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曽祖父の願い

 セイランから固く外出を禁じられていたライカだったが、屋敷に籠り続けるのは退屈すぎた。暇を持て余した彼女は母に頼み、条件付きで久方ぶりに外へ出ることを許される。

 ライカはクラシェイド伯爵領にある、古い本屋を指差した。


「ここなら良いでしょう?」


 彼女がそう尋ねると、背後に控えた護衛が頷く。


「はい。ここでしたら問題ありません」


 日が落ちるまでに戻ってくること、大通りから離れないこと、必ず護衛を従えること――それが、セイランの出した条件だった。

 ここは何度か訪れたことのある馴染みの本屋だった。珍しい本も揃っており、ライカのお気に入りのひとつだ。


「ごめんください」

「いらっしゃい、坊ちゃん」


 店主はライカの入店をにこやかに迎える。当然、彼女がクラシェイド伯爵であると知っていたが、そこに踏み込むことはない。

 店の中には他にも客が何人かおり、彼らの視線は真っ直ぐ本棚に向いている。人目があるのも、ここを選んだ理由のひとつだ。


――相変わらず、すごい量。


 古くから続くこの本屋は、図書館にも負けないほどの量の本が並んでいた。ライカは心を躍らせながら、背表紙をたどった。


――『法の道』……?


