第80話 おじさん、旅をする
平日だというのに、新宿駅のホームは大きなキャリーケースを引く観光客でひしめいていた。
喧騒を抜けて駅の売店に立ち寄った俺は、『天むす』と『国技館やきとり』、そしてよく冷えたロング缶のビールを買い込み、特急列車『富士回遊』の窓際席に腰を下ろす。
『マスター。どうしても理解できません』
列車がゆっくりと走り出した直後、網棚に載せた俺のキャリーケースの横で、半透明の少女がふわりと結像した。
ナビ子だ。クリスタルが触れ合うような硬質さと、少女特有の愛らしさが同居する声。銀色の髪を揺らす彼女の視線が、呆れたように俺を見下ろしている。
『空間転移をすれば、0.1秒で現地の座標に到達できます。わざわざ二時間近くも揺られる意味がわかりません。タイムパフォーマンスが最悪です』
「馬鹿野郎、分かってねえな」
プシュッ、と小気味良い音を立てて缶ビールを開け、俺は窓を流れていく都心の景色に目を細めた。
「旅行ってのはな、この特急列車の中で流れる景色を見ながら食う駅弁とビールが一番美味いんだよ。0.1秒で着いちゃあ、風情ってものがねえだろうが」
『……理解不能です。アルコールによる一時的な脳機能低下と、密閉空間でのカロリー摂取に何の意味が……』
「人はパンのみにて生きるにあらず。人間ってのは精神的な満足感が得られてこそなんだよ」
『マタイによる福音書4章4節ですね。マスターが神を信じていたなんて意外です』
「信じてるよ。自分に都合のいい神様だけな」
鼓膜の奥で小言を続けるナビ子を適当にスルーしつつ、俺は平日の昼間から堂々と冷たいビールを喉の奥へ流し込んだ。
胃の腑に落ちる冷気が、細胞の隅々まで染み渡っていく。これぞ大人の贅沢だ。
駅の売店で買った『国技館やきとり』は、冷めていても肉が驚くほど柔らかく、甘辛い秘伝のタレが中までしっかりと染み込んでいて深い旨味がある。
それを頬張り、塩気の効いた『天むす』のプリプリとした海老天と白米をかき込む。
口の中に広がった濃厚な脂とタレの旨味を、喉越しが良くて鋭いキレのあるキンキンに冷えたラガービールで一気に洗い流す。この無限ループの快感には代えがたい。
ナビ子に出会ってからというもの、ビールを開けようとするタイミングでやたらと事件が起きるため「呪われているんじゃないか」と本気で疑っていた時期もあったが、やっぱりただの杞憂だったようだ。
舟木さんからの招待を受け、俺が向かっているのは山梨県――富士五湖の一つである河口湖畔だ。
窓の外の景色がビル群から次第に緑豊かな山々へと変わり、やがて雄大な富士山がその姿を現した頃――列車は終点の『河口湖駅』へと滑り込んだ。
キャリーケースを引く大量の外国人観光客たちに混じって改札を抜け、ひんやりとした高原の空気が撫でる駅前広場へと降り立つ。
ふと背後を振り返ると、レトロな駅舎の真後ろに、視界を埋め尽くすほど巨大な富士山の絶景がそびえ立っていた。
「うおっ、生で見るとやっぱりでけぇな……」
空の青を切り裂くような稜線を見上げ、思わず独り言を漏らす。すると、不意に横から声がかかった。
「湊さん! 遠いところをわざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
振り返ると、私服姿の舟木さんが小走りで駆け寄ってくるところだった。
彼女が探索者協会を退職してからも何度か顔を合わせているが、俺の中ではどうしても、受付カウンターにいた頃の黒髪をキッチリと束ねた事務服姿のイメージが強い。
だからこそ、艶やかな髪を下ろした淡い色のカーディガンとふわりとしたロングスカート姿は、なんだかとても新鮮に見えた。
(なんか私服だと雰囲気違うな。髪下ろしてるのも新鮮だし……)
