霧笛の女主人、港町で啖呵を切る――美人ウェイトレスを守った午後
純喫茶「霧笛」は、少しずつ有名になっていた。
神戸港近くの古い路地にある、こじんまりとした店。磨き込まれた木のカウンター、真鍮のランプ、壁に飾られた昔の港の写真。深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルが効いた霧笛プリン。
そして、白いブラウスに黒いエプロンを着けた、美人すぎるウェイトレス。
岡本玲奈。
元警察官。元戦隊ヒロイン。
冷徹なる美貌のボスと呼ばれた女は、今では純喫茶「霧笛」のカウンターでコーヒーを淹れ、注文を取り、客の水を足していた。
もっとも、その注文取りはまだ少し問題があった。
「ご注文を確認します。ブレンド一点、霧笛プリン一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」
客は背筋を伸ばし、思わず答える。
「相違ありません」
カウンター奥の女主人は、毎回のように苦笑した。
「玲奈ちゃん、それ注文やのうて供述確認や」
「確認は重要です」
「重要やけど、喫茶店でそこまで詰めんでもええ」
玲奈は真面目に頷く。
だが、その生真面目さも、いつしか霧笛の名物になっていた。
SNSには、こんな投稿が流れた。
神戸港近くの純喫茶・霧笛。
プリンが絶品。
元警察官で元戦隊ヒロインの美人ウェイトレスさんがいる。
接客は丁寧だけど、ちょっと取り調べ感あり。
それを見た若い客が来る。
昔の県警ポスターで玲奈を知っていた客も来る。
戦隊ヒロイン時代の姿を覚えている客も来る。
常連客たちは面白がった。
「玲奈ちゃん、看板娘やな」
「看板娘というより、看板警備員やけどな」
玲奈は無表情で返す。
「現在は接客担当です」
「その言い方が硬いんよ」
だが、有名になるということは、よい客だけが増えるという意味ではなかった。
最初に違和感を覚えたのは、平日の午後だった。
中年の男が一人で入ってきた。店の雰囲気を見るでもなく、メニューを見るでもなく、最初から玲奈だけを見ていた。
玲奈は水を置く。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
男はにやにやと笑った。
「元警察官なんやって? ほんまに取り締まってくれるん?」
玲奈は表情を変えない。
「現在は純喫茶霧笛の従業員です。ご注文をどうぞ」
「固いなあ。そういうとこがええんやろうけど。彼氏おるん? 何で警察辞めたん?」
カウンターの奥で、女主人の手が止まった。
玲奈は伝票を持ったまま、静かに答える。
「私的な質問にはお答えできません。ご注文をお願いします」
普通ならそこで引く。
だが男は、玲奈の冷たい反応を面白がるように、さらに身を乗り出した。
「そんな怖い顔せんでもええやん。綺麗な顔してるんやから、もっと愛想よくしたら?」
玲奈は一瞬、言葉を失った。
警察官時代なら簡単だった。
線を越えた相手には、法と権限で対応できた。
必要なら毅然と制止し、記録し、警告すればいい。
だが今の玲奈は、霧笛で修行中のウェイトレスだった。
この店は女主人の店だ。
玲奈が強く出れば、店の空気が壊れる。
女主人に迷惑がかかる。
真面目な玲奈は、そこを考えすぎてしまった。
「ご注文がないようでしたら、決まり次第お声がけください」
そう言って下がるのが精一杯だった。
それから似たような客が、何人か現れた。
無断で写真を撮ろうとする客。
玲奈の経歴をしつこく聞く客。
プライベートを探ろうとする客。
中には、下品な言葉を投げてくる者もいた。
玲奈はそのたびに、冷静に、丁寧に、線を引こうとした。
「撮影は許可制です」
「私的な質問にはお答えできません」
「他のお客様のご迷惑になります」
だが、丁寧な言葉だけでは通じない相手もいる。
玲奈はそれを知っていたはずだった。
それなのに、自分のことになると、どうにも処理が遅れる。
ある夕方、とうとう女主人が動いた。
その男は、玲奈に向かってひどく卑しい言葉を投げた。
店内の空気が凍る。
常連客が新聞を下ろす。
カップを持つ手が止まる。
玲奈の目は鋭くなった。
けれど、彼女はまだ言葉を選ぼうとしていた。
客として扱うべきか。
迷惑行為として排除すべきか。
女主人の店に傷をつけないためには、どこまで許すべきか。
その一瞬の迷いを、女主人は見逃さなかった。
