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第一話 異世界の雨

雨の音で目が覚めた。

ぽつぽつではない。

石畳を叩く重たい雨だった。

青年は薄く目を開けた。

冷たい。

身体が冷える。

背中も痛い。

何より腹が減っていた。

「……は?」

思わず声が出る。

そこは見知らぬ路地裏だった。

石造りの壁。

鉄製の街灯。

どこか古いヨーロッパを思わせる街並み。

しかし観光地のような綺麗さはない。

煤けている。

臭い。

生活の匂いがする。

「夢か……?」

立ち上がろうとしてよろめく。

頭が痛い。

記憶を探る。

自分は佐伯悠人。

二十歳。

地方私立大学二年生。

環境系学部。

昨日は講義をサボって友人とアニメの話をしていた。

その後は――

思い出せない。

真っ白だ。

最後に覚えているのは夜道だった気がする。

そこから先がない。

「まさか……」

雨空を見上げる。

少し期待しながら呟く。

「異世界転生?」

何も起きなかった。

頭上にステータス画面も出ない。

神の声も聞こえない。

身体能力が急激に上がった感覚もない。

試しに拳を握る。

普通だ。

めちゃくちゃ普通だった。

「……まあ、そんな都合よくないか」

むしろ寒い。

腹が減った。

そして財布がない。

スマホもない。

最悪だった。

その時だった。

「おい」

低い声がした。

振り返る。

大柄な男が立っていた。

四十代くらい。

煤だらけの作業着。

太い腕。

無精髭。

怖い。

めちゃくちゃ怖い。

「死ぬぞ」

「え?」

「そのまま濡れてたら」

男はそう言うと踵を返した。

数歩歩いて振り返る。

「来るか?」

悠人は少し迷った。

だが選択肢がない。

黙ってついて行った。


案内されたのは工場街の食堂だった。

鉄と蒸気の匂いがする街だった。

遠くで巨大な機械が唸っている。

煙突が何本も空に突き出ていた。

まるでファンタジーというより産業革命時代だ。

「うわ……」

思わず見上げる。

男は鼻で笑った。

「田舎者か」

「いや、まあ似たようなものです」

異世界人です、とは言えなかった。

食堂の女将が温かいスープを出してくれた。

野菜と豆のスープ。

それだけ。

それだけなのに涙が出そうになる。

「うまい……」

女将が笑った。

「三日食べてない人みたいな顔してるね」

実際そうかもしれなかった。


男の名前はガルド。

蒸気機関の整備工だった。

無口だが悪い人ではないらしい。

食堂の二階を一晩貸してくれることになった。

悠人は何度も礼を言った。

「ありがとうございます」

「働けるなら返せ」

「はい」

「働けないなら出て行け」

「はい……」

厳しい。

だが正論だった。


その夜。

窓から街を眺めていた。

雨はまだ降っている。

街灯の灯りが石畳を照らしている。

遠くで汽笛のような音が響いた。

「異世界か……」

少しだけ笑う。

実感はない。

けれど、胸の奥が妙にざわついていた。

ワクワクしている自分がいた。

剣。

魔法。

ドラゴン。

冒険者。

そういうものが本当に存在する世界かもしれない。

中学生の頃なら飛び跳ねて喜んでいた。

今でも少し嬉しい。

その時だった。

外から怒鳴り声が聞こえた。


窓を開ける。

路地で老人が突き飛ばされていた。

若い男が怒鳴っている。

借金の取り立てらしい。

老人は倒れたまま動かない。

悠人は迷った。

関わらない方がいい。

異世界だ。

法も常識も分からない。

だが――

放っておけなかった。

階段を駆け下りる。

食堂を飛び出した。

「やめろ!」

若者たちが振り返る。

三人いた。

全員自分より強そうだった。

しまったと思った。

本気で思った。

勢いだけだった。

何の作戦もない。

「なんだお前」

一歩近づかれる。

怖い。

めちゃくちゃ怖い。

足が震える。

その時だった。

「おい」

静かな声。

振り返る。

ガルドが立っていた。

巨大なレンチを肩に担いでいる。

若者たちは顔をしかめた。

「ちっ」

舌打ち。

そして去っていく。

悠人はその場に座り込んだ。

膝が笑っていた。

ガルドがため息をつく。

「馬鹿か」

「はい」

「勝てると思ったのか」

「全然」

「なら出るな」

正論だった。

反論できない。

だがガルドは少しだけ表情を緩めた。

「……それでも出たのか」

悠人は頷いた。

「まあ」

「そうか」

それ以上は言わなかった。


翌朝。

老人が礼を言いに来た。

だが話を聞くと印象が変わった。

借金をしたのは老人だった。

病気の妻の薬代だった。

返済できなくなった。

取り立ての若者たちも仕事で来ていた。

誰も完全な悪人ではなかった。

悠人は少し考え込んだ。

日本でも似たような話はあった。

この世界も人間が生きている。

単純な善悪では動いていない。


その日の昼。

食堂で皿洗いをしていた時だった。

窓の外で鐘が鳴った。

けたたましい警鐘。

街中が騒ぎ始める。

ガルドが立ち上がった。

顔色が変わっている。

「火事か?」

女将が呟く。

だが外から聞こえてきた声は違った。

「北門だ!」

「魔獣だ!」

「防壁を閉じろ!」

空気が変わった。

さっきまでの日常が消える。

誰もが緊張していた。

悠人は窓へ駆け寄る。

遠くの丘が見えた。

そこに黒い影がいた。

狼に似ている。

だが異常に大きい。

馬ほどの大きさがある。

「……あれ」

ガルドが短く答えた。

「ゴブリンの群れだ」

悠人は固まった。

耳を疑った。

狼じゃない。

ゴブリン?

あれが?

するとガルドはさらに続けた。

「群れを率いてる奴がいる」

丘の上。

黒い外套を着た何かが立っていた。

人影に見える。

だが人ではない。

距離があるのに分かる。

異様だった。

女将が青ざめる。

「まさか魔族……?」

誰かが呟いた。

「北の戦線が崩れたのか……?」

その言葉の意味は分からない。

だがこの世界には魔族がいて。

人類と戦っていて。

そのどこかに魔王がいる。

そんなことだけは理解できた。

悠人は窓の外を見つめた。

胸の奥で何かが動く。

恐怖。

不安。

そして少しの好奇心。

まだ彼は知らない。

この灰色の街で生きていくことになることを。

魔王討伐の歴史に名を残す英雄にはならないことを。

それでもいつか、多くの人々の運命に関わることになることを。

ただ今は。

異世界で最初の仕事を探すだけで精一杯だった。

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