ったのは、婚約が決まった年の秋だった。
伯爵領の庭園で、五歳の少女が一人、読書をしていた。淡い金髪がそよ風に揺れていて、ページをめくる仕草が、妙に大人びていた。俺が近づいても顔を上げなかった。本に夢中だったのか、それとも気配に気づいていて無視したのかは、今でも分からない。
「何を読んでいるの」
俺が聞くと、彼女は初めて顔を上げた。深い青色の目が、俺をまっすぐ見た。
「大陸の歴史書よ」
「五歳で?」
「あなたも五歳でしょう」
言い返せなかった。
それがエリーゼとの最初の会話だった。以来十年、俺たちは年に数回会い、少しずつ言葉を交わしてきた。政略で決まった婚約だということは互いに知っていた。それでも、会うたびに少しずつ、知らないことが減っていった。
手紙の封を切る。
筆跡は丁寧で、でも堅苦しくない。
ライナスへ
明日、あなたも学園に向かうのでしょう? 私は一足先に到着して、ここ二週間ほど王都に滞在しています。 伯父の家に居候しながら、入学の手続きやら説明やらで、少し疲れました。
せっかくだから、今夜少し会えませんか。 学園の近くに、夜でも開いているパン屋があります。 きつい話はしたくないけれど、学園では婚約者として振る舞うことになるでしょうから、その前に一度、ちゃんと話をしておきたいと思って。
もし来られるなら、夜の第三刻に。 来られなくても、恨んだりしないから安心してください。
エリーゼ
俺は手紙を三回読んだ。
父からは昨日、「学園での振る舞いについて」改まった話があった。婚約者を大切にすること、家の名前を傷つけないこと、そして「エリーゼ嬢は大変優秀な方だ、うまくやれ」という、父としては珍しく不明瞭な言い方をされた。
母は何も言わなかったが、荷造りを手伝いながら一度だけ、「エリーゼちゃんに会えるわね」と言った。嬉しそうに。
俺はランプの光の下で、手紙をもう一度見つめた。
「ちゃんと話をしておきたい」。
それは前向きな言葉だと思った。無視するとか、形だけ婚約者として振る舞うとか、そういう選択肢を彼女は選ばなかった。十年越しに積み上げた、ぎこちなくも誠実な関係が、この一文に出ていると俺は感じた。
旅装を改め、馬車を呼んだ。
夜の王都は、昼間とは全く別の顔を持っていた。
第三刻の少し前に、パン屋の前に着いた。
店の名前は「夜明けの竈」という。翌朝の分の焼きたてパンを夜のうちに仕込む店で、それが転じて夜中も扉を開けている珍しい店になったらしい。窓から暖かな光が漏れていて、こんな夜でも数人の客の影が見えた。
扉を押して入ると、小麦と酵母の香りが一気に押し寄せた。
奥のテーブルに、彼女はいた。
エリーゼ・フォン・バルトアルトは、白いブラウスに紺色の外套という、貴族にしては控えめな格好をしていた。テーブルにはミルクのカップが一つ。俺に気づくと、すっと顔を上げた。
十年で、随分と変わったと思う。
五歳の時に庭園で会った少女は、十五歳の今、はっきりとした意志の宿る顔をした若い女性になっていた。淡い金髪は以前より少し長く、深い青の目は変わっていない。
「来てくれたのね」
「手紙をもらったら来るでしょう」
俺は向かいの椅子を引いて座った。店主に同じものを頼んで、しばらく沈黙があった。
気まずい沈黙ではなかった。
お互い、話をどこから始めるか、少し測っているような間だった。
「先に言っておきたいことがあるの」
エリーゼが口を開いた。
カップを両手で持ち、でも口はつけずに、俺を見た。
「私は、政略婚が嫌いではないわ。この世界でそれは普通のことだし、お互いに知らない相手ではないし」
「それは俺も同じです」
「でも」と彼女は続けた。「形だけの婚約者でいるつもりもない。学園では同級生になる。あなたのことを、もう少しちゃんと知りたいと思っている」
直接的な言い方だな、と思った。
エリーゼは昔からそうだった。遠回しに伝えるより、はっきり言う方を選ぶ。それが時々、相手を戸惑わせることになっても。
「知りたいのは」と俺は言った。「どういうことを?」
「あなたが本当はどういう人なのか、ということ」
エリーゼはカップをテーブルに置いた。その目が、俺の目をまっすぐ見た。
「ライナス、あなたはずっと何かを隠しているでしょう」
心臓が一拍、止まった。
「……そんなことは」
「そんなことはある」
遮られた。柔らかい声で、でも確信を持って。
「子どものころから会うたびに思っていたの。あなたの目は、何かを知っている目をしている。同い年の男の子とは違う、何か深いものを見ている目を。でも絶対に自分からは語らない」
俺は口をつぐんだ。
十年。十年かけて、ごく少数の人間はそれに気づいた。母が気づいた。そして目の前の彼女も、どうやら気づいていた。
「怖いことを言いたいわけじゃないの」とエリーゼは続けた。「無理に話せとも言わない。ただ」
彼女は少し間を置いた。
