ヒロインは卒業できても、恋の答えはまだ出せない ――神戸OG会と、答えに詰まる元警部補と、島で待ちくたびれるウェイター
神戸市内の少し洒落たライブハウスは、夕方の街の灯りを受けて、いつもより華やいで見えた。
普段はジャズやアコースティックライブが行われるような、木目の濃いカウンターと低い照明の似合う場所である。客席には小さなテーブルが並び、グラスを片手にステージを楽しめる。派手なヒーローショーの会場ではない。けれど、この夜そこに集まった客たちは、少しだけ特別な熱を帯びていた。
入口の看板には、品よくこう書かれている。
戦隊ヒロインOG会 スペシャルトークステージ
スクリーンには、懐かしい写真がゆっくりと映し出されていた。若い頃の笑顔。イベント会場の控室。ステージ衣装。港で撮った集合写真。今ではもう表に出せないような任務の前後に撮られた、何気ない一枚もある。
岡本玲奈は、控室の鏡の前で静かに息を整えていた。
尼崎の美容室で、みうちゃん――宮良美海に整えてもらった髪は、派手すぎず、しかし普段のカフェ店主よりも少しだけ華やかだった。昔の戦隊ヒロインに戻るための髪ではない。南ぬ島でカフェを営む今の玲奈を、少しだけステージへ似合うように送り出してくれる髪だった。
「玲奈さん、準備よろしいですか?」
声をかけたのは三好さつきだった。
かつて女子アナ志望だった彼女は、今では本当に人気女子アナになっていた。立ち姿も、声の置き方も、笑顔の作り方も、すっかりプロである。昔はどこか一生懸命で、場の空気に少し緊張していたさつきが、今は全員の空気を整える側に立っている。
玲奈は穏やかに頷いた。
「はい。お願いします」
そこで自然に、少しだけ神戸の響きが混じる。
「久しぶりやから、少し緊張しますね」
さつきが微笑む。
「玲奈さんでも緊張されるんですね」
「しますよ」
「少し安心しました」
「安心するところでしょうか」
そんな会話をしている横から、賑やかな声が飛んできた。
「玲奈さぁん! 緊張してるん? 大丈夫やって、玲奈さんが出たら会場ぜったい沸くから!」
赤嶺美月である。
大学時代のトレードマークだったツインテールは、もうない。今は大手ガス会社の広報部員らしい、落ち着いた社会人風の髪型。服装もきちんとしていて、黙っていれば仕事のできる若手OLに見える。
ただし、黙っていれば、である。
すぐ横で西川彩香が呆れたように言った。
「美月、お前が一番うるさいんや。開演前から会場より騒いどるやろ」
「なんやねん彩香! うちは場を明るくしとるんや!」
「明るい通り越して、やかましいんや!」
「警察官になってから口うるさなったんちゃう?」
「お前が社会人になっても落ち着かんだけやろが!」
玲奈はそのやり取りを見て、小さく笑った。
「お二人とも、変わりませんね」
美月と彩香は同時に振り返る。
「玲奈さん!」
声まで揃う。
社会人になった二人が、顔を合わせれば一瞬で昔の子供じみた喧嘩に戻る。その光景は、不思議なほど懐かしかった。
やがて開演時間となり、さつきがステージへ出る。
「皆さま、本日は戦隊ヒロインOG会スペシャルトークステージへお越しいただき、ありがとうございます」
落ち着いた声がライブハウスに響く。
客席から温かな拍手が起こった。
「本日は、かつて戦隊ヒロインとして活躍した皆さんにお集まりいただきました。懐かしいお話はもちろん、現在どんな人生を歩んでいるのか、楽しく、時には少し真面目に伺ってまいります」
拍手の中、ヒロインたちが一人ずつ紹介される。
玲奈、美月、彩香、麻衣、あかり、美咲、迫田ツインズ、結月。
客席には、往年のファンたちの顔がある。懐かしそうに頷く人。スマートフォンを構える人。少し涙ぐんでいる人もいた。
まずは近況報告から始まった。
美月は大手ガス会社の広報部員として活躍中。ガスの安全な利用や適切な換気、省エネ啓発のイベントに出ているうち、いつの間にか本人をモデルにした企業キャラクターまで生まれた。
「ガスの妖精、エネミズキです!」
