両の眼の光
暑さも翳りを見せ始めた頃、ライカは王宮の廊下を歩いていた。その肩はひどく落ち込んでおり、目的が果たせなかったことを物語っている。
――ナザリウス国王陛下に謁見できなかった……。
王宮に参上する許可が下りたにも関わらず、謁見の間の扉はライカのために開きはしなかった。ナザリウスが何を考えてそうしたのか、ライカには皆目見当がつかない。
選王会議を開催するという約束を果たすには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「いい加減にしなさい!」
廊下の先で、女性の怒鳴り声が響く。
ライカが目をやると、二人の女中が向き合っており、彼女たちの足元には花瓶の欠片が散乱していた。
若い女中が花瓶を割り、女中頭らしき女性に叱られている場面に遭遇してしまったようだ。
「最近、弛んでるんじゃないかい? この前も皿を割っただろう?」
「申し訳ありません……」
きつく髪を結んだ若い女中は、何度もぺこぺこと頭を下げる。
「さっさと片付けておくんだよ」
壮年の女中頭はライカに気づいたようで声を落とし、箒に視線を送った。若い女中は青い顔のまま、大きく頷いた。
女中頭がいなくなると、ライカは手伝うつもりで近寄った。どうせ今日はもう、やることはないのだから。
「大丈夫ですか? 手伝いましょう」
「まぁ……!」
女中は思わず声を上げる。
子どもとはいえ、ライカはこれでも伯爵だ。見ればそうとわかる身なりで王宮に参上した。そんな者が掃除の手伝いを申し出たのだから、驚いても無理はない。
「もったいないお言葉です……!
ですが、お手を煩わすわけには参りません。
お気持ちだけいただきます……!」
女中は再び頭をぺこぺこと下げると、壁に立てかけられていた箒に手を伸ばした。しかし、手は箒の手前を横切り、掴むことができなかった。
――あれ……?
女中はそれを三回ほど繰り返してようやく箒を手に取った。その箒を使って散らばった花瓶の欠片を集める。
どういうわけか目が離せず、ハラハラとした気持ちでライカは彼女のことを見つめた。
女中は集めた欠片を桶の中に入れようとして、足を踏み出す。けれど、その足は盛大に桶を蹴り飛ばした。
桶は壁にぶつかり、派手な音を響かせる。
「わっ……!」
自分で上げた音に女中は動きを止めた。
ライカの心臓もどきどきと早鐘を打っている。
「も、申し訳ありません……!」
ライカに向かって女中は可哀想なくらい、頭を大きく下げた。
――おかしいな……?
ライカは不思議そうに首を傾げた。彼女の様子には違和感があったのだ。
「あの……、あなた、お名前は?」
「な、名前ですか……!?
リシル・フィーリスです……」
怒られると思ったのか、歳上なのにリシルはしゅんと顔を伏せ、肩を窄めた。
「前からこのような、その、物を掴み損なったり、ぶつかったりしていたのですか?」
ライカの問いにリシルは、はっと顔を上げる。
「元々少しそそっかしくはありましたが、それでもここまでではなかったかもしれません……」
「それなら、やっぱりおかしいですね」
単なる不注意にしては何かが変なのだ。けれど、専門家ではないライカにはその理由がわからない。
「――何が、おかしいのですか?」
廊下の向こうから声がかかる。振り返ると、糸のような細い目をした男性がゆっくりとこちらに歩いてくる。微笑む手前の柔らかな表情を浮かべて。
「フォルス伯爵……!」
ライカは一歩後ろへと下がった。
いまだにロゼスタからは苦手意識が抜けなかったからだ。いや、事実として警戒しなくてはならない人物ではあった。
「こんにちは、クラシェイド伯爵。
大きな音がしましたが、どうかされましたか?」
ロゼスタはリシルが桶を蹴った時に立てた音を聞きつけ、様子を見に来たようだ。彼の特権は<王国の薬杯>であり、王宮の警護とは関係がないが、国王の安全に関わることは捨ておけなかったのだろう。
フォルスに関わるなというセイランの言葉は、まだ取り下げられていなかった。ライカは緊張した面持ちのまま、ロゼスタを見上げた。
「……この方の様子が少しおかしいようなのです」
医者であるロゼスタなら、リシルの症状がわかるかもしれない。ライカはあったことをそのまま説明した。
「なるほど。これだけ明るい場所にも関わらず、それは確かにおかしいですね」
ロゼスタはあっさりと納得した。
「場所を移しましょうか」
そう言って、ついてくるようにと案内を始めた。
◇
通されたのは、ロゼスタが使う個人的な医務室だった。国王の医者である彼の診察に、リシルは先ほどから目をきょろきょろと忙しなく動かしている。
「本当によろしいのですか?
私のような者がフォルス伯爵様の診察を受けるなど……」
「患者を見かけたら診察するのが医者の義務です。
お気になさらず」
優しい口調でロゼスタは言った。患者に対してはいつもこうなのだろう。ライカは自分の時の診察を思い出した。
――私が女だってばれてないよね……?
