神戸の霧笛は、南ぬ島の潮風へ
神戸の霧笛は、南ぬ島の潮風へ
純喫茶「霧笛」での玲奈の修行は、気づけば長いものになっていた。
最初の頃、玲奈は注文を取るだけで客を緊張させていた。
「ブレンド一点、霧笛プリン一点。以上で相違ありませんか」
そう確認するたび、常連客は背筋を伸ばし、まるで供述調書に署名する前のような顔になった。
笑顔の練習もした。
結果は散々だった。
女主人は玲奈の作り笑顔を見て、深いため息をついた。
「玲奈ちゃん、やめよ。あんたはべっぴんさんやけど、その笑顔は事件性がある」
それでも玲奈は、少しずつ霧笛の人になっていった。
コーヒーの湯温を覚えた。
豆の挽き方を覚えた。
ナポリタンの炒め具合、トーストの焼き色、常連客の好み、雨の日に傘立てを少し前へ出すこと、疲れた顔の客には余計な言葉より温かい一杯が効くこと。
そして何より、霧笛プリンを覚えた。
やや苦いカラメル。
固めのプリン。
甘いだけではない、神戸の古い喫茶店らしい味。
ある朝、女主人は玲奈の淹れたブレンドを一口飲み、静かに頷いた。
「玲奈ちゃん、もうええわ。接客以外は免許皆伝や」
玲奈は真顔で聞き返した。
「接客以外、ですか」
「そこは一生修行中でええ。あんたの注文取りは、南の島でもたぶん取り調べや」
カウンターの端で新聞を読んでいた常連が吹き出した。
玲奈は少しだけ不満げに眉を寄せたが、その表情も以前より柔らかかった。
いよいよ、南の島でカフェを開く時が来ていた。
物件探しは簡単ではなかった。
玲奈は、宅建資格を持つ高島里奈に相談した。
里奈は物件資料を広げ、冷静に言った。
「玲奈さん、海が見えるだけで決めたら駄目です。台風対策、水回り、家賃、駐車場、観光客導線、地元客の入りやすさ。全部見ます」
玲奈は静かに頷いた。
「任務より項目が多いわね」
「開業は長期戦です」
自治体のIターン制度、空き店舗活用補助、移住者向け相談窓口。
ヒロ室の人脈、行政とのつながり、南西諸島に詳しい協力者。
あらゆる道をたどり、いくつもの候補地を見た。
奄美、宮古、久米島、与論。
その中で、玲奈の胸に残ったのは石垣島だった。
南ぬ島・石垣。
強い日差し。
青い海。
どこか人懐っこい風。
市街地から少し離れた場所に、古い小さな建物があった。
かつて地元の人が軽食店を営んでいたという、潮風の通る物件。
大きくはない。
派手でもない。
けれど窓を開けると、遠くに海の色が見えた。
玲奈はその場に立ち、静かに思った。
ここなら待てる。
亮介が帰ってくる保証はない。
帰ってきたとしても、二人がうまくやれる保証もない。
過去は消えない。
罪も、傷も、失ったものも、都合よく美しい思い出にはならない。
それでも玲奈は、ここで店を開こうと思った。
朝、鍵を開ける。
コーヒーを淹れる。
黒糖プリンを冷やす。
客に頭を下げる。
夜、看板をしまう。
嘘をつかず、誰も騙さず、一日を終える。
そんな普通の生活を、いつか亮介とやってみたい。
店の名前は、すぐに決まった。
カフェしおかぜ。
神戸の霧笛で覚えたものを、南の潮風へつなぐ店だった。
そして、玲奈が霧笛を去る日が来た。
その夜、純喫茶「霧笛」は珍しく満席だった。
常連客たちが集まっていた。
玲奈を見に来た観光客ではない。
玲奈の不器用な接客を、コーヒーの味を、少しずつ柔らかくなっていく横顔を、ずっと見てきた人たちだった。
奥の席には、かつての仲間たちもいた。
あかり、麻衣、美音、美咲、迫田ツインズ、あおい、結月。
そして、腕を組んで不機嫌そうに見えて、実は誰よりも寂しそうな彩香。
波田顧問も競輪新聞を持って現れ、遥室長と隼人補佐官も顔を出した。
狭い霧笛は、いつもより賑やかで、それでいてどこか泣きそうな空気に包まれていた。
女主人は、玲奈に最後の霧笛プリンを出した。
「これで卒業や。接客以外は」
