黄昏の王弟
黄昏の空は仄赤く、夕焼けの名残がかすかに漂う。
路地裏を歩く二人の影は細く長く伸びており、それもすぐに建物の影に溶け込んだ。
一人は背が高く、フードを目深に被った男だった。対して向き合う相手は小柄で、性別の判断がつかない。
「――全く忌々しいことだ」
発せられる声も中性的だった。低くも高くもない。ただ、闇夜にその美しい顔を白く浮かべていた。
けれど間違いなく女性だった。――そう、かつてライカが見破ったように。
彼女の名はルーカディアス。
かつて、この王国の第二王子として王宮で暮らしていた。兄であるナザリウスが王位を継いだ後は王弟となり、その名を憚れている。
「計画は破綻した」
彼女は前髪を掻き上げると、奥歯をぎりりと鳴らした。
「ライカネル・クラシェイド。
まさか、あんな子どもに遅れをとるなんてね」
その目は暗く澱み、何も映さない。目の前に立った男は無言で彼女の姿を見つめていた。
ライカを攫った時のことを思い出し、ルーカディアスは憎々しげな表情を浮かべた。
――私が女であることに気づいた。
それは想定外のことだった。
そしてそれこそが、最も厄介な弱みとなった。
この先、どんな障害になるのか。
自分に絶対の自信を持つ彼女には、決してあってはならない失態だった。
――いや、〝彼女〟ならとっくに気づいていたかもしれない。
ならばどのみち同じことか。
ルーカディアスは一人の女性を頭に浮かべる。紫色の髪と瞳を持つ、とても美しい声をした女性のことを。
掻きむしっていた前髪から手を離すと、ルーカディアスは淡々と言葉を発した。
「ネイゼンの生誕祭で殺せなかったのは失敗だった。
まさか、同じ日に手を出してくる者がいるとは思わなかったから」
ルーカディアスは自嘲気味に笑った。
自分が描いた計画。それとは別に、他の何者かがライカを暗殺しようと画策し、結果として少女は生き残った。
「まあ、また殺せばいいんだけどね」
計画が延びただけ。ルーカディアスは静かに嘆息し、目の前の男に目をやった。
「それにしても、ロッシュ。
君が押されるなんて、<王国の長剣>はそんなに強かったかい?」
ロッシュと呼ばれた男は目深に被っていたフードを脱いだ。現れたのはルーカディアスと並んでも遜色がない程、整った顔だった。
「あの男は相手の動く一つ先を読んでいます。
――そして恐らくは……」
ロッシュは何かを考え、言い淀む。けれど、ルーカディアスの視線が先を促した。
「死に対する感情が壊れています」
その言葉にルーカディアスは不思議そうに首を傾げたが、それもわずかな間のことで、すぐに口の端を持ち上げる。
「ははっ……そうか……!」
路地裏に乾いた笑い声が響く。対面するロッシュは表情を崩すことなく静かに佇む。
ルーカディアスの笑い方は芝居だ。劇で団員が客に見せつける演技だった。どこか仰々しく、そして空虚だ。
「貴族の坊やだと思っていたけど、彼もなかなか歪んでいるようだね……!」
ロッシュは知っていた。ルーカディアスは決して本心からは笑わないと。出会った時からそうだった。
「もしあの時、君がお得意の短剣を取り出していたら、勝負はどうなっていたかな?」
ルーカディアスの問いにロッシュは逡巡する。迷った挙句、本心から答えた。
「わかりません」
そう、と途端に興味を失った声色で彼女は呟いた。
ルーカディアスは暮れゆく空を見上げた。仄赤く染まっていた空は濃紺に変わり、夜の訪れを告げていた。
◇
「やっぱり、ここは最高ですね……」
ライカはうっとりとした表情で息をもらす。
今日、足を運んだのは王国で最も大きな図書館であるミンタスタ王立図書館である。ここは王室が集積した数多の書物が一般公開される貴重な場所だった。
ライカがここに訪れたのには訳がある。法律には並外れた見識を持つ彼女であったが、歴史に関しては一般的な知識しかなかった。けれど、ルーカディアスとの出会いにより、王国について考えた時、あることが気になったのだ。
セイランにそのことを告げると、ロウザの付き添いが条件で図書館に行く許可が降りたのだ。
「これと……これにしましょう……」
歴史の棚からいくつかを選ぶと、両手に抱え持つ。どれも厚みがあり、少女の腕には重すぎた。
「僕が持とう」
ロウザがすかさず本を掠め取る。彼は恰幅の良い体に見合った、頼もしい腕をしていた。温厚な性格の割に力持ちなのだ。
「ありがとうございます……」
ライカは俯きがちに礼を言った。
これでも態度は丸くなった方なのだ。以前は一緒に出かけることさえしなかったのだから。故に、ロウザは先ほどから嬉しそうに微笑んでいた。
ライカはそんな彼から少し距離をとりつつ、廊下の突き当たりに向かって指を差した。
「……法学の棚の方へ行ってもよろしいですか?」
「構わないよ」
法学の棚は少し薄暗い場所にあり、人気が少なかった。本もあまり手が伸ばされた形跡がない。
