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若き裁判官の判決

 暗い心のまま過ごすライカ。

 それでも朝は訪れる。

 寝巻きから着替えると、朝食をとるために食卓のある部屋へと向かった。


「おはようござ……」


 セイランに向かって挨拶をしようとした口が止まる。何故なら、そこにいたのはカティスだったからだ。


「おはようございます」


 カティスのその声を聞くや否や、ライカは無言で背中を向ける。けれどすぐさま、カティスはその手を取り、ライカを引き留めた。


「待ってください、ライカ」

「お話することはありません。

 帰ってください、カティス」


 ライカの言葉は冷たいものだった。自分でもどうしてこんな言い方になってしまうのかわからなかった。


「お話ししなくても結構です。ただ……」


 ライカは気がついた。カティスの手がかすかに震えていることに。


「ただ、バンデル裁判官がお務めになる裁判を一緒に傍聴いたしませんか?」


 その声もまた、震えていた。



 ◇



 ライカとカティスは無言で馬車に乗り、王立裁判所へとたどり着いた。石造りの荘厳な建物が二人を出迎える。


「バレンス男爵がご夫人に突然離縁を言い渡したのです。

 ご夫人は碌な財産分与もなく、持参金の返却だけでご子息と共に追い出されることになり、異議を申し立てました」


 どうやらバレンス領では、慣習的に夫から一方的に離縁を突きつけることができるようだ。バレンス領に限らず、エルドガールでは、多くの場合、離縁時には女性が圧倒的に不利である。


「バレンス夫人は代言人、グレイン・フォスター様をお立てになりましたが、彼はリンカー夫人が手配なさったようです」

「お母様が?」


 セイランの名にライカは反応を示す。グレイン・フォスターは、かつてギリム伯爵領で対峙することになった、ギルド側の代理人だった。


「ええ。裁判官はバンデル様ですので、代言人はクラシェイド伯爵家とは関係のない方が良いと判断されたようです」


 それは実にセイランらしい考えだと思った。ただ、グレイン・フォスターは経済が専門のはずだ。その点がライカには気になった。


「フォスター様は熱心な方で、経済以外の分野にも精通されていらっしゃるそうです」


 ライカは考え込む。この裁判で問題となるのは慣習を優先させるか、法律を優先させるかである。王立裁判所に案件が持ち込まれた以上、法律に準拠するのが当然だが、実は離縁に関しては曖昧だった。


――離縁後の条文はあるけど、離縁時の条文はない。


 夫から一方的に離縁できるという慣習が用いられることになってもおかしくはなかった。

 今まで問題にならなかったのはただ、裁判を起こす女性がいなかったというだけだ。


「難しい案件です……」


 ライカがそう呟くと、カティスもつられて顔を不安そうに曇らせる。

 ラッカスは地方の裁判所で勤務していた際に実務経験があったが、王立裁判所で裁判官を務めるのは今回が初めてだ。その点もまた注目されていた。

 自分のせいで青ざめたカティスを見て、ライカは何かを言おうと口を開きかける。けれど、言葉にする前に閉じることになった。

 裁判官である彼、ラッカスが現れたからだ。


「――これより、コルベイン夫妻の離婚裁判を始める」


 椅子に着いたラッカスが、法廷に響き渡る声でそう告げた。


「マーティン・コルベイン。意見を」


 彼はまず、夫側に陳述を求めた。


「マーティン・コルベインです。

 確かに妻に離縁を求めました。

 バレンスでは持参金さえ返せば可能なのです」


 壮年の男がそう言うと、入れ替わるように別の男が前に出る。


「代言人のバルベン・ロイクスです。

『エルドガール法大全』には離縁時の条件について記載はありません。あるとしても離縁後です。

 例えば、第3編・家と財の篇・第4章第16条、

 離縁後、妻には身分に応じた生活維持のための財産を与え、残りは夫が保持する。

 妻の生活に不足ある場合、王立裁判所の裁可により補填を定めることを得る、といったものです」


 バルベンの言う通り、16条は離婚が決まった後の処理に関する法律だ。どういう場合に、どのように離婚が成立するかについて明記されている条文は確かにない。


「法律に条件がない以上、バレンス男爵は違法行為をしておりません。

 でしたらその行為も適正であると言えるでしょう」


 その言葉に、傍聴席の誰もが納得しかけた。やはり離縁に関して、妻側はあまりにも旗色が悪かった。


――明文化された法律がない以上、慣習が押し通されることになるかもしれない。


 ライカはラッカスを見上げた。彼は曇りのない表情で椅子についている。ふと、その目がこちらを見たような気がした。


――ラッカス?