『マスター。口に出さないでくださいね。三十代の無職中年が、二十代の女性の服装や髪型に嬉々として言及するのは立派なセクハラ……いえ、痛いおじさんしぐさですからね』
(余計なお世話だ。心の中で思っただけだろうが)
鼓膜の奥で容赦ない警告を鳴らすナビ子を無視しつつ、俺は努めて無難な挨拶を口にした。
「舟木さん。わざわざ迎えに来てくれてありがとうございます」
「いえいえ! 車を回してありますので、さっそくうちの実家へご案内しますね」
舟木さんの運転する車で湖畔の道路を数十分ほど走り、俺たちは目的地へと到着した。
車を降りて見上げると、そこには歴史を感じさせる重厚な武道道場と、それに隣接するように建つ立派な日本家屋があった。
後で聞いたところによると、舟木家は武田信玄の時代から続く武家の末裔らしく、現在は地元の名士として武道道場と、少し離れた湖畔で由緒ある旅館を経営しているのだという。
「湊さん、先に旅館の方へ荷物を置きに行きましょうか。父が、命の恩人にはぜひうちで一番良い『離れの特別室』をご用意したいと張り切っておりまして」
実家の敷地に車を停めた舟木さんが、にっこりと微笑んで提案してくれた。
「あ、はい。よろしくお願いします。なんかすみませんね、そこまで気を遣わせちゃって」
ただの観光のつもりだったが、どうやらえらく立派な部屋に泊まらせてもらえるらしい。
ありがたい話ではあるが、小市民気質な俺としては分不相応なVIP待遇に若干の気まずさと居心地の悪さを感じてしまう。
『マスターが本気を出せば、いつでも世界トップクラスの富豪になれますよ。いくつか、高く売れるドロップアイテムを見繕いましょうか?』
(使わない金がいくらあろうと、意味ないだろ。カネで手に入る『欲しいモノ』ができたら考えるよ)
そんな強がりとも本音ともつかない軽口を脳内で返しつつ、俺は案内されるままに湖畔沿いの小道を歩き出した。
木々の隙間からきらきらと光る水面や、吹き抜ける心地よい風を堪能していると、ほどなくして目的の建物が見えてくる。
舟木さんの実家から少し歩いた先にある老舗旅館『湖翠楼』は、立派な日本庭園と木造建築が目を引く、いかにも由緒正しいといった趣の宿だった。
舟木さんの後に続いて、打ち水がされた石畳を踏んで暖簾をくぐり、広い玄関へと足を踏み入れた俺は、しかし、すぐに帳場周辺の張り詰めた空気を肌で感じ、スニーカーの足を止めた。
「どうしても、なんとかならないだろうか。倍の金額を払おう」
流暢な日本語で、熱を帯びた声が響く。
帳場の前に立つのは、目立たないくすんだ茶髪に彫りの深い顔立ちをした、見上げるような巨漢の外国人だった。
背中を丸めるようにしてカウンターへ身を乗り出しているが、ラフなTシャツの奥に隠された筋肉の隆起は、服の上からでもはっきりと見て取れる。
(うおっ……でけぇ)
生で見るその姿はとんでもなくデカい。俺の知る限り一番の巨漢である猪狩先輩と同じくらいのガタイがある。
ダンジョンが登場し、探索者の身体能力の向上が当り前になって以来、純粋な肉体のぶつかり合いを楽しむ『無補正プロレス』はすっかりニッチな興行になったはずだが、その手の選手だろうか。
「申し訳ございません。お客様がどれほど金額を積まれても、当館の『離れの特別室』は、すでに別のお客様のご予約で押さえられております」
初老の男性――和装に身を包んだ頑固そうな舟木さんのお父さんは、巨漢の外国人の熱意に一歩も引くことなく、静かに頭を下げていた。
「そうか……やはりダメか」
巨漢の外国人は残念そうに肩を落とした。しかし、すぐに感心したようにお父さんを見る。
「……素晴らしい。客の金に屈することなく、先約への義理を貫く。これぞ武士道精神だ。無理を言ってすまなかったね、他の部屋で構わない」
(いや、武士道って大げさな……。ってか、その『離れの特別室』って、さっき舟木さんが言ってた俺の部屋のことか?)
