第90話 変貌する戦場
駿馬と刃に支えられた騎士の時代が終わりを告げ、国民軍が国防における主力を担うようになって以来、戦場の大部分を支配する根本原理は、神の思し召しと個人の勇気から、冷たく無慈悲に結果を弾き出す統計学へと移り変わりつつあった。
数的優位と適切なタイミングでの攻撃、そして全体としての砲火力の充実――それらによって勝利を掴み取ることが近代の軍事における基本であり、今後一層その風潮は強まっていく――どの国に属するかを問わず、軍事に関与する者であれば誰もがそう確信していた。
無論、それはアルタヴァ軍の将官たちにとっても同じである。ゲリラ戦によって後背を脅かし、正面には強大な砲火力を連続して投射し続け、騎兵と歩兵の連携攻撃をもって完全に敵を打倒する――その基本戦術に則り、彼らは戦いを続けていた。抵抗は激しかったが、ゲリラ戦によって増援の到着を阻害されたヴェーザー王国軍の国境防衛大隊はいずれ潰走する――その予感が確信に変わる直前、戦場で最も恐れるべき「例外」が、彼らの陣地に飛び込んできた。
後方の幕屋で副官を侍らせ、ぶどう酒を片手に愉悦の表情を浮かべていたアルタヴァ軍大隊指揮官――ピエール・ジマー中佐は、突如として飛び込んできた伝令に不快感を露わにして鼻を鳴らした。
「何事だ、騒がしい――」
「新手の敵騎兵部隊が我が軍前衛を強襲! 報告によれば、敵はいずれもユニコーン騎兵とのこと! 既に前衛部隊に死傷者が多数発生、即時増援を求むとのことです!」
「……ユニコーンだと?」
清らかな乙女にしか手懐けられない幻獣であり、並の軍馬を凌駕する運動能力と知性、そして魔法による干渉の一切を弾き返す不可視の結界を有する至高の軍馬――だが、処女以外乗りこなせないという致命的欠点故に、軍用としての実用性は極めて低く戦術的価値は皆無に等しい。ジマー中佐は、ユニコーンに対してそのような認識を抱いていた。
ユニコーンへの騎乗において最も高い適正を有するのは、十代前半から二十代中盤の若い女性のみである。ヴェーザー王国とアルタヴァ共和国はともに女性の志願を認めており、一部では実戦に投入されることもある――が、その大部分は後方での業務、特に看護衛生分野や広報活動、あるいは基地で厨房を預かる主計科補助員としての活動が主である。ユニコーンへの騎乗に高い適性を示す年代の者たちが直接戦闘に関与することは稀であり、ユニコーン騎兵の実戦投入などナンセンスにも等しい。
それだけではない――戦争を男の特権として維持したいというマッチョイズムが軍隊の本質である以上、女性兵士によってのみ構成される部隊に、将兵問わず反発の声が上がるのは自然である。
それ故に、どの国家においても一度は検討されながらも非合理的であるとして却下されてきた。ユニコーンそのものの繁殖の難しさもその一因であり、およそ実戦部隊として運用するには至らない――そう否定してきた存在が、軍の前衛を強襲破砕してのけた。悪い冗談か夢の類い、あるいは戦場における勘違いの伝播が引き起こした混乱。そう判断したジマー中佐は、ふっと笑みを浮かべて手にしていたグラスからワインを一気に呷って机を強く叩いた。
「ぬかせ。何かの勘違いか、敵の偽装工作だろう――騎兵隊に攻撃させろ」
「既に現場指揮官の判断で部隊が投入されています! しかし……」
「しかし何だというのだ!」
「敵を捕捉しきれず翻弄され、いずれの部隊も打撃を与えられていません! このままでは……」
伝令の表情に苦悩が滲む。それを見て、ジマー中佐は迫りつつある脅威が現実のものであることを直感した。言葉ではない――敢えて言うならば雰囲気そのものからの洞察である。
「……このままでは、どうなると」
「前衛を突破し、本営を強襲するものと推定されます」
その一言を聞いた中佐の判断は迅速であった。すぐさま椅子から立ち上がると、手にしていた盃を放り出して命令を下した。
「周辺部隊の全てを敵幻獣部隊に集中。戦列歩兵による阻止射撃、ならびに重装騎兵による迎撃戦を展開――敵の突撃を阻止しろと伝えろ!」
「了解!」
小銃を掴んで駆け出していく伝令を見送り、ジマー中佐はサーベルを掴んで立ち上がった。確かに命令は下したが、それだけで終わるべきではないと彼の直感が告げていた。ありえない報告を受けたのならば、自らの眼で確かめなければ意味がない――それは常識的な判断であったが、今このときばかりは致命的な誤算であった。
「……私も出る。ここで待っていてくれ」
肩に寄りかかっていた副官に一言残し、ジマー中佐は共和国軍を象徴付ける真紅のマントを身に纏った。王政時代は地方で燻っているだけの中尉だった彼は、アルタヴァに共和制を樹立すべく実行されたクーデターによって運命を大きく変えられた。
