令息の悩み
アドルグ・タキアスがライカを非難したのは、彼女の名誉を傷つけるためである。それが<王国の天秤>を我がものにしたいがためなのか、あるいは影で暗躍する何者かのためなのかはわからないが。
いずれにせよ、冬を越すまでに残された時間はわずかだというのに、ライカは屋敷から出られず、部屋で過ごすことが多くなった。
そんな彼女の元に、あしげく通う少年の姿があった。コンザール伯爵令息、エミール・ヴァルトだ。
「――なるほど。それで、イドル様は『エルドガール法大全』の最後に〝法は正義であるべきだ〟と書かれたのですね」
エミールの言葉にライカは穏やな表情を浮かべ、頷いた。
「ええ、〝正義である〟とは書けなかったそうです」
ライカは机の上に置いた『エルドガール法大全』のページをめくりながら、該当の文章を指で示した。
彼女たちがいるのは、以前にも勉強会で使用したことのある部屋だ。かつて、ラッカスと共にセイランから教わっていた場所でもある。
エミールとは歳が二つ離れていたが、表向きは少年同士ということもあり、いつの間にか親友のような関係になっていた。
「王室からは直すように何度も要請があったそうですが、強く跳ね除けたそうです」
ライカの言葉にエミールは目を輝かす。
「イドル様は芯の通ったお方だったのですね」
曽祖父の話の多くはセイランから聞いたことだ。どれもが伝説でも聞くかのように面白く、話題に事欠かない。
「それで、エミール。大学の方はどうですか?」
「とても楽しいですよ。
ライカネル様もお通いになればよろしいのに」
エミールはあれから何度もライカを大学に誘った。それほどまでに二人は気が合ったのだ。
「そうしたいのはやまやまですが……」
ライカは言葉を濁した。本来ならここで<王国の天秤>の義務があるからだと言わなくてはならない場面だった。けれど、今の彼女にはどうしてもそれが口にできなかった。
「その代わり、大学の話を聞かせてください。
何か困ったことはありませんか?」
「ええ、ありますよ……」
エミールはわざとらしく渋い顔をした。
「ヴィンス伯爵家とジゼル伯爵家の仲が悪いのはご存知ですよね?」
「はい、一度仲裁させていただきました」
ネイゼンの生誕祭で襲撃を受けた直後、宴の会場で起こった事件のことだ。ヴィンス伯爵家とジゼル伯爵家の贈答品である短剣のデザインが似ていたのを、ライカが法的に調停したのだ。
「そのご子息であるジェシット・ファルビス様とルシアン・ヴァルモンド様も険悪で、校内の雰囲気も良くないのです」
「派閥ができている、ということですか?」
「完全にそうではないのですが……」
おそらく、エミールのようにどちらにもつかない生徒も多いのだろう。けれど、そういった中立の立場をとる存在は、どちらからも敵視されてしまうものだ。
「お二人は王室顧問官の推薦を巡り、試験の結果や教師の支持を競ってらっしゃいます」
王室顧問官とは、いわば国王の相談役である。王室関係の仕事の中でも、名誉ある役職のひとつだ。当然、その推薦枠は限られている。
「推薦は人格も評価されますからね。
生徒間の人望も重視されそうです」
「ええ、なので勢力拡大のため、私にも声がかかっている次第です。――両方から」
コンザール伯爵令息であるエミールを味方につけられれば、彼らの勢力図は変わるだろう。しかしだからこそ、エミールは困っているのだ。
「私はどちらにも属するつもりはありません。
自分の家のことに専念したいのですから」
「同意です。変に関わらない方が良さそうです」
結局、どちらかには恨まれることになるのだ。そのような立ち回りをエミールにはしてほしくないとライカは思った。
今、二人の令息たちの目はエミールに向いている。
――だったら、その目を逸らせばいい。
ジェシットとルシアンがそれどころではなくなるような、共通の敵を作るのだ。
「王室顧問官の推薦。
