表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風カフェに遅すぎた恋が来る  作者: スパイク
第一章 霧笛のカウンターで、女は待つことを覚える

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/60

霧笛の女主人、港町で啖呵を切る――美人ウェイトレスを守った午後

純喫茶「霧笛」は、少しずつ有名になっていた。


神戸港近くの古い路地にある、こじんまりとした店。磨き込まれた木のカウンター、真鍮のランプ、壁に飾られた昔の港の写真。深煎りのコーヒーと、やや苦いカラメルが効いた霧笛プリン。


そして、白いブラウスに黒いエプロンを着けた、美人すぎるウェイトレス。


岡本玲奈。


元警察官。元戦隊ヒロイン。

冷徹なる美貌のボスと呼ばれた女は、今では純喫茶「霧笛」のカウンターでコーヒーを淹れ、注文を取り、客の水を足していた。


もっとも、その注文取りはまだ少し問題があった。


「ご注文を確認します。ブレンド一点、霧笛プリン一点。食後の追加注文は現時点では不要。以上で相違ありませんか」


客は背筋を伸ばし、思わず答える。


「相違ありません」


カウンター奥の女主人は、毎回のように苦笑した。


「玲奈ちゃん、それ注文やのうて供述確認や」


「確認は重要です」


「重要やけど、喫茶店でそこまで詰めんでもええ」


玲奈は真面目に頷く。

だが、その生真面目さも、いつしか霧笛の名物になっていた。


SNSには、こんな投稿が流れた。


神戸港近くの純喫茶・霧笛。

プリンが絶品。

元警察官で元戦隊ヒロインの美人ウェイトレスさんがいる。

接客は丁寧だけど、ちょっと取り調べ感あり。


それを見た若い客が来る。

昔の県警ポスターで玲奈を知っていた客も来る。

戦隊ヒロイン時代の姿を覚えている客も来る。

常連客たちは面白がった。


「玲奈ちゃん、看板娘やな」


「看板娘というより、看板警備員やけどな」


玲奈は無表情で返す。


「現在は接客担当です」


「その言い方が硬いんよ」


だが、有名になるということは、よい客だけが増えるという意味ではなかった。


最初に違和感を覚えたのは、平日の午後だった。

中年の男が一人で入ってきた。店の雰囲気を見るでもなく、メニューを見るでもなく、最初から玲奈だけを見ていた。


玲奈は水を置く。


「いらっしゃいませ。ご注文は」


男はにやにやと笑った。


「元警察官なんやって? ほんまに取り締まってくれるん?」


玲奈は表情を変えない。


「現在は純喫茶霧笛の従業員です。ご注文をどうぞ」


「固いなあ。そういうとこがええんやろうけど。彼氏おるん? 何で警察辞めたん?」


カウンターの奥で、女主人の手が止まった。


玲奈は伝票を持ったまま、静かに答える。


「私的な質問にはお答えできません。ご注文をお願いします」


普通ならそこで引く。

だが男は、玲奈の冷たい反応を面白がるように、さらに身を乗り出した。


「そんな怖い顔せんでもええやん。綺麗な顔してるんやから、もっと愛想よくしたら?」


玲奈は一瞬、言葉を失った。


警察官時代なら簡単だった。

線を越えた相手には、法と権限で対応できた。

必要なら毅然と制止し、記録し、警告すればいい。


だが今の玲奈は、霧笛で修行中のウェイトレスだった。

この店は女主人の店だ。

玲奈が強く出れば、店の空気が壊れる。

女主人に迷惑がかかる。

真面目な玲奈は、そこを考えすぎてしまった。


「ご注文がないようでしたら、決まり次第お声がけください」


そう言って下がるのが精一杯だった。


それから似たような客が、何人か現れた。

無断で写真を撮ろうとする客。

玲奈の経歴をしつこく聞く客。

プライベートを探ろうとする客。

中には、下品な言葉を投げてくる者もいた。


玲奈はそのたびに、冷静に、丁寧に、線を引こうとした。


「撮影は許可制です」


「私的な質問にはお答えできません」


「他のお客様のご迷惑になります」


だが、丁寧な言葉だけでは通じない相手もいる。

玲奈はそれを知っていたはずだった。

それなのに、自分のことになると、どうにも処理が遅れる。


ある夕方、とうとう女主人が動いた。


その男は、玲奈に向かってひどく卑しい言葉を投げた。

店内の空気が凍る。

常連客が新聞を下ろす。

カップを持つ手が止まる。


玲奈の目は鋭くなった。

けれど、彼女はまだ言葉を選ぼうとしていた。

客として扱うべきか。

迷惑行為として排除すべきか。

女主人の店に傷をつけないためには、どこまで許すべきか。