一人で勝手に感動している外国人に内心でツッコミを入れつつ、俺はおおよその状況を察して、ひょっこりと帳場へ顔を出した。
「あ、すみませーん。今日予約してる湊なんですけど」
その瞬間、巨漢の外国人の視線が俺へと突き刺さる。
「さっきの話、聞こえちゃったんですけど。その『離れの特別室』って、私が泊まる予定の部屋ですよね?」
「あ、はい。湊様ですね。娘の命を救っていただいた大恩人です。親として当館で最高の部屋をご用意するのは当然の務めでして……」
「なら、俺は普通の部屋でいいですよ」
俺はあっさりと告げた。
「え?」
お父さんだけでなく、隣にいた巨漢の外国人も驚きに目を瞬かせた。
「あ、もちろんお二人が一番良い部屋を用意してくれた気持ちはすごく嬉しいです。ありがとうございます」
せっかくの厚意を無下にしては悪いと思い、俺は慌てて後ろにいる舟木さんと、目の前のお父さんに向かって頭を下げた。
「でも、俺なんて温泉に入れて美味しいご飯とビールが楽しめればそれでいいんで。もしよかったら、彼に譲ってやってもらえませんか?」
俺が笑って頼み込むと、舟木さんとお父さんは顔を見合わせ、やがて「恩人である湊様がそうおっしゃるのでしたら……」と渋々ながらも了承してくれた。
そのやり取りを見ていた巨漢の外国人は、真剣な面持ちで俺に向き直った。
「どうして、見ず知らずの他人に最高の部屋をやすやすと譲るんだい?」
男は鋭く探るような視線を向けてくる。
「いや、別に。ただあんたがすげえ泊まりたそうにしてたからさ」
俺はあっけらかんと答えた。
「それに、せっかく日本に遊びに来たんだろ? なら、良い体験をして帰ってほしいじゃないか」
俺の一切の気負いがない自然体な態度を見て、巨漢の外国人は数秒の沈黙の後、深く息を吐き出した。
「……なんと欲のない、高潔な精神を持った男だ」
彼は感動したように頷き、俺に向かって右手を差し出してきた。
「感謝する、名も知らぬ友よ。私はジョ……いや、『ジョン』と呼んでくれ」
「ジョンさんね。俺は湊。よろしく」
握り返した手は、ゴツゴツとしていて分厚かった。
「ミナト、この恩は必ず返すよ。もしよければ、後で一杯奢らせてくれないか? ぜひ君と語り合いたい」
「お、いいね」
(こういう偶然の出会いがあるから、旅ってのはやめられないんだよな)
豪快に笑うジョンに釣られて俺も口角を上げる。
◇
その頃、東京・千代田区。
探索者協会本部の執務室では、革張りのオフィスチェアに深く腰掛けた《海神》氷室 透が、デスクのモニターに映し出された一人の女性の経歴を冷徹な目で見つめていた。
『舟木 葵。元協会職員・現白金級探索者。実家は山梨県・河口湖畔の老舗旅館・湖翠楼』
彼女の基本情報はすでに洗い出している。氷室が注視していたのは、彼女が協会を退職した八月末の記録だった。
「急な退職願い。表向きは『一身上の都合』となっているが……仲の良かったスタッフの証言によれば、ある一般人の救出事案の際、一緒に向かった探索者が一人犠牲になったことに、強い責任を感じていたようだな」
氷室が独り言のように呟くと、背後に控える天宮巫が補足した。
「はい。そのときに舟木葵が救出したのは、探索者資格を持たない三十代の女性と七歳の息子でした。システム上、十四歳未満の人間がダンジョンに入ることは不可能なはずですが……」
「ああ。聞き取り調査でも要領を得ず、未成年ということもあり、それ以上の詳しい調査は打ち切られた。母親の方は『急にモンスターに襲われて、気づいたらダンジョンにいた』と証言している」
氷室は銀縁眼鏡を押し上げ、忌々しげに目を細めた。
「ダンジョンが誕生して32年経つのに、未だに不可解な事件が起きる。……分からないことだらけだな」
一般人が地上でモンスターに拉致され、システム上の入場制限に弾かれるはずの七歳の子どもすらもダンジョンへ引きずり込まれた。
それを助け、代わりに犠牲になった「誰か」がいて、その一件をきっかけに舟木葵は協会を辞めた。
これだけなら、ただの不可解な事故で済んだ話だ。
だが、今回の富士スタンピードの現場にも、その舟木葵がいた。謎の探索者に関する「勘違いだった」という証言の不自然な訂正も、彼女が事情を知って口封じに動いたとすれば辻褄が合う。
二つの異常事態が重なる以上、この女の周辺には確実に『何か』がある。
すべてが一本の線で繋がりそうだが、肝心の中心が見えない。
「データだけ見てても埒が明かんな」
氷室は決断を下し、天宮へ鋭い視線を向けた。
「よし、天宮。山梨の湖翠楼へ行き、直接探りを入れる。表向きは休暇ということにしておけ」
「承知いたしました。久しぶりの休暇、楽しみですね」
「……まあ、もし何も尻尾が掴めなかったとしても、骨休めくらいにはなるか」
神経質そうな氷室の口元が、わずかに緩んだように見えた。しかし次の瞬間には、ひどく疲れたようなため息をつく。
「何にも考えずにダンジョンに潜れてた頃が懐かしいよ……」
「透さんがその気になれば、いつだって辞められますよ?」
「そんな無責任なことできるかよ。……どこぞの『刀神』じゃあるまいし」
呆れたように肩をすくめる氷室を見て、天宮はくすくすと上品な笑い声を漏らした。
平穏な観光気分で温泉に浸かろうとしている湊の背後に、日本の国家権力を握る天鋼級の包囲網が、音もなく迫ろうとしていた。
ば、バカでかい外国人。
い、一体誰なんだ。
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