地域の住民によって半ば担ぎ上げられる形で地方反乱軍の指揮官となってクーデターに加わり、反乱軍を指揮して王都の攻略に成功――共和制樹立に介入した諸国との戦闘も乗り切った彼は、国土の防衛といずれ来るヴェーザー王国との再戦という重要な任務のため、精鋭を揃えた国境警備部隊の指揮官として国家に忠誠を尽くしていた。
実際のところ、彼は熱烈な共和制の信奉者をいうわけではない――だが、自らの軍事的才覚を見出し、活躍の場を与えた「共和国政府」に対しては、軍人として敬意を示していた。自らの能力と共和国の目的が合致する限り力を貸し続けるという実利的思考に基づいた忠誠であり、統計が支配する戦場においては理想的な指揮官であった。
天幕を出てその脇に繋がれていたグリフォンに視線を送り、それから司令部直轄偵察隊の航空騎兵に命令を下す。開戦直後で多くの航空戦力を動かすことはできなかった――が、僅かな航空偵察能力だけは前線指揮官として持ち込むことができた。
無論、撃墜の危険性からおいそれと展開することはできない。対空射撃能力を持つ魔導兵、あるいは航空直掩としてヴェーザー王国にもグリフォン騎兵あるいは、より軽便なペガサス騎兵が配備されていることを想定した上でなければ動かすべきではない――だが、現状を把握する上での偵察行動は必須であった。軍事的にありえないことが起きている以上、全体の状況を把握しなければならない。
「上空偵察だ――なるべく高高度まで一気に上がれ」
短く命令を下してゴーグルを身に着ける。一瞬にしてグリフォンが舞い上がる――本来ならばマント越しにも身を切るような寒さを感じるはずだったが、ジマー中佐の手のひらは汗ばんでいた。
(……私は何を恐れているんだ。どうせ少数の騎兵部隊――幻獣といえども、戦術的な領域に影響を及ぼすものではないはずだ)
中佐は拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように首を振った。だが、グリフォンを駆る騎兵が上げた悲鳴にも近い報告に、彼は目を見開き――そして、瞬時のうちに絶望を胸に抱いた。
「中佐――我が軍右側面の騎兵部隊が著しく後退しています! 数は保っていますが、陣形がほぼ完全に崩壊……これでは翼包囲どころか、こちらが殲滅されます!」
「なっ……」
言葉も出てこない――勘違いであってくれとゴーグルを拭い、さらには目を擦りさえした。だが、報告の通り右側面に展開していた騎兵部隊は跡形もなく姿を消していた。砲撃戦で敵の戦力を削り落とし、正面からは戦列歩兵が突破、側面からは騎兵が翼包囲を行うことで敵を殲滅撃破する――極めて古典的な、だが古来より変わることのない戦法でもって敵に応じ、なおかつゲリラ戦による増援の阻止という一工夫も加えられており、勝利を盤石にするためのお膳立ては済まされていると中佐は認識していた。
だが、その企ては瞬時のうちに覆された。自分のもとに連絡がよこされるまでの僅かな時間に友軍の騎兵隊は壊滅――何が起きているのかは認識できるが、理解は追いつかない。自分の中の軍事的常識のことごとくを覆す現象が起きている――その恐怖と混乱の中、中佐は最悪の判断を下した。
「降下しろ! もっと近くから確認すればいい」
「しかし、敵に近づきすぎるのは――」
「やれと言ったんだ!」
サーベルを抜き放って怒声を叩きつけ、ジマー中佐はグリフォンを強引に降下させる。眼下では激しい戦闘が継続されているが、右側面の後退に伴って各部隊も徐々に押されつつある。これではいけない、と判断した中佐は、サーベルを抜き放ってマントを翻し、押し込まれつつある味方の頭上に舞い降りて檄を飛ばした。
「恐れるな! 陣形を立て直し、敵に反撃を――」
本来ならば英雄的かつ模範的な指揮官としての行動――だが、必殺の刃を手にした戦乙女の一団の前で、それはあまりにも軽率な行為であった。豪奢な佐官用マントをなびかせて降下してきた指揮官――その姿は、隊内で最長の射程を誇る第七分隊のオリヴィアにしっかりと捕捉されていた。
「……あ?」
突進しつつあるユニコーン隊の一角でマズルフラッシュが煌めく。それと同時、ジマー中佐は左胸に焼け付く熱さを感じ――次の瞬間には、後ろに投げ出されていた。何が起こったのかを知覚するまでもなく亡骸となった体は地面に落ち、さらなる混沌をアルタヴァ軍に広げていく。
――大陸歴1856年、6月20日。
後に「夏戦争」と呼ばれる戦いのその緒戦、当初はアルタヴァ優位で始まった国境の戦いの行方は、大きく変貌しつつあった。