それを、学長が見直しているという噂を流すのです」
「それは……二人が問題を起こしているという話が耳に入ったとするんですか?」
「そうです。これで彼らは冷静になるでしょう」
学長という敵を前にすれば、二人は黙るしかない。熱くなった彼らの頭も冷めること間違いなしだ。
エミールは考える素振りを見せる。この作戦は嘘の噂を流すことになる。彼のような清廉な少年には合わないのだろう。
「誰も傷つかない良い方法だと思います。
これでいきましょう。――彼らのためにも」
競い合う姿勢は必要かもしれないが、それが過ぎればジェシットもルシアンも共倒れする可能性がある。どこかで歯止めが必要なのだ。
「ありがとうございます、ライカネル様」
そう言って礼を言うエミールの目の下には隈があった。同級生のことを考えたにしては深く大きな隈だ。
「ちゃんと寝ていますか、エミール?」
そう問いかけるライカの目の下にも、エミールと同じくらい深い隈が刻まれていた。けれど少年はそのことに触れず、視線を机の上にある本に向けた。
「ライカネル様は犯罪の〝黙認〟について、どう思われますか?」
「犯罪の黙認ですか?」
そう問われ、ライカは頭の中にいくつかの法律用語を浮かべる。
「黙認して罪を問われるのは、証拠隠滅・犯人蔵匿・犯罪幇助などを行った場合ですね」
助けられるのに見捨てた場合でも罪に問われることはある。だが、いずれも状況によって判断は変わる。
「罪を罪と知ってなお、告発しないのは罪でしょうか?」
淡々とした言葉の中に、どこかひっ迫した響きが混じっていた。その音を拾いながら、ライカは彼の意図を読み取ろうと頭を働かせる。
「証拠があり、黙っていれば秘匿にあたるかもしれません」
ライカは隣に座るエミールの目を見た。少年の藍色の瞳が不安そうに揺れている。
「罪を犯したとわかっていながら、裁けない者がいるもどかしさを私は知ってます。
私は黙認している犯罪者でしょうか?」
語りかけるようにライカは続けた。
「エミール、罪は犯した者のものです」
少年の目が開き、肩がびくりと跳ねる。わずかな間、彼は体の動きを止め、ライカをただ見つめていた。
「僕は……」
今度はエミールの目にライカの目が映っていた。それは、少年を案じる友人の姿だ。
「そうですね」
エミールは目を瞑ると、小さく頷いた。ようやく自分の中で何かが納得できたかのように。
◇
――エミールは深く悩んでいるようだった。
それは、ライカに関係することのように感じられた。彼女を見る時、彼はどこか罪悪感に苛まれているような、そんな苦しそうな目をしていた。
――エミールの父親に関わること……?
コンザール伯爵フリード・ヴァルト。彼はライカを暗殺しようと企んだ計画犯の有力候補の一人だ。
――証拠なんてひとつもない。
それでも、ライカはフリードのことを心の底では疑っていた。それは何故だろうか。
――何かがずっと引っかかっているから……?
ライカは窓に映る自分の目を見る。半透明なその目もまた、自分を見つめていた。
フリードの屋敷で開催された練習会を思い出す。彼はあの時、ライカに何と言っていたか。
〝これはこれはクラシェイド伯爵。平民の男に襲われ、大怪我をされたとお聞きしたのですが、もうよろしいのですか?〟。
フリードの言葉を思い出した瞬間、ライカは呼吸を止める。周囲の音が消え、ただ心臓の鼓動だけが響く。
――あの時……。
窓に映るライカの目は大きく見開かれ、紫の瞳が動揺の色を浮かべている。
気づいてしまった。
フリードの取り返しのつかない失言に。
ライカの頭の中で、エミールが優しく微笑んでいた。
――どうしよう。
ライカは夜空に輝く月を見上げた。ぽつりと暗闇に浮かぶそれは、美しいながらもどこか孤独で寂しそうだった。
――言えばエミールやリリーシアさんが……。
ライカは結局、決断できぬまま数日を過ごした。