スクリーンに、羽のついた明るい妖精キャラクターが映る。
会場から笑いと拍手が起こった。
美月は得意げに胸を張る。
「関西ではけっこう有名なんやで! ノベルティもあるし、ステッカーもあるし、なんと玲奈さんの『しおかぜ』にも置いてもろてるんや!」
さつきが驚いたように玲奈へ振る。
「玲奈さん、本当ですか?」
玲奈は少し困った顔でマイクを持つ。
「はい。以前、美月さんが南ぬ島へ来られた時に置いていかれたものを、カウンター横に飾っています」
美月が満面の笑みになる。
「ほら! エネミズキ、南ぬ島進出や!」
彩香が即座に突っ込む。
「勝手に営業区域広げんなや。ステッカー一枚置いてるだけやろ」
「一歩目が大事なんや!」
「会社に確認してから言え!」
「夢ないなぁ!」
「お前が自由すぎるんや!」
会場は爆笑。
さつきは上品に笑いながら、
「このお二人の掛け合いも、当時からの名物でございます」
とまとめた。
彩香の近況になると、空気が少し引き締まった。
彼女は大学卒業後、玲奈への憧れを胸に兵庫県警へ入った。今は警察官として現場に立ち、さらにその端正な容姿から犯罪抑止や交通安全、採用広報のポスターにも起用されている。かつて玲奈がそう呼ばれたように、彩香もまた「美人すぎる警察官」と話題になることがある。
彩香は少し照れながらも、まっすぐ話した。
「自分がポスターに出ることで、事故や犯罪が一件でも減るんやったら、それは意味があると思っています」
玲奈は静かに聞いていた。
昔、自分も同じような気持ちで広報に協力していたことがある。あの頃、自分の背中を追いかけていた彩香が、今では同じ場所に立っている。
玲奈はマイクを持ち、
「彩香さんらしいですね」
とだけ言った。
彩香の表情が、ほんの少し崩れる。
警察官として堂々としていた彼女が、その一言だけで昔の後輩に戻ってしまう。
美月はすぐ見逃さない。
「彩香、今泣きそうやろ」
「泣いとらへんわ!」
「目ぇ潤んどるやん」
「美月、ほんま黙っとれ!」
「玲奈さんに褒められたらすぐこれや」
「ガスの妖精に言われとうないわ!」
客席からまた笑いが起きる。
麻衣は、念願だった幼稚園教諭になったことを報告した。後輩指導に力を注いだ経験は、今の仕事にも生きているという。
「毎日、子どもら元気で大変やさけ。でも、楽しいで」
柔らかな紀州弁に、会場が和む。
玲奈が微笑んで聞く。
「戦隊ヒロインの新人と、園児ではどちらが大変ですか?」
麻衣は真剣に考えた。
「園児やなぁ」
少し離れた席であかりが嫌な予感の顔をする。
玲奈がさらに尋ねる。
「あかりさんより?」
麻衣はもう一度、真面目に考えた。
「……同じくらいやな」
あかりが叫ぶ。
「なんでうちが比較対象なん?」
会場は笑いに包まれた。
そして、そのあかりの番になる。
さつきが穏やかに進行する。
「あかりさんは、現在も戦隊ヒロインとして第一線で活動されています。そして大学にも在学中とのことですが」
「そうやに」
「現在、何年生でいらっしゃいますか?」
あかりは黙った。
美月が余計な声を出す。
「八年目やろ」
「言うなや!」
彩香も遠慮がない。
「大学八年生て、もう校舎の一部みたいなもんやろ」
「なっとらんわ!」
さつきは人気女子アナらしい品のよい声で、さらりと言う。
「本日の出演者の中で、唯一、まだ“卒業”という言葉と真正面から戦っている方です」
あかりが必死に反論する。
「戦隊ヒロインは現役やからええんやに!」
彩香がすかさず、
「大学の話しとんねん!」
あかりは真顔で言った。
「任務より単位のほうが厳しいんやに。敵は倒せるけど、必修は倒せやん」
会場はこの日一番の爆笑に包まれた。
美咲は奈良県庁職員として働いている。
「任務の敵は動いてくれましたけど、書類は動いてくれへんのに締切だけ近づいてきます」
穏やかな大和弁のぼやきに、客席はまた笑った。
迫田ツインズは完全に戦隊ヒロインを卒業し、今は一人が東京、一人が大阪でそれぞれ会社員として暮らしている。離れていても連絡は頻繁で、二人で並ぶとステージが一気に華やぐ。