玲奈は皿を見つめる。
「最後まで除外なんですね」
「当たり前や。あんたの接客は、石垣でも名物になるわ」
店内に笑いが広がった。
けれどその笑いは、すぐに静かな寂しさへ変わった。
常連の老紳士は、いつものように二杯目のコーヒーを残した。
そして玲奈に言った。
「南の島でも、誰かの席をちゃんと空けておける店にしなさい」
過積載で取り締まられたことのある長距離ドライバーは、照れくさそうに帽子を取った。
「岡本さん、ご安全に。俺もちゃんと守って走るわ」
ジャズシンガーの律子は、赤いスカーフを揺らしながら笑った。
「南の島でも、無理に笑わないこと。でも本当に笑える時が来たら、惜しまず笑いなさい」
麻衣はもう泣いていた。
「玲奈さんの黒糖プリン、絶対食べに行きます」
あかりは鼻をすすりながら言う。
「私、石垣島まで迷わず行けるか分かりませんけど、絶対行きます」
彩香が即座に突っ込む。
「そこは調べてから行け」
美音は静かに言った。
「必要なら、海でも陸でも手伝います」
美咲は控えめに頭を下げた。
「玲奈さんのお店でも、静かに座れる席があると嬉しいです」
迫田ツインズは同時に笑った。
「私たち、今度こそ見分けてもらいに行きます」
あおいは背筋を伸ばして言った。
「空からではなく、客として伺います」
結月は軽く拳を握る。
「セカンドステージ、走り出しましたね」
彩香は最後まで黙っていた。
そして、玲奈の前に立った。
「玲奈さん」
「何?」
「南の島でも、情けない店にはせんといてください」
玲奈は少しだけ口元を緩めた。
「もちろん」
彩香は視線を落とす。
「……いつか行きます。客として」
「お待ちしています」
その言葉に、彩香は小さく頷いた。
納得しきった顔ではない。
けれど、もう引き止める顔でもなかった。
最後に、女主人が古い小さなノートを玲奈に渡した。
「持っていきなさい」
玲奈は両手で受け取った。
「これは」
「霧笛の覚書や。常連さんの好み、仕入れの勘所、プリンの火加減、雨の日の椅子の拭き方、困った客への線の引き方。レシピより大事なことも書いてある」
玲奈はノートを抱えた。
「いただいていいんですか」
「もう、あんたのもんや」
女主人は少しだけ声を詰まらせた。
「玲奈ちゃん。あんたは最初、客を見張る目をしてた。でも今は、迎える目になってきた。大丈夫。南の島でも、ちゃんと店を作れる」
玲奈は何も言えなかった。
女主人が笑う。
「泣くんやったら今やで」
玲奈は首を振る。
「泣いていません」
「頑固やねえ」
玲奈は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
その声は、少しだけ震えていた。
翌朝、玲奈は神戸を発った。
霧笛の女主人と常連たちが、店の前で見送った。
派手な見送りではない。
港町らしい、静かな別れだった。
玲奈は振り返る。
古い木の扉。
真鍮のランプ。
くすんだ看板。
何度も磨いたカウンターの向こうで、女主人が小さく手を振っていた。
神戸の霧笛は、もう遠くなる。
けれど、そこで学んだことは全部、玲奈の中に残っていた。
人を見抜くのではなく、迎えること。
沈黙を守ること。
迷いを受け止めること。
時には線を引くこと。
誰かの帰る場所を作ること。
飛行機が南へ向かう。
窓の外の海が、少しずつ青を深めていく。
南ぬ島・石垣。
そこにはまだ、亮介はいない。
それでも玲奈は、先に店を開く。
カフェしおかぜ。
帰ってくるか分からない男を待つために。
そして、自分自身がもう一度、普通の朝を始めるために。
石垣の空港に降り立った玲奈を、湿った南風が包んだ。
神戸の霧笛の匂いは、もうしない。
代わりに、海と太陽と、まだ始まっていない店の匂いがした。
玲奈は小さな荷物を持ち直し、前を向いた。
遅すぎた恋を待つ店が、ここから始まる。




