真実への到達
ラッカスが裁判官を務める裁判が終わり、ライカは無言で屋敷に戻る。しかしそれは、自分の夢を明らかにした余韻からくるものだった。
法律を変える。
それは、どれだけ壮大な夢だろう。
けれど、無理だという気持ちよりも、本当にやりたかったことを理解した喜びが勝り、ライカは気が抜けたようにぼんやりとしていた。
そんな彼女をカティスは静かに屋敷まで送り届けた。
――ちゃんとお礼が言えなかった。
ベッドに横たわった時、ようやくライカは周りのことが考えられるようになった。
「ライカ」
扉を叩く音に彼女は体を起こす。手に一冊の本を持ったセイランが、心配そうな顔をして扉の前に立っていた。
「少し、お話しても良いでしょうか?」
「ええ、もちろんです」
ライカは久しぶりに微笑んだ。それはどこかぎこちない表情だったが、その様子にセイランは顔に貼り付けていた緊張をわずかに解いた。
「ユイレン第一王子殿下の生誕祭の件です」
彼の生誕祭はもうすぐ開催される予定だ。もちろん、ライカもクラシェイド伯爵として招待されている。
「どうしても参加するのですか?」
セイランは生誕祭にライカが赴くのを引き止めたいのだ。一度、ネイゼンの生誕祭で襲われ、死にかけているからだ。
「――はい」
それでも、ライカは頷いた。その目は揺らぐことなく、真っ直ぐにセイランを見つめている。
「何が起きようとも」
ルーカディアスの歪んだ瞳が脳裏に浮かぶ。朱が混じった黄金色の双眸は、今この時でさえ、ライカを嘲笑うようだった。けれど、彼女はそんなことでは決して動じない。それだけの夢をすでに心に抱いているからだ。
「……わかりました」
セイランはライカの想いを受け止め、首を小さく縦に振った。母としてどれだけの覚悟が必要だっただろうか。ライカの胸は締め付けられた。
「これをあなたに託します」
そう言って、セイランは持っていた本をライカに手渡す。
「これは……?」
「あなたのお祖父様、ケオニール・クラシェイドの日記です」
手渡された日記を開くと、中はびっしりと手書きの文字が綴られていた。太く力強いその筆跡は、確かに見覚えのある祖父のものだ。
「きっとライカの役に立つと思います。
お祖父様のためにも、最後まで読んでください」
そう告げるセイランは、今にも泣き出しそうだった。
◇
祖父であるケオニールは偉大な裁判官だった。
ライカが尊敬し、憧れた人である。
世間の評価も高く、裁判官として活躍していた時期は長かった。そんな祖父の日記を、ライカは書斎に籠り、瞬きを忘れたように読み耽っていた。
――そうだ、この裁判には私もいた。
日記の終盤に差しかかったところで、ライカは手を止める。そこでは、とある貴族の裁判について触れられていた。
意外にも祖父は当時のことを細かく日記に残していた。
◇
「どうしても証言していただけないのですかな?
クレール子爵」
深い皺の刻まれた男、ケオニール・クラシェイドは対面に座った男にそう尋ねた。
「答えは同じです。
私はヴェルモン子爵とラベリュ伯爵の件で証言するつもりはありません」
クレール子爵であるアドリアン・モンフォールは顔こそケオニールに向けていたが、目は閉じたままである。
彼は目が不自由で、その視界はぼんやりとしか景色を映さない。彼もまた、ケオニールと同じくらい、顔に皺が刻まれている。
「しかし、ラベリュ伯爵は亡くなっているのです。
目撃者は貴殿だけ。――どうか証言を」
<王国の天秤>でありながら、王立裁判所の裁判官でもあるケオニールに持ち込まれたのが、ラベリュ伯爵の死に関する案件である。
とある夜会でラベリュ伯爵であるアルノルト・ホーエンがヴェルモン子爵であるギヨーム・マティルに掴みかかり、咄嗟に防衛を図ったギヨームに投げ飛ばされ、頭を強く打って死亡した。
その現場を目撃した唯一の証人がアドリアンなのだ。彼がその時のことを話してギヨームを庇えば、全ては丸く収まる。それなのに彼は黙秘を貫いていた。世間がアドリアンに向ける目は、日に日に冷たくなる一方だった。
「私の目は曇っている。
どうして真実など伝えられましょうか……」
そうこぼすアドリアンから、ケオニールは恐れの感情を読み取った。それは自分の発言により真実が歪められてしまうのではないかという恐れだ。
ケオニールはアドリアンに柔らかい声で訴えかけた。
「貴殿は事実だけを証言してくだされば良い。
必ずや、このケオニール・クラシェイドが真実に辿り着いてみせましょう」
「クラシェイド伯爵……」
アドリアンは閉じていた瞼を持ち上げる。やはり視界はぼんやりとしか相手の輪郭を映さなかったが、それでも力強い眼差しを感じ取ることができた。