結月は岸和田でスポーツインストラクターを続けている。基本的には第一線から退いているが、今も人手不足のイベントや急な穴埋めには呼ばれるらしい。
「困っとる言われたら、なんや行ってまうんよ。讃岐の血ぇなんか泉州の情なんか、自分でも分からへんけどな」
会場は笑い、そして拍手した。
トークはやがて、今だから話せるイベントステージの裏話へ移る。
出番前に衣装の部品が外れた話。
美月が本番直前に菓子を食べすぎ、彩香に本気で怒られた話。
彩香が玲奈に何度も叱られた話。
麻衣が新人時代、緊張しすぎて立ち位置を間違えた話。
結月が急遽呼ばれ、台本を読まないままステージへ出た話。
迫田ツインズが華やかすぎて、客席の視線を全部持っていってしまった話。
そして、表には出なかった危険な任務の裏話にも、言える範囲で触れられた。
具体的な組織名は出さない。
詳細も伏せる。
けれど、あの頃の緊張感、失敗、判断、仲間同士の支え合いは、言葉の端々から伝わってくる。
ただ、その話題になると、美月とさつきだけが微妙に置いていかれる。
美月が不満そうに声を上げた。
「ちょっと待って。うち、その話知らんねんけど!」
司会のさつきも苦笑する。
「実は私も、今かなり聞き役です」
彩香がさらりと言う。
「そら正式メンバーちゃうかったんやから知らんやろ」
「なんやその仲間外れみたいな言い方!」
「事実や!」
「うちかて神戸球場で魂届けとったんや!」
「お前、野球応援しとっただけやろ!」
「応援も大事な任務や!」
「勝手に任務にすな!」
また始まる。
往年のファンは大喜びだった。
さつきは司会席で笑いをこらえながら、
「このあたりの温度差も、今だからこそ楽しめる裏話でございます」
と見事にまとめる。
そして、玲奈の近況紹介へ移った。
スクリーンに、南ぬ島の「しおかぜ」が映る。
青い海。
白いカーテン。
木製のカウンター。
黒糖プリン。
家庭菜園。
窓際の二人掛けソファ。
客席から、少し違う種類のため息が漏れた。
さつきが穏やかに紹介する。
「岡本玲奈さんは現在、南ぬ島で『島カフェ しおかぜ』を経営されています」
玲奈はマイクを持つ。
「警察官も、戦隊ヒロインも卒業して、今は毎日コーヒーを淹れて、黒糖プリンを作っています」
声は静かだった。
けれど、客席は自然と聞き入った。
「遠い場所ですが、昔の仲間が訪ねてきてくださることもあります。それが、とても嬉しいです。戦隊ヒロインを離れても、こうしてつながっていられるのだと感じています」
玲奈らしい、飾らない言葉だった。
昔のように凛としている。
でも、どこか柔らかい。
会場が温かな拍手に包まれる。
そこで、美月が余計な一言を投げた。
「玲奈さん、しおかぜに男の人おるやろ?」
玲奈の動きが止まった。
「……ウェイターです」
彩香がすぐ続く。
「亮介さん、でしたっけ」
玲奈はほんの少しだけ視線を落とす。
「はい」
会場の空気が変わる。
ざわつくというより、にこにこと見守るような空気。
さつきは女子アナとしての勘を発揮する。
「これは、もう少し伺ってもよろしい話題でしょうか?」
玲奈は沈黙した。
そして、みうちゃんに整えてもらった髪へ、無意識に指先を触れさせる。
「……できれば、別の話題で」
その瞬間、客席から笑いと拍手が起こった。
いつもクールで、どんな場面でも落ち着いていた玲奈が、亮介の名前だけで少し頬を赤くし、俯いてしまう。
それがあまりにも意外で、そして可愛らしかった。
美月が嬉しそうに声を弾ませる。
「南ぬ島の昼ドラや!」
玲奈はすぐ顔を上げる。
「昼ドラではありません」
だがその声も、少しだけ弱い。
彩香が笑う。
「玲奈さんがここまで黙るん、珍しいですね」
「……次の質問へ」
さつきが上品に微笑む。
「では、この話題はまた別の機会にいたしましょう」
客席はさらに温かい笑いに包まれた。
戦隊ヒロインOG会は、懐かしさと賑やかさ、そして大人になった彼女たちの今を見せて、穏やかに幕を閉じた。
