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月夜の海

 俺たちが砂浜に到着したとき、まだかろうじて日は沈んでいなかった。真冬の海岸を散歩しに来る人はなかなか見当たらない。2人きりの貸し切りの空間。


「これが海……独特な香りがする」

「この磯の香りがいいよな。子供の頃に何度か親と潮干狩りに来たっけ」

「潮干狩り? 狩りをするの?」


「物騒なことじゃないよ。砂浜に埋まってる貝を掘って、持って帰って食べるんだ。ちゃんと砂を吐かせないとじゃりって口の中で音がして、何とも言えない気分になるんだよなあ」母親が作ってくれたアサリの味噌汁を思い出した。あの頃は食べ物1つで目をキラキラ輝かせていた。「シーズンになったら一緒に潮干狩りしに来るか」


「うん、ユーマと一緒なら行くよ。海にはたくさん楽しいことがあるんだって、村に帰ったら皆に伝えてあげるんだ」声が少し小さかった。


 墓前で、という言葉は暗黙の了解。異世界に帰っても、恐らく生き残ったエルフはいないのだろう。


「じゃあ決まりだな」


 釣りやビーチバレー、サーフィンなど海は娯楽に満ちていることを説明した。サーフィンはやったことないし、釣りも学生時代友達に連れられてノリでやっただけだが、遊ぶ内容より誰かと楽しい時間を共有できること自体が俺にとっては宝物のような体験だった。


「じゃあわたし、水浴びてくるね」

「俺はこの辺から見守ってるよ。この時間だし今日は一段と寒いから、邪魔は入らないと思う。のんびりしてきていいぞ」

「勝手にどこか、行かないでね」

「俺が1度でもそんな真似したか?」

「信じてるからこそ、念のため」


「信用あるのかないのか……」俺は思わず苦笑する。


 波打ち際から少し離れた場所で、俺はエルピスが水着になる姿を遠目に見つめていた。


 見つめていた、という表現には誤解があるからやましい心は一切ないと先手を打っておく。誰が見ているわけでもないのに、俺はなぜ自分に言い訳しているんだろうな。


 だが正直いうと、エルピスのスタイルはモデルに匹敵すると思うし、素直に見惚れている。高校生や大学生モデルの隣に立ったらむしろエルピスのほうが際立つに違いない。胸は大きく、腰にかけてのくびれのラインも完璧。脚はすらりと細く長く、水しぶきが上がると思わず映画監督のようにカメラに指示を送りたくなる。


 とうとう日が沈み、月と街の明かりだけがエルピスに影を与える。


 エルピスは浅瀬に静かにしゃがみ、髪から胴体まで海水を肌に浴びせている。どれだけの間そうしていたのかわからない。時が止まったかのような錯覚すら覚えた。


 刹那、エルピスの全身から眩い光が発せられ、俺は我に返った。エルピスは不思議そうに自分の身体を眺め、その場で月のほうを見上げる。


「大丈夫か!」俺は駆け寄りながら声を張った。


 エルピスは見上げたまま、「感じる、魔素の巡りが良くなってる。これが、海の力」


「エルピ……」横顔を見て、俺は声を掛けるのをやめた。


 彼女の頬を伝うそれは、静かに海へ溶け込んでいった。


「みんなに会いたい……会いたいよ。一緒に海を見ようって約束、したのに。凄いんだよ、今なら高等魔法をどんどん使えそうな気がするの。お姉ちゃん言ってたね……雷撃一発で大漁だって。広いよ、そんなの無理だよ。海はどこまでも広がってるんだよ……ユックは大きな魚に乗って、サナは向こう岸まで泳ぐって、みんな夢を持ってたよね。自由を手に入れたら、やりたいこと、一杯あったよね。もっとたくさん、一緒に笑いたかったね──なのに、なのに! どうして!!」


 エルピスがこれだけの声を上げて泣くのを見るのは初めてだった。悔しさ、怒り、悲しみ、抑圧してきた全ての感情が魔素の巡りで開放され、敏感になっているのかもしれない。


「俺は、エルピスの悲しみをたとえ少しでも受け止めたい。気持ちがわかる、なんて安易な言葉は使わない。だから慰めることもできない。たくさん泣くことだ。俺はずっとここにいる」


「ユーマ……」エルピスの頭が俺の胸に押し当てられる。「ごめんなさい、取り乱して」


 俺は優しくエルピスを抱きしめる。「きっとこうなるだろうってわかってた。1人で来ちゃったら、罪悪感覚えるよな。それでも俺はエルピスに自分の感情を大切にしてほしかったんだ。俺が与える幸せで、たとえ心が引き裂かれるような記憶でも上書きしてほしくなかった。俺の前だと少し強がってただろ」


「ユーマが……そばにいて、わたしは幸せになる。その気持ちは嘘じゃない。本気で思った。自分を騙してなんかない。この世界で本当に幸せになってみせる。絶対に負けない」


 そっと頭を撫でる。


「俺だってエルピスからたくさんの幸せをもらってるんだぞ──」俺は意を決し、「だから、どんな手を使ってでもエルピスを幸せにしたい。向こうに送り返してあげたい……でも俺だけだとエルピスの感情を先回りして、色々と考えて傷付かない道を選んでしまう。今日だって本当は怖かった。村のみんなと一緒に行きたかった海に1人で来て、傷口をえぐるだけなんじゃないかって思った。魚が水槽に幽閉された水族館に行けば、嫌な思いをするんじゃないかとか、安全な道しか準備してやれない。けど今のエルピスの言葉を聞いて安心した。俺が思ってたよりずっと強い。それを俺は見抜けなかった。だからこそ、俺だけじゃなくてエルピスを大切に想ってくれる人を、もっとたくさん見つけたいと思う」


 ポケットからハンカチを取り出し、エルピスの涙を拭いてやった。

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