「私はあなたの婚約者だから、ちゃんと伝えておきたかった。あなたが何を隠していても、私はあなたの味方でいるつもりよ。それだけ」
ミルクの白い湯気が、二人の間でゆっくりと上がっていた。
俺はしばらくの間、何も言えなかった。
前世から今世にかけて、俺はずっと一人で考えてきた。二つの記憶を持つ「異物」として、誰にも本質を見せずに生きることを選んできた。それが安全だと思っていたし、誰かに知られることへの怖さも、どこかにあった。
だが今、目の前の人間は「それでいい」と言っている。
知らなくていい、でも味方だと言っている。
「……エリーゼ」
「何?」
「今すぐ全部話せるかどうかは、分からない」
「分かった」
「でも」
俺は少し考えて、言葉を選んだ。
「いつか話す日が来ると思う。それまで、待ってもらえますか」
エリーゼは一瞬、目を瞬かせた。
それから、初めてこの夜に笑った。
大げさな笑いではない。ただ、小さく、確かに笑った。
「もちろんよ」
彼女はカップを持ち上げた。
「それで十分。乾杯しましょう、同期として」
俺もカップを持った。
磁器が触れ合う小さな音が、夜の店の中で鳴った。
その夜、俺は宿に戻りながら夜の王都を一人で歩いた。
転移を使えば一瞬で戻れる。でもその夜は、あえて歩くことにした。
王都は大きかった。人口十万を超える、アルヴァニア王国の中心地だ。昼間はさぞかし賑わうのだろうが、夜のこの時間でも石畳の通りには人の気配があり、遠くで馬の蹄の音が聞こえ、酒場から歌声らしきものが漏れてきた。
前世で言えば、中世ヨーロッパの様相に近い。
ただし魔法がある。石畳の角ごとに、小さな魔法灯が灯っている。ガス灯や電灯の代わりに、術式を刻んだ灯籠が夜を照らしている。それが当たり前の光景として、王都の夜に溶け込んでいた。
俺は一つの灯の下で立ち止まり、空を見上げた。
星が多かった。
地球の夜空より、ずっと密度が高く見える。光害がほぼないからだろうが、それでもあまりにも多く、あまりにも近く感じられた。
この世界に来て十五年。
明日から、俺の第二の人生の「本番」が始まる。
学園という場所で、俺は初めて本格的に他者と関わっていく。前世の記憶を持つ者として、転移という異常な力を持つ者として、何をどこまで見せるか。何のために力を使うか。
問いは沢山ある。答えは、まだない。
ただ一つだけ、今夜確かになったことがあった。
エリーゼは本物だ、と思った。
政略の婚約者という枠をはみ出して、俺を「知りたい」と言った。味方でいると言った。それが社交辞令の可能性もゼロではないが、あの目は嘘をつける目ではなかった。少なくとも、俺にはそう見えた。
ありがたい、と素直に思った。
前世でそういう関係を築けたかどうか、正直自信がない。二十八年、仕事に打ち込みすぎて、誰かに本質を見せることを怖がっていた気がする。
この世界では、もう少し違う生き方ができるかもしれない。
星を見上げながら、俺はそんなことを考えた。
翌朝、王立アルヴァニア魔法学園の正門前に、俺は立っていた。
石造りの壮大な門が、朝の光を受けて鈍く輝いていた。門柱には大陸最古の魔法文字で何かが刻まれていて、それが微かな魔力の光を放っている。
新入生の波が、続々と門をくぐっていく。
貴族の子弟らしい豪奢な装いの者、平民の奨学生と一目で分かる地味な衣装の者、護衛を引き連れて堂々と歩く者、緊張で顔を強張らせた者。様々な人間が、同じ門をくぐっていく。
俺は荷物を一つだけ持って(残りはアイテムボックスの中だ)、その流れに混じった。
門を抜ける瞬間、微かに魔力を感じた。
新入生を識別するための術式だろう。悪意のない、ただの記録用の魔法だと判断して、そのまま通過した。
広い前庭の向こうに、学園本棟の建物がそびえていた。
塔が三本、本棟が四階建て、両翼に寮の棟。敷地の奥に訓練場と思しき広いスペース。その全体を包む結界が、薄い光の膜として空に浮かんでいた。
見事なものだと思った。と同時に、前世の癖で「防衛上の弱点はどこか」と考えてしまう自分がいた。
教師の業というやつは、なかなか消えない。
人の流れを目で追っていると、遠くに淡い金色が見えた。
エリーゼが、同じ門を別の方向から入ってくるところだった。侍女らしき人物を一人連れ、こちらには気づいていない。
俺は手を上げようかどうか、一瞬迷った。
その必要はなかった。
エリーゼが足を止め、ほぼ同時にこちらを向いた。
昨夜と同じ、深い青の目が、俺の目と合った。
彼女は少し、口元を動かした。
声は届かない距離だったが、口の動きで読めた。
「今日からよろしく」。
俺も同じように口を動かした。
「こちらこそ」。
それだけで十分だった。
俺は学園の敷地に一歩を踏み入れた。
どこかで鐘が鳴り始めた。始業を告げる鐘が、王都の空に高く低く、重なり合いながら響いていた。




