朏の音 2
鈴の音のような声は間違いなく友人のものだ。しかし、振り向いた先には、薄い透けた布を垂らした笠を被った女が一人。顔が分からない。
「巴……ちゃん?」
「そうよ」
頭を抱えて蹲る伊月に声を掛けたのは巴であった。巴は笠の布を手の甲で捲り、そこから笑顔を覗かせる。伊月は立ち上がって近づくと、「どうしたの?」と、問いかけた。彼女の姿は、今まで見てきた可愛らしい明るい色の小袖姿ではない。裾が広がらないよう袿を絡げ、帯は胸の辺りにかけている。太い鼻緒の草履は、まるで長旅でもするかのような装いだ。
「ああ、これ? わたしもつぼ装束なんて初めて着たわ」
そう、つぼ装束だ。遠方から店を訪ねてきた婦人が、そんな格好をしていた。確か、身分の高い婦人の旅装姿ではなかったか。夕焼けのような纁色の袿が、秋の空に溶け込んでいた。
「今帰ってきたところなのよ。少し遠方の神社へお参りに行っていたから」
わざわざ遠くまで、何か祈願するような悩みでもあったのだろうか。巴のことだから、恋愛成就のお参りでもしてきたのかもしれない。最近は「光之助様」と言うことが無くなったが、もしかして失恋でもしていたのだろうか。
巴は市女笠を取り、「この笠についてる虫垂衣? これって結構便利よ。虫除けになって」と力なく笑うとすぐに俯いた。今日の巴からは、普段のはきはきとした、威勢の良さが感じられない。戸惑いを隠せず巴の出方を窺っていると、草履でぐりぐりと土をいじっていた彼女は、意を決したのか口火を切った。
「……わたしね、もうすぐ嫁ぐのよ。一度だけ会ったのだけど、なかなかいい人だったわ」
「ちょ、と。嫁ぐって……」
なんて偶然だろう。あの尼は預言者か予知能力でもあるのだろうか。まさか、身近に結婚しようという人が出るなんて。
「え、でも、光之助さんは? 好きなんでしょ?」
初対面であれだけ愛を語ってみせたのだ。いくら相手がいい人でも、そう簡単に気持ちが変わるとは思えない。そう尋ねると、巴は初めて自嘲的な笑みを浮かべた。
「そうね、“好き”だったわ。養子でも武家の跡取りで、若いし見た目も悪くない。気性も穏やかで、まさに理想の相手。彼なら、わたしの両親も口出ししてこないと思ったの」
ぎゅう、と市女笠を握り締める巴は、伊月の知らない人だった。
彼女の“好き”は、伊月の言う“好き”と、きっとイコールではないのだろう。
「わたしの家は、まあ、それなりに貧しかったわ。農家だったの。でも、それもわたしが十くらいまでの話ね。姉が公家の某様に見初められて、一変したわ」
ぽつぽつと話す巴の言葉を、伊月は黙って聞いていた。彼女の今の生活を考えると、なんとなくこの先が予想できる。きっと、巴の両親は農家としての暮らしを捨ててしまったのだろう。そして、巴にも姉と同じ道を進ませようとしているのかもしれない。
「姉が幸せかどうかは分からないわ。相手とは随分歳が離れていたし、庶民だもの。精々側妻がいいところでしょう」
「巴ちゃんは、その、相手のこと好きなの?」
「さぁ? まだ一回しか会ってないもの。これから好きになるかもしれないし、そうじゃないかもしれないわね」
一度しか会ったことない人と結婚する。伊月には到底受け入れられない話だ。一度でどんな会話ができるというのか。デートだってしていないだろう。「もう、気軽に外へは行けなくなるわね」と、寂しそうな巴を見ると、こちらの胸も苦しくなってくる。
「嫌なら、止めちゃえば」
気付けばそう口にしていた。自分の人生だ。親は大事に違いないが、それで巴が辛い思いをするのは理不尽だ。ましてそれが、贅沢な暮らしを手放したくないという、欲にまみれたものなら、尚更。
「結婚なんてまだ早いって。それに、好きな人ってわけでもじゃないんでしょ? お父さんとお母さんに言えばいいじゃん。子どもの幸せがなによりなんだから。なのに、巴ちゃんの気持ち無視して決めるなんて、最低だ」
「……そんなことない。わたしのことを考えての結婚だもの。それに、他の子はどんどん夫婦になっているのよ? 独り身なんて、親不孝もいいところだわ。良縁を結んで、親に楽をさせるのが娘としての努めよ!」
巴は伊月の言葉に目を剥いたが、すぐに熱り立ち声を張る。しかし、伊月には彼女の言う、良い暮らしのために男を選ぶ、ということが理解できなかった。
「そんなの、おかしいよ……」
「おかしくないわ。みんなそうよ。わたしは遠くへ行くだけで、他の子も幼馴染や、そうでなければ、親や町の人間が薦めた相手と一緒になっているもの」
互いに譲れず、視線を合わせることもできずに俯いていると、巴は黙って市女笠を被り、その表情を白い虫垂衣の向こうに隠した。
「やっぱり、あなたは違ったわね。『検め衆』の時も婿探しには興味無かったし。良い人がいるのかと思えば、そんな感じもしない。女独りで生きていくのは、大変よ?」
震える声が、なんとか気丈でいようという巴の心を表していた。伊月は、巴の理解を得られないことに唇をかみ締めながら、この世界の結婚観念について考えていた。やはり、ここには独身を貫く女性はいないのだろう。そもそも、独りで生活していく、という考え方が無いような気がする。とかく町では子育てをしながら仕事をしている女性が目立っていた。仕事のできるできないでもなく、年齢でもない。きっと、男も女も、自分以外の他人を支えて、初めて自立した一人前の大人として認められているのだ。
「どうしてあなたが、嫁ぐことに否定的なのかは分からないわ。でも、いつまでも山本屋さんにお世話になることはできないのよ」
それは、漫然と伊月も思っていたことだ。もう少し自分の歳が低ければ猶予はいくらでもあっただろうが、年頃の娘がいつまでも居候では体裁が悪すぎる。追い出すようなことはしないだろうが、ずっと甘えるわけにはいかないと思っていた。せめて、自分が最低限自活できるようになるまでは、もう少しだけ居させて欲しい。「分かってる。時期をみて出て行くつもりだから」と言うと、「そう」とだけ返ってきた。
「じゃぁ、そろそろ行くわね。……文でも出しなさいよ。たぶん、もう会えないから」
それなりの身分の者に嫁ぐのなら、簡単には会えなくなるだろう。人前に顔を出さないのが、彼女たちのマナーなのだから。「うん、必ず出すね」と泣き笑いで答えると、薄い布の向こうで、紅の引かれた口元が引き上げられたのを見た。
巴が立ち去った後、彼女のいた辺りにはそこだけ通り雨が降ったかのように、ぽつぽつと乾きかけた水玉模様が浮かんでいた。