もし、ライカの性別がばれているのなら、王国に仇なす者を粛清するという裏の顔を持つフォルスに命を狙われてもおかしくはないのだ。
そもそも、ネイゼンの生誕祭で渡された〝銀杯〟についても、偽物なのか確証はなかった。
――私を殺そうとした計画犯の候補として、まだ完全に外れていない……。
ユイレンの伯父とはいえ、クラシェイドはそう考えていた。どれほど、彼が優しい医者の顔をしていようともだ。
「この指をよく見てください」
ロゼスタは人差し指を立てると、リシルの顔に近づけていく。
「左右の目のどちらが先に見えるか教えてください」
リシルはじっと指を見つめる。ゆっくりと動く指が鼻の先に近づいた時、彼女は口を開いた。
「左目が先です」
「はっきりわかりますか?」
「はい」
ロゼスタは立ち上がると、水の入った瓶を取り出し、コップを机の上に置いた。
「では、この瓶の水をこちらのコップに注いでください」
「わかりました」
リシルは瓶を両手で持つ。本来なら、さほど難しい動作ではない。けれど、水はコップの中ではなく、その手前にこぼれた。
「あっ……! すみません!」
慌ててリシルは手を止めた。ライカはすかさず布で机を拭く。なんとなく想定していたからだ。
「これは、間違いないですね」
ロゼスタはリシルの目を覗き込むように見た。細い目の奥で、何かを思案するように。
「リシルさん、あなたは左右で見え方が違うのです」
「左右で見え方が違う、ですか……?」
ええ、とロゼスタは頷いた。
「おそらくですが、左の方がよく見えるのではないでしょうか。
人は両の眼で物との距離を測ります」
ライカは違和感の正体がようやくわかった。
「だからリシルさんはちゃんと前を見ていたのにも関わらず、距離を見誤り、箒が取れなかったり、桶を足で蹴飛ばしたりしてしまったんですね」
「そういうことです」
行動に粗があるだけならば、その所作をみればわかったはずだ。けれどリシルは元のそそっかしさを引いても、それほど悪い点はなかった。それにも関わらず失敗をしていたから、ライカは奇妙に思ったのだ。
「フォルス伯爵様、これは治るのでしょうか?」
リシルの問いに、ロゼスタは首を左右に振った。
「残念ながら、一度落ちた視力は戻りません。
ですが、付き合っていくことはできます」
ロゼスタは低く穏やかな声で語りかける。それは、ライカも初めて聞く声だった。
「他の人より苦労を背負うことになるでしょう。
けれど、あなたは一人ではありません。
頼れる相手がいるのですから。
気をつける点をお伝えしますので、一緒に頑張りましょう」
「ありがとうございます……!
少しでも失敗がなくせるよう、私、頑張ります……!」
感激したようにリシルは目の端に涙を浮かべる。
目の前で一人の患者が救われたことに、ライカはほっと胸を撫で下ろした。
◇
「お手柄でしたね」
リシルが部屋を去り、二人だけになると、ロゼスタはライカにそう告げた。
「診断したのはフォルス伯爵ではありませんか?」
「気づいたあなたが素晴らしかったと思いますよ」
そう言いながらも、その声はリシルがいた時に比べて冷めたものだった。
「ナザリウス国王陛下にはお会いできなかったようですね」
「どうしてそれを……」
ライカは思わず目を逸らす。選王会議を開くという約束を果たせていない後ろめたさが優ったからだ。
そんな彼女に、ロゼスタは淡々と続ける。
「何があるかわかりません。役目を成し遂げるまではお体を大事に。口にお入れになる物には、十分気をつけなさってください」
「……!」
医者からの忠告のような言葉。けれど、裏には別の意味があるように思えた。
カーテンの隙間から光が差し込み、二人の間に触れられない壁ができていた。揺れ動く光の壁の向こうにあるロゼスタの顔はよく見えなかった。
「どうかその両の眼でよく見据え、〝均衡〟を保たれますよう」
「それは……」
どういう意味かと問おうとしてライカは口を止める。これ以上追求するのは、あまりにも危険だったからだ。
二人の間に沈黙が流れる。
ロゼスタは微動だにせず、光の壁の向こうで静かに佇んでいる。
やがてライカは、決意したように口を開いた。
「先ほど、フォルス伯爵はこうおっしゃっていましたよね。
人は両の眼で物との距離を測るのだと」
ここで何も言わなければ、途方もない失望を相手に与える。そんな気がしてしまった。
「左右の均衡が崩れた時、人は何かを失うのかもしれません。ですが……」
ライカは光の壁の向こうにあるロゼスタの輪郭を辿った。どこか儚く見えるその形を。
「私は自分の選んだ結末なら、きっと後悔しません。
――だからもし、その時が来たとしても両の眼を閉じず、〝それ〟を飲み込みましょう」
裏の顔を持つロゼスタは、その真意をライカに明かしはしないだろう。だが、理解することを諦めて良い理由にはならなかった。
光の壁の向こうで、彼はライカをじっと見下ろしている。彼女を見定めるかのように。
「私はね、クラシェイド伯爵」
腰を曲げ、ロゼスタはライカの目線に顔を合わせた。
「備えの薬なのです」
「備えの薬?」
ロゼスタの細い眼が開かれた。
その時ちょうど窓から差し込む光が弱まり、二人の間にあった壁が薄れる。
だから見えてしまった。
銀色の瞳が。
窓から差し込む光と合わさり、ゆらゆらと揺れるように輝いている。引き込まれるようなその色に、ライカも思わず見つめ返す。
「今はまだわからなくて結構です」
そのうちわかります、と彼は笑った。
どこか寂しそうに。




