朏の音 3
涙で赤くなった目と鼻が落ち着くまで待つと、とぼとぼと伊月は空き地を後にした。山本家へ戻ると大吾と吾郎太は居らず、店じまいをしているのはお美代だけだった。伊月は、行李の中から売れ残った扇子を取り出して棚にしまうと、今日の売り上げをお美代へ渡した。
ここで日常的に使うお金は、穴の開いた銅銭一種類しかない。それを100枚ずつ紐に通して持ち歩くのだ。単位は文。初めは十文と言われても、高いのか安いのか分からなかった伊月だが、市へ行ったり、行商していくうちになんとなく物価をつかめてきた。今は、一文をだいたい100円から150円くらいとして使っている。ただ、切りが良くて計算が楽だ、と思ったのは最初だけで、たまにビタ銭が混ざっていたりするとこれが厄介だ。質の悪いビタ銭には、当然良いものと同じ価値は無い。100円以下なのだ。しかも、欠けていたらマイナス5円にしろ、だなんてマニュアルは無いのだからその辺の塩梅が難しい。おまけに、意地の悪い人は、いかにバレずにこのビタ銭を上手く紛れ込ませるか、に心血を注いでいるので、気をつけねば思わぬ損をしてしまう。なんの疑いも無く笑顔で受け取って、帰ってきてみればほとんどがビタ銭だった、という時には泣いて皆に謝ったものだ。
「大吾さんと吾郎太くんはまだですか?」
夕方には大抵皆揃っているので、二人とも居ないのは珍しい。帳簿に先ほどの売り上げを記入していたお美代は顔をあげて、「そうなのよ」と不満げに声を漏らした。
「あの人は屋号を持ってる奴らの集まりで、そっち。まぁ、集まりなんて口実で、酒飲んでるだけだろうけど。吾郎太は、どこかで遊んでるんでしょうよ。まったく、暗くなる前に帰ってきなさいって言ってるのに……」
お美代の言葉に苦笑して、薪を取りに裏へ回る。薪を七、八本抱えて竈にくべると、吾郎太が「ただいま!」と、土間へ顔を出した。顔や着物に泥をくっ付けてきた彼は、今日はどこでやんちゃをしてきたのだろう。
「おかえり、お美代さん心配してたよ?」
「ああー、さっき拳骨もらった。今日は佐助と栄吉と彩にぃで、きのこ狩り行ってきたんだ。ほら」
言うや否や、懐やら袖やら吾郎太の着物のあちこちから、ぽろぽろ茸が転がり出てくる。伊月は目を剥いてそれを拾い上げると、両手で抱えるほどの量になった。得意げな吾郎太に「たくさん採ってきたね」と笑いかけると、彼は嬉しそうに歯を見せた。
「吾郎太、あんた布に包むくらいしなさい。袂、土だらけになっていないでしょうね」
濡らした布を持ってきたお美代が、目を吊り上げて吾郎太を見る。ぎくり、と吾郎太は顔を引きつらせ、乾いた笑いが土間に響いた。
「で、でもお美代さん。とてもおいしそうですよ? 今日はこれで一品作りませんか?」
色とりどりの両手の茸を差し出すと、少し表情を和らげたお美代が、どれどれと伊月の両手を覗き込む。
「そうねぇ、汁物に入れて、あとは干しときましょう」
お美代は三分の二ほどを笊に移して、水を張った鍋を板敷きの間に持っていった。汁物は囲炉裏の方で作るようだ。残った茸を水できれいに洗うと、伊月は竈の火加減を見ながら、「食べて大丈夫なやつだよね?」と聞いた。布で顔を拭いていた吾郎太は、「当たり前だろ!」と返す。
「食べられるのと毒きのこの違いくらい分かるって。それに、彩にぃとちゃんと確認したし。全部食べられるよ」
吾郎太がそう言うと、具材を取りに来たお美代が「外で土を払ってらっしゃい」と、土間から吾郎太を追い出した。吾郎太はしぶしぶ勝手口から出ていくと、暫くして外でぱんっぱんっと威勢のいい音が聞こえてくる。
「あの、お美代さんと大吾さんはどうやって知り合ったんですか?」
ふと、嫁に行く巴のことが気になって、お美代に二人はどうだったのかを尋ねてみた。里芋の皮を剥いていたお美代は、「ええっ?」と驚くと、ぬめりで滑ったのか芋を下に落っことす。いそいそと芋を拾う耳が紅い。
「そ、そうねぇ。知り合ったっていっても、子どもの頃から一緒に遊んできた仲だったし。子供心になんとなく、いつかは夫婦になるのかしら、とは思っていたけど……」
うーん、と昔のことを思い出しているのだろうお美代は、少し頬を赤らめながら空を見ている。やはり巴の言うとおり、お美代と大吾も、幼馴染がそのままパートナーになったパターンらしい。
「きっかけはなんだったんですか?」
「……今日はどうしたのよ。いつもはこういう話興味無かったじゃない。……えぇーと、確か大吾が店継ぐときに、嫁に来てくれって言われたんだったかしら?」
ちょうどあたしがあんた位の時よ、とお美代は恥ずかしそうに笑った。あの無口な大吾さんからプロポーズ。てっきり押しの強いお美代から言ったものと思っていたから、まったく想像がつかない。
「え? 父ちゃんから言ったの?」
伊月の心を代弁するかのように、外から高い声があがった。着物だけでなく頭の土も払ってきたのか、髷を下ろした吾郎太が戸口で意外そうにしていた。一体どこから聞いていたのか。案外、最初から聞き耳を立てていたのかも知れない。
「そうよ、いざって時に決めてくれるの。格好いいでしょう」
息子に聞かれて開き直ったのか、お美代は最後盛大に惚気て板間へ向かった。心の中で「ご馳走様です」と呟くと、吾郎太が馴れ初めなんて初めて聞いた、と大きな目をさらに丸くしていた。それから持っていた薪を、足りないと思って、と伊月に渡し、一緒に火加減を見る。時々火の当たる向きを調節しながら竈の中をいじっていると、「なんで母ちゃんに聞いたの?」と、吾郎太に聞かれた。
「……友達が嫁ぎに行くんだって。それで、お美代さんたちはどうだったのかなって。……幼馴染でいくと、吾郎太くんのお嫁さんはシイノちゃんかな」
ぽつり、そう呟くと、「げぇっ!?」と、吾郎太は大げさに驚いた。田楽を見に来た時のことを思い出して、お似合いじゃないかと一人微笑んでいると、吾郎太は胸を押さえて呻いた。
「うえぇー、何でアイツ!? 止めろよ、おれはもっと優しくて、可愛い嫁さんもらう!」
吾郎太はそう叫ぶと、「今日の伊月はなんか変だ!!」と板間のほうへ行ってしまった。一人土間に残された伊月は笑って吾郎太を見送ると、ぐつぐついうお釜をじっと見ながらこれからのことを考えた。
本当は、山本家に迷惑をかけないためにも、さっさと自分も嫁いだ方が良いというのは分かっている。もちろん、自分を嫁にしたいと思う奇特な男がいればの話だが。ただ、そうすると元の世界へは帰れなくなる。新しい家族をつくった後で、彼らを置いて平気でさよなら出来る女性なんていないだろう。それに自分の両親も、友達も絶対に諦めたくない。だから、元の世界へ帰る方法をなんとしても見つけなければ。それもできるだけ早くに。満尋は諦めているようだったけれど、帰りたくないとは言っていなかった。だから、自分が諦めずに方法を探せばいい。
燃える竈に薪を足すと、ますます火が強くなる。赤々とした光に照らされた伊月の顔は、決意に満ちていた。