カウンターの奥から、静かに出てくる。
普段は穏やかで、少し皮肉屋で、玲奈をからかいながら見守る女主人。
その顔が、見たこともないほど厳しくなっていた。
「あんた、今すぐ出ていきなさい」
男が笑ってごまかそうとする。
「いや、冗談やん。客に向かって何や、その言い方」
女主人は一歩も引かなかった。
「ここは喫茶店や。うちの子を品定めする場所やない。コーヒー飲みに来たんやったら座りなさい。女の子を困らせに来たんやったら帰りなさい」
男の顔から笑みが消える。
「何やねん、金払う客やぞ」
女主人の声が、さらに低くなる。
「金払ったら何言うてもええと思ってる客は、うちにはいらん」
店内が静まり返った。
女主人は続ける。
「玲奈ちゃんはな、うちで修行しとる大事な子や。元警察官やとか、元戦隊ヒロインやとか、そんなことは関係あらへん。今は、うちの店で働いてる子や。あんたみたいなんに、好き勝手言われる筋合いはない」
常連客の一人が、静かに新聞を畳んだ。
別の客が、カップを置いて男を見た。
何も言わない。
けれど店内の空気は、完全に男の居場所を失わせていた。
男は舌打ちし、椅子を乱暴に引いた。
「感じ悪い店やな」
女主人は即答した。
「感じ悪くて結構。二度と来んでええ」
扉のベルが乱暴に鳴る。
男は逃げるように出ていった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
玲奈は、カウンターの前で立ったままだった。
冷静沈着な彼女ですら、女主人の変貌ぶりに驚いていた。
女主人は深く息を吐き、いつもの顔に少しずつ戻った。
そして玲奈に言う。
「玲奈ちゃん、ああいうのは我慢したらあかん」
玲奈は静かに目を伏せる。
「店に迷惑をかけるわけにはいかないと思いました」
「逆や」
女主人ははっきり言った。
「我慢してああいう客を残す方が、店に迷惑なんよ。店を守るいうんは、売上を守ることやない。ここで働く人と、ここで静かに過ごしたい客を守ることや」
その言葉は、玲奈の胸にまっすぐ入った。
警察官としてなら、危険を排除することを知っていた。
戦隊ヒロインとしてなら、仲間を守るために動けた。
だが、自分自身を守ること。
自分が働く場所の品を守ること。
それを、玲奈はまだ学んでいなかった。
「ありがとうございます」
玲奈は深く頭を下げた。
女主人は少し照れたように鼻を鳴らす。
「あんた、顔は女優みたいやのに、そういうところ不器用やねえ。警察官やったのに、自分のことになると全然守れへん」
「……返す言葉がありません」
「珍しい。玲奈ちゃんが負けを認めた」
常連客たちが小さく笑った。
霧笛の空気が、少しずつ戻っていく。
翌日、店先に小さな貼り紙が出た。
店内での無断撮影・動画配信はご遠慮ください。
従業員への私的質問、迷惑行為はお断りします。
静かにコーヒーとプリンをお楽しみください。
文面の原案は玲奈だった。
最初はもっと硬かった。
迷惑行為発生時は即時退店を求め、必要に応じて関係機関へ通報します。
女主人が赤ペンを入れた。
「喫茶店の貼り紙や。警察署の掲示板やない」
常連客は笑った。
「玲奈ちゃん監修やろ、これ」
「必要な掲示です」
「最後だけ柔らかいの、女将さんの手直しやな」
玲奈は否定しなかった。
その夜、閉店後の霧笛で、玲奈は女主人のためにコーヒーを淹れた。
いつもより少し丁寧に、湯の落とし方を整える。
カップを女主人の前に置き、静かに言った。
「今日のお礼です」
女主人はひと口飲んで、ふっと笑った。
「ええ味や。ちょっと強いけど」
「まだ修行中です」
「うん。でも、前より優しい味になってる」
玲奈は何も言わなかった。
ただ、カップを磨く手つきが少しだけ柔らかくなった。
霧笛の灯りは、神戸港近くの路地に静かにともっていた。
美人すぎるウェイトレスの噂は、これからも続くだろう。
変な客も、また来るかもしれない。
それでも、この店には女主人がいる。
本気で玲奈を守ってくれる人がいる。
そのことが、玲奈には少し眩しかった。
いつか南の島で、自分の店を持つ時。
自分もまた、誰かを守れる店主でなければならない。
コーヒーを淹れるだけでは足りない。
場所を守る覚悟がなければ、店は店にならない。
苦いカラメルの香りが、閉店後の霧笛に残っていた。
甘いだけではない。
けれど、最後には少しだけ温かい。
それが、この店の味だった。




