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潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第2章 しおかぜは、まだ帰らぬ男を待っている

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神戸の霧笛は、南ぬ島の潮風へ

神戸の霧笛は、南ぬ島の潮風へ


純喫茶「霧笛」での玲奈の修行は、気づけば長いものになっていた。


最初の頃、玲奈は注文を取るだけで客を緊張させていた。

「ブレンド一点、霧笛プリン一点。以上で相違ありませんか」

そう確認するたび、常連客は背筋を伸ばし、まるで供述調書に署名する前のような顔になった。


笑顔の練習もした。

結果は散々だった。

女主人は玲奈の作り笑顔を見て、深いため息をついた。


「玲奈ちゃん、やめよ。あんたはべっぴんさんやけど、その笑顔は事件性がある」


それでも玲奈は、少しずつ霧笛の人になっていった。


コーヒーの湯温を覚えた。

豆の挽き方を覚えた。

ナポリタンの炒め具合、トーストの焼き色、常連客の好み、雨の日に傘立てを少し前へ出すこと、疲れた顔の客には余計な言葉より温かい一杯が効くこと。


そして何より、霧笛プリンを覚えた。


やや苦いカラメル。

固めのプリン。

甘いだけではない、神戸の古い喫茶店らしい味。


ある朝、女主人は玲奈の淹れたブレンドを一口飲み、静かに頷いた。


「玲奈ちゃん、もうええわ。接客以外は免許皆伝や」


玲奈は真顔で聞き返した。


「接客以外、ですか」


「そこは一生修行中でええ。あんたの注文取りは、南の島でもたぶん取り調べや」


カウンターの端で新聞を読んでいた常連が吹き出した。

玲奈は少しだけ不満げに眉を寄せたが、その表情も以前より柔らかかった。


いよいよ、南の島でカフェを開く時が来ていた。


物件探しは簡単ではなかった。

玲奈は、宅建資格を持つ高島里奈に相談した。

里奈は物件資料を広げ、冷静に言った。


「玲奈さん、海が見えるだけで決めたら駄目です。台風対策、水回り、家賃、駐車場、観光客導線、地元客の入りやすさ。全部見ます」


玲奈は静かに頷いた。


「任務より項目が多いわね」


「開業は長期戦です」


自治体のIターン制度、空き店舗活用補助、移住者向け相談窓口。

ヒロ室の人脈、行政とのつながり、南西諸島に詳しい協力者。

あらゆる道をたどり、いくつもの候補地を見た。


奄美、宮古、久米島、与論。


その中で、玲奈の胸に残ったのは石垣島だった。


南ぬ島・石垣。

強い日差し。

青い海。

どこか人懐っこい風。

市街地から少し離れた場所に、古い小さな建物があった。


かつて地元の人が軽食店を営んでいたという、潮風の通る物件。

大きくはない。

派手でもない。

けれど窓を開けると、遠くに海の色が見えた。


玲奈はその場に立ち、静かに思った。


ここなら待てる。


亮介が帰ってくる保証はない。

帰ってきたとしても、二人がうまくやれる保証もない。

過去は消えない。

罪も、傷も、失ったものも、都合よく美しい思い出にはならない。


それでも玲奈は、ここで店を開こうと思った。


朝、鍵を開ける。

コーヒーを淹れる。

黒糖プリンを冷やす。

客に頭を下げる。

夜、看板をしまう。


嘘をつかず、誰も騙さず、一日を終える。

そんな普通の生活を、いつか亮介とやってみたい。


店の名前は、すぐに決まった。


カフェしおかぜ。


神戸の霧笛で覚えたものを、南の潮風へつなぐ店だった。


そして、玲奈が霧笛を去る日が来た。


その夜、純喫茶「霧笛」は珍しく満席だった。

常連客たちが集まっていた。

玲奈を見に来た観光客ではない。

玲奈の不器用な接客を、コーヒーの味を、少しずつ柔らかくなっていく横顔を、ずっと見てきた人たちだった。


奥の席には、かつての仲間たちもいた。

あかり、麻衣、美音、美咲、迫田ツインズ、あおい、結月。

そして、腕を組んで不機嫌そうに見えて、実は誰よりも寂しそうな彩香。


波田顧問も競輪新聞を持って現れ、遥室長と隼人補佐官も顔を出した。

狭い霧笛は、いつもより賑やかで、それでいてどこか泣きそうな空気に包まれていた。