イベント終了後、場所を神戸市内の落ち着いたバーへ移して、今度はヒロインたちだけの本当のOG会が始まった。
客もいない。
カメラもない。
ステージ用のきれいな言葉もいらない。
グラスを合わせれば、すぐに昔の空気へ戻る。
玲奈は隣に座ったあかりへ、静かに言った。
「あかりさん」
「何やに?」
「大学は、きちんと卒業してくださいね」
あかりは目をそらす。
「分かっとるに」
「ご両親も心配されているでしょう」
「分かっとるって」
「素敵なご両親なのですから、あまり心配をかけないように」
あかりの声が少し小さくなる。
「……分かっとるに」
玲奈はそれ以上言わなかった。
叱るというより、心配している。
そのことは、あかりにも伝わっていた。
だが、今度は玲奈が逃げられない番だった。
彩香がグラスを置き、少し真面目な顔で尋ねる。
「玲奈さん」
「はい」
「亮介さんとは、ほんまに何もないんですか?」
玲奈はいつもの答えを出す。
「ウェイターとして店を手伝ってもらっています」
「それだけですか?」
「……はい」
彩香は、少しだけ声を落とした。
「自分の手で捕まえた詐欺師やった人の借金まで肩代わりして、南ぬ島に居場所まで作っている玲奈さんは、凄いと思うんです」
玲奈は黙った。
「警察官としてとか、元ヒロインとしてとかやなくて……玲奈さんやからできたんやろなって」
その言葉は、玲奈の胸に静かに入った。
亮介を助けた理由。
居場所を作った理由。
毎朝、一緒に店を開ける理由。
それを言葉にしようとすると、自分でもまだ名前を付けきれていない気持ちに触れてしまう。
「……いろいろ事情がありましたから」
そう言うのが、精一杯だった。
そこへ、美月が何の遠慮もなく突っ込んできた。
「ほな入籍はいつなん?」
玲奈が完全に固まる。
「……はい?」
「披露宴は絶対呼んでや! 南ぬ島でやってほしいわ。海見えるとこで、黒糖プリンのウェディングケーキとかええやん!」
「美月さん」
「子供は? 玲奈さんやったら絶対しっかりしたお母さんになるやろし、亮介さんは――」
「こら、アホ元ツインテール!」
彩香がついに止めた。
美月が振り向く。
「今はツインテールやないわ!」
「玲奈さん困っとるやないか! ええ加減にせえ!」
「うるさいわ、このオバン!」
彩香の眉が動く。
「……誰がオバンや」
「彩香や!」
「同年代やろが!」
「警察官になってから貫禄出すぎやねん!」
「お前は社会人になっても頭ん中学生のままや!」
「なんやと!」
ここから、また小学生のような喧嘩が始まった。
彩香がエネミズキに噛みつく。
「だいたい何やねん、エネミズキって。お前に羽ぇ付けただけやないか」
「関西で人気やっちゅうねん!」
「ガス漏れより先に、お前の口止めるキャラ作ってもらえ!」
「ほなそっちは何やねん、“美人すぎる警察官”って!」
「私が言い出したんちゃうわ!」
「あんな怖い顔した警察官がポスターで睨んどったら、そら犯罪減るわ!」
「誰が怖い顔や!」
「犯罪者も見た瞬間に『すみませんでした』言うて自首するで!」
「エネミズキなんか、ガスより先に客が逃げるわ!」
「言うたな!」
「言うたわ!」
迫田ツインズはグラスを傾けながら、
「始まったね」
「昔と一緒」
と笑っている。
麻衣は紀州弁で、
「もう放っとこら。止めても無駄やさけ」
あかりは三重弁で、
「そのうち疲れて止まるに」
美咲は大和弁で、
「昔から、これだけは変わりませんなぁ」
結月は讃岐と泉州が混じった調子で、
「うちら飲も飲も。相手したら長なるで」
さつきは人気女子アナなのに、
「ここは司会進行を放棄いたします」
と上品に宣言する。
玲奈ですら、
「そうしましょう」
と止めない。
社会人になった元ヒロインたちが、美月と彩香の喧嘩を肴に普通に飲み続ける。
それは、あまりにも昔のままだった。
その喧騒の中で、玲奈はふとスマートフォンを見る。
亮介から連絡はない。
「……ちゃんとしているでしょうか」
麻衣がすぐに反応する。
「亮介さん?」
玲奈はわずかに遅れて答える。
「店です」
あかりが笑う。