その一瞬の迷いを、女主人は見逃さなかった。


カウンターの奥から、静かに出てくる。


普段は穏やかで、少し皮肉屋で、玲奈をからかいながら見守る女主人。

その顔が、見たこともないほど厳しくなっていた。


「あんた、今すぐ出ていきなさい」


男が笑ってごまかそうとする。


「いや、冗談やん。客に向かって何や、その言い方」


女主人は一歩も引かなかった。


「ここは喫茶店や。うちの子を品定めする場所やない。コーヒー飲みに来たんやったら座りなさい。女の子を困らせに来たんやったら帰りなさい」


男の顔から笑みが消える。


「何やねん、金払う客やぞ」


女主人の声が、さらに低くなる。


「金払ったら何言うてもええと思ってる客は、うちにはいらん」


店内が静まり返った。


女主人は続ける。


「玲奈ちゃんはな、うちで修行しとる大事な子や。元警察官やとか、元戦隊ヒロインやとか、そんなことは関係あらへん。今は、うちの店で働いてる子や。あんたみたいなんに、好き勝手言われる筋合いはない」


常連客の一人が、静かに新聞を畳んだ。

別の客が、カップを置いて男を見た。

何も言わない。

けれど店内の空気は、完全に男の居場所を失わせていた。


男は舌打ちし、椅子を乱暴に引いた。


「感じ悪い店やな」


女主人は即答した。


「感じ悪くて結構。二度と来んでええ」


扉のベルが乱暴に鳴る。

男は逃げるように出ていった。


しばらく、誰も声を出さなかった。


玲奈は、カウンターの前で立ったままだった。

冷静沈着な彼女ですら、女主人の変貌ぶりに驚いていた。


女主人は深く息を吐き、いつもの顔に少しずつ戻った。

そして玲奈に言う。


「玲奈ちゃん、ああいうのは我慢したらあかん」


玲奈は静かに目を伏せる。


「店に迷惑をかけるわけにはいかないと思いました」


「逆や」


女主人ははっきり言った。


「我慢してああいう客を残す方が、店に迷惑なんよ。店を守るいうんは、売上を守ることやない。ここで働く人と、ここで静かに過ごしたい客を守ることや」


その言葉は、玲奈の胸にまっすぐ入った。


警察官としてなら、危険を排除することを知っていた。

戦隊ヒロインとしてなら、仲間を守るために動けた。

だが、自分自身を守ること。

自分が働く場所の品を守ること。

それを、玲奈はまだ学んでいなかった。


「ありがとうございます」


玲奈は深く頭を下げた。


女主人は少し照れたように鼻を鳴らす。


「あんた、顔は女優みたいやのに、そういうところ不器用やねえ。警察官やったのに、自分のことになると全然守れへん」


「……返す言葉がありません」


「珍しい。玲奈ちゃんが負けを認めた」


常連客たちが小さく笑った。

霧笛の空気が、少しずつ戻っていく。


翌日、店先に小さな貼り紙が出た。


店内での無断撮影・動画配信はご遠慮ください。

従業員への私的質問、迷惑行為はお断りします。

静かにコーヒーとプリンをお楽しみください。


文面の原案は玲奈だった。

最初はもっと硬かった。


迷惑行為発生時は即時退店を求め、必要に応じて関係機関へ通報します。


女主人が赤ペンを入れた。


「喫茶店の貼り紙や。警察署の掲示板やない」


常連客は笑った。


「玲奈ちゃん監修やろ、これ」


「必要な掲示です」


「最後だけ柔らかいの、女将さんの手直しやな」


玲奈は否定しなかった。


その夜、閉店後の霧笛で、玲奈は女主人のためにコーヒーを淹れた。

いつもより少し丁寧に、湯の落とし方を整える。

カップを女主人の前に置き、静かに言った。


「今日のお礼です」


女主人はひと口飲んで、ふっと笑った。


「ええ味や。ちょっと強いけど」


「まだ修行中です」


「うん。でも、前より優しい味になってる」


玲奈は何も言わなかった。

ただ、カップを磨く手つきが少しだけ柔らかくなった。


霧笛の灯りは、神戸港近くの路地に静かにともっていた。

美人すぎるウェイトレスの噂は、これからも続くだろう。

変な客も、また来るかもしれない。

それでも、この店には女主人がいる。

本気で玲奈を守ってくれる人がいる。


そのことが、玲奈には少し眩しかった。


いつか南の島で、自分の店を持つ時。

自分もまた、誰かを守れる店主でなければならない。

コーヒーを淹れるだけでは足りない。

場所を守る覚悟がなければ、店は店にならない。


苦いカラメルの香りが、閉店後の霧笛に残っていた。


甘いだけではない。

けれど、最後には少しだけ温かい。

それが、この店の味だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