女主人は、玲奈に最後の霧笛プリンを出した。


「これで卒業や。接客以外は」


玲奈は皿を見つめる。


「最後まで除外なんですね」


「当たり前や。あんたの接客は、石垣でも名物になるわ」


店内に笑いが広がった。

けれどその笑いは、すぐに静かな寂しさへ変わった。


常連の老紳士は、いつものように二杯目のコーヒーを残した。

そして玲奈に言った。


「南の島でも、誰かの席をちゃんと空けておける店にしなさい」


過積載で取り締まられたことのある長距離ドライバーは、照れくさそうに帽子を取った。


「岡本さん、ご安全に。俺もちゃんと守って走るわ」


ジャズシンガーの律子は、赤いスカーフを揺らしながら笑った。


「南の島でも、無理に笑わないこと。でも本当に笑える時が来たら、惜しまず笑いなさい」


麻衣はもう泣いていた。


「玲奈さんの黒糖プリン、絶対食べに行きます」


あかりは鼻をすすりながら言う。


「私、石垣島まで迷わず行けるか分かりませんけど、絶対行きます」


彩香が即座に突っ込む。


「そこは調べてから行け」


美音は静かに言った。


「必要なら、海でも陸でも手伝います」


美咲は控えめに頭を下げた。


「玲奈さんのお店でも、静かに座れる席があると嬉しいです」


迫田ツインズは同時に笑った。


「私たち、今度こそ見分けてもらいに行きます」


あおいは背筋を伸ばして言った。


「空からではなく、客として伺います」


結月は軽く拳を握る。


「セカンドステージ、走り出しましたね」


彩香は最後まで黙っていた。

そして、玲奈の前に立った。


「玲奈さん」


「何?」


「南の島でも、情けない店にはせんといてください」


玲奈は少しだけ口元を緩めた。


「もちろん」


彩香は視線を落とす。


「……いつか行きます。客として」


「お待ちしています」


その言葉に、彩香は小さく頷いた。

納得しきった顔ではない。

けれど、もう引き止める顔でもなかった。


最後に、女主人が古い小さなノートを玲奈に渡した。


「持っていきなさい」


玲奈は両手で受け取った。


「これは」


「霧笛の覚書や。常連さんの好み、仕入れの勘所、プリンの火加減、雨の日の椅子の拭き方、困った客への線の引き方。レシピより大事なことも書いてある」


玲奈はノートを抱えた。


「いただいていいんですか」


「もう、あんたのもんや」


女主人は少しだけ声を詰まらせた。


「玲奈ちゃん。あんたは最初、客を見張る目をしてた。でも今は、迎える目になってきた。大丈夫。南の島でも、ちゃんと店を作れる」


玲奈は何も言えなかった。


女主人が笑う。


「泣くんやったら今やで」


玲奈は首を振る。


「泣いていません」


「頑固やねえ」


玲奈は深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


その声は、少しだけ震えていた。


翌朝、玲奈は神戸を発った。


霧笛の女主人と常連たちが、店の前で見送った。

派手な見送りではない。

港町らしい、静かな別れだった。


玲奈は振り返る。

古い木の扉。

真鍮のランプ。

くすんだ看板。

何度も磨いたカウンターの向こうで、女主人が小さく手を振っていた。


神戸の霧笛は、もう遠くなる。


けれど、そこで学んだことは全部、玲奈の中に残っていた。


人を見抜くのではなく、迎えること。

沈黙を守ること。

迷いを受け止めること。

時には線を引くこと。

誰かの帰る場所を作ること。


飛行機が南へ向かう。

窓の外の海が、少しずつ青を深めていく。


南ぬ島・石垣。

そこにはまだ、亮介はいない。


それでも玲奈は、先に店を開く。


カフェしおかぜ。

帰ってくるか分からない男を待つために。

そして、自分自身がもう一度、普通の朝を始めるために。


石垣の空港に降り立った玲奈を、湿った南風が包んだ。


神戸の霧笛の匂いは、もうしない。

代わりに、海と太陽と、まだ始まっていない店の匂いがした。


玲奈は小さな荷物を持ち直し、前を向いた。


遅すぎた恋を待つ店が、ここから始まる。

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