「今、亮介さんって言われてから店って言うたに」
「同じ場所ですから」
迫田ツインズが面白そうに顔を寄せる。
「ペットの留守番みたい」
「ペットではありません」
美咲が穏やかに笑う。
「でも、だいぶ心配してはりますね」
「家庭菜園の水やりと、戸締まりと、黒糖プリンが心配なだけです」
結月が笑う。
「全部、亮介さんがやることやん」
玲奈はまた黙る。
その黙り方が、答えのようになってしまう。
美月が喧嘩を中断して戻ってくる。
「やっぱり結婚や!」
彩香が即座に、
「お前は黙っとれ!」
と喧嘩を再開させた。
玲奈はため息をつきながらも、少しだけ笑っていた。
一方その頃、南ぬ島。
亮介は本当に暇を持て余していた。
玲奈から渡された留守番リストは、すでに終わっている。
家庭菜園の水やり。
店内の換気。
床掃除。
冷蔵庫確認。
黒糖プリンの無事。
すべて問題なし。
問題がないことが、問題だった。
「暇だな……」
仕方なく島をぶらぶら歩く。
すると常連のおじいとおばあに捕まる。
「リョウちゃん、今日も寂しそうさぁ」
「寂しくないですよ」
「玲奈ちゃん、いつ帰る?」
「明日です」
近所の小学生たちまで走ってくる。
「リョウちゃーん!」
「何だ?」
「玲奈ちゃんいないと寂しそうさー!」
亮介が固まる。
「誰が教えた、その言葉」
「おばあ!」
「島ぐるみか!」
別の子が尋ねる。
「玲奈ちゃん、あと何時間で帰ってくるの?」
亮介は思わず腕時計を見る。
「ええと……」
そこで止まる。
小学生たちが一斉に笑う。
「数えてるー!」
「違う! 店の再開準備のためだ!」
「ほんとは早く帰ってきてほしいんでしょー」
「違います!」
柵の向こうで、近所のヤギが鳴いた。
「メェェ」
亮介が振り向く。
「お前まで笑ったな?」
ヤギはもう一度、
「メェェ」
と鳴いた。
子供たちは大喜びである。
「ヤギもリョウちゃん笑ってる!」
「笑ってない! 鳴いただけ!」
おばあが楽しそうに言う。
「ヤギにも分かるさぁ」
「分かられてたまるか!」
亮介は完全に島の娯楽になっていた。
ようやく一人になったあと、彼は本当に指を折った。
今日が終わって。
明日の飛行機で。
南ぬ島空港へ着いて。
そこから店へ戻るまで。
あと何時間。
「……店のためだ」
誰も聞いていないのに言い訳する。
「店主がいないと再開準備があるからな」
そして、ほんの小さな声で漏らす。
「早く帰ってこないかなぁ」
柵の向こうでヤギがまた、
「メェ」
亮介はヤギを見る。
「今のは聞かなかったことにしろ」
ヤギは草を食べていた。
南ぬ島は平和だった。
平和すぎて、亮介の寂しさだけが目立っていた。
夜。
神戸のバーを出た玲奈は、街の灯りの中でスマートフォンを開いた。
少し迷ってから、亮介へ送る。
イベントは無事終わりました。明日、南ぬ島へ戻ります。
すぐ既読がついた。
了解です。こっちは全部無事です。
玲奈はもう一文送る。
長い留守番をありがとうございました。
すぐに返ってくる。
長かったですね。
玲奈は小さく笑う。
数日ですよ。
亮介。
長かったです。
その一文に、玲奈は神戸の夜道で立ち止まった。
昔の仲間に会えた。
懐かしい話をした。
笑った。
神戸はやはり、自分にとって大切な故郷だった。
それでも今、自分を待っている人は南ぬ島にいる。
玲奈は少しだけ頬を緩める。
では、明日。
亮介からすぐ返る。
はい。待ってます。
その言葉を見て、玲奈はしばらく画面を見つめていた。
ヒロインは卒業できた。
警察官も卒業した。
故郷へ帰り、昔の仲間と笑うこともできた。
けれど、亮介との関係だけは、まだ答えが出ない。
店主とウェイター。
それは間違いではない。
でも、もうそれだけでもない。
玲奈はスマートフォンを閉じ、神戸の夜風の中を歩き出した。
恋の答えは、黒糖プリンよりずっと手がかかる。
明日。
彼女はもう一つの帰る場所へ戻る。
そして南ぬ島ではきっと、待ちくたびれたウェイターが、少し大げさな笑顔でこう言うのだ。
「おかえりなさい、玲奈さん」