◇
法廷には多くの貴族がひしめき合っていた。
まだ幼いライカもセイランと共に傍聴席に着き、裁判長である祖父が座る予定の椅子を遠くに眺める。
「お祖父様の大事な裁判です。よく聞いておくのですよ」
「はい、お母様」
本来ならただの事故死。
それで終わりだったが、アドリアンの黙秘により難しい案件となってしまったのだ。
結果として伯爵を死なせてしまったギヨーム・マティルに対しては同情の視線が集まっていた。彼は法廷の中央で不安そうに体を揺らしている。
「――というわけで、ラベリュ伯爵が突然掴みかかり、咄嗟に投げ飛ばしたのです……。
運悪くそこに花壇の段差があり、伯爵が頭をぶつけてしまいました……」
そう釈明するギヨームの声は気の毒なほど震えていた。傍聴席の貴族たちは小さく頷きながら、静かに聞いている。
今回問題となるのは、当然ながらラベリュ伯爵が事故死であるかどうかである。
被害者が亡くなっている以上、加害者であるギヨームと目撃者であるアドリアンの二人しか証言できる者はいない。
裁判長として席に着いていたケオニールは、ギヨームを下がらせると、今度はアドリアンを法廷の中央に立たせた。
彼の登場に周囲はどよめく。
「静粛に」
ケオニールの厳格な言葉により、場は途端に静まり返る。幼いライカにもその張り詰めた空気が理解できた。
「目撃者であるクレール子爵、証言を」
「――はい」
アドリアンは一度だけ頭を大きく下げた。
「あの夜、私は事件のあった庭を一人で歩いていました。
この通り目が不自由ですが、その程度のことは問題ありません。
生まれつきのことなので」
彼は目を閉じたまま、その時のことを思い出すように顔を斜めに持ち上げた。
「しばらく歩いていると声が聞こえました。
目が見えない代わりに記憶には自信がございます。
こう言っておりました」
アドリアンは軽く息を飲むと、一度に言い切った。
「〝何をする、ラベリュ伯爵!〟、
〝やめてくれ!〟、
〝危ない!〟、
〝ラベリュ伯爵! 伯爵!?〟」
それは、ギヨームの証言を裏付けるには十分な発言だった。安堵したような空気が法廷に流れ始める。
「この目ではよくわかりませんが、お二人が揉み合っている姿も目撃しました。
その後、ラベリュ伯爵が倒れ、亡くなられたのだと思います」
その言葉を聞いて、ギヨームの顔に笑みが浮かぶ。誰もがもう、彼の正当防衛を確信していた。――ただ一人、ケオニール・クラシェイドを除いて。
「その証言にはおかしな点がある」
冷水でも浴びせられたかのように、人々の顔が固まった。声の主である裁判長に視線が集まる。
「クレール子爵の証言の通りなら、ヴェルモン子爵が叫んでいるだけではないか」
ケオニールがそう言うと、傍聴席の貴族たちははっとした顔をして互いに顔を見合わせた。
幼いライカも母に視線を向ける。彼女は硬い表情をしたまま、静かに頷いた。
「つまり、クレール子爵が来た時にはもう、ラベリュ伯爵は亡くなっていたのだ」
一番高い席に座ったケオニールから発せられる淡々とした声を、人々は無言で拾っていた。興味本位で傍聴しに来たことを後悔するほどに。
「目が不自由なクレール子爵がたまたま通りかかったのを見て、ヴェルモン子爵は一芝居打った。
――そうではないかね?」
すでに死体となったラベリュ伯爵の体を立たせ、ギヨームが一人で叫び、花壇へと遺体を転がした。それが真相だとケオニールは言うのだ。
先ほどまで笑顔を浮かべていたギヨームの顔は、今や倒れてしまいそうなほど蒼白だった。けれど彼は最後の抵抗を試みる。
「事故なのは本当です!
信じてもらえないかと思い……」
「――思うのだが」
しかし、ケオニールの声は冷静だった。法廷に彼の声だけが響く。
「事故死を招いた者が、事故死の芝居を咄嗟に打つだろうか。
するとしたら事件を起こした者――殺人を犯した者だけだ」
ケオニールの眼光は鋭利で、少しの犯罪も見逃さない決意が秘められていた。その眼差しに怯んだギヨームは大きく肩を落とす。
「口論になったのです……。
ラベリュ伯爵には個人的な借金をしており……。
本当にどうかしてました……」
ギヨームの口からは観念したように懺悔の言葉がもれる。犯罪を隠し通すには心が保たなかったのだ。
そんなギヨームを感情を殺した顔で見つめながら、ケオニールは最後の言葉を述べる。
「突発的な殺人で計画性はなく、事実を自供したため、減刑の余地がある。
――よって、領地の一部を没収し、三年の幽閉と伯爵家への賠償を命ずる」
判決と共にケオニールは木槌を持ち上げ、ひとつ大きく打ち鳴らした。