 けれど、いつの間にか正面に視線は戻っていた。ライカがじっと見つめても、その目は合うことはなく、ただ裁判官の顔を貼り付けている。


「次、ディアリス・コルベイン」


 ラッカスに名前を呼ばれ、現れたのは壮年の女性だった。周囲の目を気にするようにおどおどと前に足を踏み出す。そんな彼女を支えるように、背後からグレインが背中に手を回していた。


「――陳述は代言人であるグレイン・フォスターがさせていただきます」


 そう言って、グレインはきりっと顔を上げた。まるでラッカスに見せつけるように。


――そうか……グレインとラッカスは……。


 アイシアン王立大学で同級生であった彼らは、こうして同じ法廷で顔を付き合わせている。

 代言人であるグレイン。

 裁判官であるラッカス。

 エミールの顔が頭に浮かんだ。

 目尻に熱い雫が溜まり、こぼれかける。裁判のことなど忘れて、ライカはただ、少年のことを思った。


「離縁時に関する法律は確かに存在しません。

 ですが、『エルドガール法大全』第3編・家と財の篇・第4章第11条、

 婚姻は夫および妻の両性の同意によって成立するものとする、とあるように、婚姻時には双方の同意を必要としています」


 グレインの声はライカと対峙した時とは比べ物にならないほど、熱のこもったものだった。わずかな持参金だけで追い出されようとしている女性を助けようとする強い意思を確かに感じ取れた。

 そんな彼の声を遠くに聞きながら、ライカはぼんやりと法廷を見つめる。


「婚姻が双方の同意をもって成立するならば、これは明確なる契約です。

 破棄するのにも双方の同意が必要と考えるべきです」


 その言葉に法廷は一瞬にして騒がしくなる。婚姻を契約と述べた彼の解釈に、周囲は口を開かずにはおれなかったのだ。


「静粛に」


 ラッカスが手に持った木槌を鳴らす。音が響くと同時に、傍聴席には静寂が訪れた。

 沈黙した観衆は代わりに彼をじっと見つめた。最も高い席に座るラッカスを。

 代言人の陳述を聞き、どう判決を下すのか。その答えを聞こうと皆は耳を澄ませてその時を待った。


「――16条は離縁が適正になされた場合の後処理を示すものだ」


 ラッカスの声は若いながらも威厳があり、重々しく法廷に響いた。


「では、適正になされたとはどういうことであろうか?」


 彼は夫であるマーティンに視線を送った。


「この離縁が適正になされたと主張するならば、法的にも離縁の成立要件を証明する必要がある」


 マーティンは代言人であるバルベンを見た。彼は困ったように視線を彷徨わせる。


「離縁が適正であったと主張する側がそれを証明できない以上、立証不十分である」


 ラッカスの声がすぐ側で聞こえるようだった。ライカはようやく気がついた。彼がライカに向かって話しかけていることに。


「よって、この離縁は無効である」


 法廷にまたひとつ、木槌の音が響いた。

 それは、新しい時代の幕開けを告げるようだった。

 条文にはない問題を法的理論で補い、慣習による決着を退けたのだから。

 若き裁判官の判断は、きっと後世まで議論されることとなるだろう。


「ラッカスは……」


 隣に座ったカティスに向かってライカは呟いた。


「特権や慣習を嫌っていました。それらは必ずしも公平ではないからです」


 生まれ持って与えられる特権。

 土地によって異なる慣習。

 そんな不平等なものではなく、王国全土に行き渡るひとつの体系の元、盤石な秩序を保つ。

 それが青年の目標だった。


「ラッカスは夢を叶えようとしてる……」


 ライカの目から雫が流れる。それは細い筋となって頬を伝った。

 カティスがライカの手を取り、優しく包み込んだ。


「ライカは? ライカはどうしたいですか?」


 新緑の森に差し込む日差しのように鮮やかな微笑み。それは、柔らかな温もりがあった。


「私は……」


 ライカはカティスを見つめながら、これまでのことを振り返った。法律が好きだった。けれどそれは、いつも慣習や特権に阻まれた。だが、障壁はそれだけではない。


「慣習は土地によって違いがあり、統一されていません」


 だからこそ、イドルをはじめ、王国は『エルドガール法大全』を編纂し、ひとつの法を作り上げた。


「ですが、法律も完全ではないのです」


 今回の裁判がそうだ。離縁時の条件が記載されていなかったために起こった裁判だった。今後、いくつかの条件が検討されることになるだろう。でも、それだけでは足りない。

 16条のような不平等が残るからだ。ディアリスはこの後、正式に離婚することに決め、16条を元に遺産を分けてもらったとしても、取り分は夫よりもはるかに少ない。法律には性別の差が反映されていた。身分によって刑罰に差があるように。

 貴族というだけで刑罰を免れた者がいなければ、バーマン・セングは罪を犯さなかっただろうか。彼が平民という理由で貴族より重い刑罰を科されなければ、極刑から免れたであろうか。


「私は……」


 ライカは紫色の目の奥に鋭い光を宿した。


「私は法律を変えたいんです。

 ――あらゆる人にとって平等な法律に」


 それは、小さな少女の壮大な夢だった。

 こんなにも裁判所の中は騒がしいというのに、二人がいる場所だけは、森の奥深くに入り込んだように静かだった。

 カティスはその紫色の瞳に視線を合わせ、青白い手をさらに強く握った。


「きっとできますよ、ライカ」


 その声は森を吹き抜ける風のように穏やかだった。

 あまりにも穏やかだったので、ライカはもう一筋、熱い雫を頬に流した。

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