その法学の本棚の前で、一人の青年が熱心に本を探していた。見覚えのある顔に、ライカは足を止める。相手も気づいたようで、驚いたようにこちらを見た。
「ラッカス?」
従兄弟であるラッカス・バンデルだった。
ラッカスは一瞬だけ何かを思案する素振りをするが、すぐに表情を改めると、二人に向かって矢のように言葉を発した。
「――ライカネルの様子がおかしい。まず一つ目に表情が以前の彼とは違う。前を見て堂々としている。
声を先にかけたのも珍しい。なにより、図書館に父子二人で来ている点だ。
ライカネルが成長するにつれ、ロウザさんとは仲が悪くなったと叔母上からお聞きしている」
多くのことを一度に言われ、二人は面食らったように黙る。けれど、内容を把握したその瞬間、ライカはロウザから盛大に目を逸らした。
「以上のことから、ライカネルは不調を抱えていると推測される。――何かあったか?」
ラッカスに会うのは久しぶりだったが、声をかけただけで訝しがられてしまった。<王国の天秤>にと望まれるだけあって、やはり優秀な青年だった。
「少し心境の変化がありまして……」
「バーマン・セング。
あの男に襲われたことと関係あるのか?」
「まぁ、そんな感じです」
彼はセイランの姉・レティアの息子だ。けれど、いくらクラシェイド側の人間とはいえ、ライカがネイゼンの生誕祭の夜に変わってしまったことを、どう捉えるかはわからない。幼い頃からの知り合いだからこそ、思うこともあるかもしれないのだ。
「あまり叔母上を悲しませるんじゃない」
「すみません……」
ラッカスはライカと二人、セイランに法学を習っていたことがあり、彼女のことは姉のように慕っていた。
「ちょうど良かった。報告があったのだ」
「報告ですか?」
ラッカスは手で本の背表紙をすっと優しくなぞった。その背表紙には『エルドガールの法と歴史』と書かれている。
「この度、王立裁判所で勤務することになった」
「すごいじゃないですか」
エルドガール王立裁判所は王国一の裁判所である。まだ二十歳になったばかりのラッカスが、王立裁判所の裁判官に任命されるのは異例中の異例だ。
「さすが〝イドルの再来〟と言われるだけあるなぁ」
「褒めている場合ではありません」
息子を差し置いて実績を上げるラッカスに対し、何の焦りもないロウザに、青年は苛立ちの声を上げる。
「とにかく、早く調子を取り戻し……」
ラッカスの言葉を拾いながらも、ライカの視線は彼の背後にある本棚を彷徨う。何か違和感を覚えたのだ。
『秤にかけられた善と悪』。
その本に手を伸ばし、ライカはぱらりとページを捲る。細かい文字が羅列され、専門的な用語も並んでいる。しかし、その本は。
「聞いているのか? 不真面目だな」
昔のライカネルなら、とラッカスは不満そうにぶつぶつと文句を呟く。
「あ、すみません。でも、この本……」
ライカは本を開いた状態でラッカスに見せる。彼女が近づくとラッカスは逆に距離を取り、一歩後ろに下がった。けれど視線は開かれたページに注がれる。
手書きの写本であるそれは、一見すると法学の本のようだった。しかし、内容は裁判に関する文学小説だ。
「確かに、この棚にあるのはおかしい。――そこの司書」
「なんでしょうか?」
「この本だが」
「これは……!」
どうやら目録にはあったが、見失っていた本の一つだったらしい。司書には頭を下げられ、礼を何度も述べられる。
「さすがと言うべきだろうか」
ラッカスは妙に感心した顔をした。
「たまたまですよ。なんだか逆に見覚えがない気がして」
「まるで法学の本は全部覚えているような言い草だな」
ラッカスの言葉にライカは照れたように俯いた。法学の本を数多く目に通してきた確かな努力がそこにはあった。
そんな彼女を見つめながら、ラッカスは穏やかな口調で言った。
「今のライカネルは堂々として良いのだろうが、私は昔の生真面目なライカネルも嫌いじゃなかったぞ」
その言葉に、ライカははっと顔を上げる。昔の自分がようやく報われたような、そんな気持ちになった。
ラッカスは兄のような存在だ。
年齢が離れていたのに、それでも彼は立ち止まり、ライカに視線を合わせてくれた。
そう、彼は。
共に学び、教えを乞う、家族なのだ。
ライカは歳の離れた兄をそっと見上げた。
◇
喜びを噛み締めていたライカだったが、ラッカスが王立裁判所の裁判官に任命されたという一報は王国中に広まり、ひとつの議論を巻き起こす。
それは皮肉にも、クラシェイドに追い討ちをかけるものだった。
ラッカスの評判が上がり、彼の方が<王国の天秤>に相応しいのではないかという意見が増えたのだ。
ライカに対する世間の目は冷たかったが、それほど関心を持たれてきたわけではない。しかし、いまや社交界はこの話題でもちきりだった。
まるで、誰かが裏で糸を引いているかのように。