 一冊の本に目が留まる。それは小ぶりな古い本だった。題目よりもその著者の名前が目を引いた。


――イドル・クラシェイド……。


 それは、ライカの曽祖父の名だ。二代前の<王国の天秤>であり、彼女がいつも口にしている『エルドガール法大全』を編纂した偉人でもある。

 まだ読んだことのないその本に、ライカは引き寄せられるように手を伸ばす。

 すると別の手が現れ、同時にその本に触れた。


「あれ?」


 ライカは驚いて横を向く。隣の人物も少し慌てた顔をしてこちらを見た。


「――エミールさん?」


 そこにいたのは知った顔だった。ライカは目を丸めた後、おかしそうに微笑んだ。


「こんにちは。偶然ですね」


 エミールも柔和な顔を綻ばせ、優しく微笑んだ。


「こんにちは、クラシェイド伯爵。

 こんなこともあるのですね」

「ライカネルで結構ですよ」

「よろしいのですか?」


 二人は話し合い、半分ずつ出して本を購入した。

 本屋を出ると、通りに設けられた椅子に並んで座る。


「これはイドル・クラシェイドの直筆でしょうか?」


 ライカの問いにエミールが首を捻る。


「イドル様の本が売り出されているとは思えません。

 偽物の可能性があります」


 エミールの考えはもっともだ。イドルの直筆は写本ですらそれなりに価値が出るものなのだ。一介の本屋で安売りされているとは考えにくい。

 ライカは曲げた指を口に当てて考える。


「戦乱でいくつもの本が行方知れずとなったそうです。

 これもその内のひとつかもしれません」


 イドルが伯爵を務めたのは、王位をめぐって王子たちが争い、王国が荒れた時代だ。混乱した時勢であったため、彼の著書のいくつかは失われている。

 エミールが本の縁をなぞりながら、真剣な目で見つめる。


「小型の本で、表紙は厚紙に革を巻いた簡素な装丁ですね。

 装飾はほとんどありません」

「外見はそれらしいです。さらに言えば……」


 ライカは本を持ち上げ、光にかざす。文字はしっとりとした黒色だったが、しかし光に当てられると細かい粒の反射があった。


「煤のインクでしょうか……?」

「昔のインクですね」


 煤でできたインクは今も使う者はいるが、伝統としてごく少数だ。現在では樹液と鉄を混ぜたムラの出ないインクが一般的に用いられている。


「筆跡も曽祖父様のものによく似ています」


 ぎっしりと書かれているのは画一的な文字だった。いかにも法学者といった生真面目さが表れており、整然と記された文章は、ある種の美麗さがあった。


「ライカネル様がおっしゃるなら間違いないのでしょうね。

 ですが、この辺りは少し筆跡が違って見えます。

 もしかして、写した者の癖が出たのではないでしょうか?」


 エミールが指差した箇所は、そこだけ文字が右上がりに曲がっており、インクが濃くなっていた。

 ライカは彼の言葉に首を振った。


「曽祖父様は筆が乗ると字が踊るのです。

〝法を知らぬ者は罪を犯し、軽んずる者は国を壊す〟。

 ――いかにもあの方が力を込めそうな一文です」


 ライカの説明に、少年は納得したように頷いた。


「それは知りませんでした。

 尊敬するイドル様のことをお聞きできて嬉しいです」

「曽祖父様のことをですか?」


 エミールは輝くような目をライカに向けた。


「実は僕、法律に興味があるんです。

 大学に通っていますが、来年度は法学を専攻する予定です」

「そうだったんですね。大学は楽しいですか?」

「色々ありますが、楽しいですよ」


 そう言って、エミールは大学についてライカに話す。

 アイシアン王立大学には各地から優秀な子どもが集まり会話には事欠かないこと、たくさんの講義が用意されていること、優秀なら上級生の講義も受けられること、そして何より数多くの研究書が所蔵されていることなど。

 どれもライカの胸を躍らせる内容だった。


「ライカネル様は大学には通われないのですか?

 きっと楽しいですよ」

「私は役目がありますので」

「それは、そうですね……」


 ライカの返事に、エミールは残念そうな顔をする。その様子を見て、ライカもここにきてようやく、心の底から大学に通いたいという気持ちが湧いてきた。


――でも、私は……。


 すでにクラシェイド伯爵を継承したライカが大学に通うのは厳しいどころの話ではない。役目に差し支える可能性がある上、バーマン・セングの裁判で落とした評判をさらに落とすことになりかねない。


「よろしければまた、大学の話を聞かせていただけませんか?」

「ええ、もちろんです」


 ライカの頼みに、エミールは優しく微笑んだ。

 それは、相手を安心させるような温かい表情で、ライカも思わず微笑み返す。

 そんな彼女たちの手から本がこぼれ落ちた。


「あっ!」


 鈍い音を立てて、地面へ転がる本。慌てて二人は立ち上がると、本を拾い上げる。

 ライカは砂を払いながら本の状態を確かめる。


「いけませんね、うっかりしてました」

「あれ、何か落ちましたよ」


 本の中から四角い物がひらひらと舞い落ちる。風に吹き飛ばされかけたそれを、エミールが咄嗟に掴む。


「何かの走り書きのようですが……」


 二人は本に挟まっていた切れ端のようなその紙を覗き込んだ。


「ええと、〝願わくは、血にて裁かしむことなかれ〟……?」

「これは……」


 二人は顔を見合わせて考え込む。


「イドル様の筆跡ですよね?」

「そうだと思います」

「つまり、これはあの方が残した願い……でしょうか……?」


 エミールの言葉にライカも同感する。


「曽祖父様は『エルドガール法大全』を編纂した偉人ではありましたが、一方で王子殿下たちの後継争いを止められなかった人物でもあります」


 先代国王・ラウドニウドが王位に就く前の話だ。

 第一王子・エアリクトの不審死を皮切りに、エルドガールは動乱の時期を迎えた。

 第二王子・シリルと第三王子・ダリオンが王位を巡って激しく争い、一人は死に、もう一人は獄中の暮らしとなる。結局、王位は第四王子であったラウドニウドに渡った。

 法学者としては優秀であったが、<王国の天秤>として役目を果たせなかったとされるのがイドルである。


「伯爵の仕事には無関心であったと評されていますが、本当はそうではなかったのかもしれません」


 エミールは小さな切れ端を大事そうに掴んでいる。そこに書かれている文字は、今にも震えそうだった。

 ライカは曽祖父のことを想った。激化する継承争いを目の当たりにして、どれほどの苦悩を抱えたのだろうか。


「血を流すような決断をするな、とそう願っていたのでしょうね」

「ええ」


 思いがけず手に入れたイドルの本。それは彼の本心を記すものだった。


「この本、僕が持っていてもよろしいでしょうか?」


 エミールが申し訳なさそうな顔をしてライカに頼んだ。


「イドル様の本をどうしても手元に置きたくて……」

「かまいませんよ」


 ライカは首を縦に振った。


「私の屋敷には他にも直筆の本がありますので、遠慮しないでください」

「ありがとうございます! 大事にしますね!」


 年相応の表情を浮かべてエミールは喜んだ。曽祖父の書いた本を宝物のように抱える少年。その姿がライカの心を大きく揺さぶった。


――お母様やラッカス以来かもしれない。


 法律書をめぐり、誰かとこんなに話をしたのは。

 それこそが、ライカにとっては宝物のようだった。

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