少女たちの勉強会
クラシェイドの屋敷にある勉強部屋。
それはかつて、ライカが従兄弟であるラッカス・バンデルと共にセイランから法律を学んだ場所である。そこには今、三人の少女が椅子に座り、机の前に立ったライカを見つめていた。
「ではレーネ、次は『エルドガール法大全』第3編・家と財の篇・第6章第22条を読んでください」
名前を呼ばれたレーネは、手元にある紙に目を向け、そこに書かれている文章を読み上げる。
「貸与されし物を、通常の使用により消耗した場合、その補償を必要とせず。
ただし、故意または過失により消耗した場合、修復あるいは補償を行うべし」
たどたどしい口調ではあったが、一度も止まることなくレーネは長い条文を読み切った。
「ありがとうございます、レーネ。
なんのことかわかりますか?」
「長くてさっぱりよ!」
赤い髪の少女は、読むので精一杯といった感じだ。左隣に座ったカティスがくすりと微笑んだ。今日も頭に蝶の髪飾りを着けており、相変わらずよく似合っている。
「つまりですね、借りた物は適切に用いられる限り、多少の消耗はつきもので、それを弁償する必要はないということです。
レーネも木剣を貸して、返ってきた時に少し傷がついても文句は言わないでしょう?」
「それはそうね」
レーネは赤い髪を揺らしながら、大きく頷いた。
「ここで問題です。
友人から本を借りて放り投げ、壊してしまったとします。
これはどうなるでしょう?」
「それはもちろん、弁償しなくちゃ」
自信満々に答えるレーネに、ライカは人差し指を立てる。
「では、さらに問題です。
友人から本を借りて読んでいたらページが少しだけ破れてしまいました。
この場合は?」
「え?」
レーネは困ったように考え込むと、隣のカティスを見た。彼女も首を捻ってどう判断したものか悩んでいる。
「通常の使用の範囲内なので、弁償は不要だと思います」
そう答えたのは、レーネの右隣に座った少女だった。線が細く、椅子に座る様子はとても品がある。彼女の名はリリーシア・ヴァルト。コンザール伯爵フリード・ヴァルトの一人娘だ。
「正解です。リリーシアさん」
ライカはにっこりと微笑んだ。
「重要なのは故意か過失かを見極めることです。
法律は状況や行動の意図も考慮しています。
わかりましたか?」
ライカがそう尋ねると、レーネは何度も頭を上下に振った。
「わかる、わかるわ……!
あんなに頭に入らなかったのが嘘のよう……!」
そう言って彼女はライカの手をぎゅっと握りしめた。
隣でカティスも同意する。
「本当にわかりやすいですわ、ライカ。
挙げてくださる例が私たちに想像しやすいものばかりで、すっと理解できます。
――それにこのお手製の資料」
カティスは机の上に置いていた一枚の紙を手に取ると、大切そうに持ち上げた。
「ええ、全く。
大事なところが的確にまとめられているだけでなく、驚くほど見やすい美しい文字……」
リリーシアが目を細め、同意する。
彼女たちが手にしているのは、ライカ直筆の資料だった。流れるような文字が難しい法律用語を単純明快に解説しており、ライカの達筆ぶりが遺憾無く発揮されていた。
また、所々に図を用いることで、法律に対し苦手意識が強かったレーネの先入観を払拭することに成功したようだ。
「教える才能があるよ、ライカネル」
「ありがとうございます」
ライカは照れたように笑った。誰かに教えるのは初めてだったため、上手くいくか自信がなかったのだ。
「ところで、リリーシアの家は大丈夫なの?」
「まぁ、なんとか」
リリーシアは少し気まずそうに目を伏せた。本来なら、彼女はこの場所にはいられないはずの人間だった。しかし、ライカとカティスの温情により、この勉強会に参加していた。
――どうにか立て直してほしいけれど。
三人が絡むオペラが中止されると、コンザール伯爵家の零落には歯止めがかかった。彼女の家は今、必死で再起を図っており、ライカも手助けするためにこの勉強会に呼んだのだ。噂の三人が仲良くすれば、コンザール伯爵家の評判が上向くと信じて。
「それで、今年の収穫祭にクッキーを配ろうと思うのです」
「まぁ、良いですね」
収穫祭とは年に一度、王国主導で行われる秋の祭のことだ。露店が並び、王宮では宴が開かれる。慈善活動を行う貴族もおり、リリーシアも挑戦するつもりなのだ。
ライカは気になる点を指摘した。
「ですが、それだけだとあまり目立たないかもしれませんね」
慈善活動を行う貴族は他にもいるだろう。名声を得ることが目的ならば、それに見合った計画が必要だ。
「でしたら――……」
カティスが何かを言いかけた時、部屋にノックの音が響く。
「どうかしましたか?」
ライカが扉の外に顔を出すと、侍女が静かに頭を下げる。
「コンザール伯爵子息、エミール様がおいでです」
「エミールさんが?」
エミールはリリーシアの兄であるが、勉強会に呼んだのは妹の方だけだ。
「あら、何かあったのかしら」
リリーシアも不安げに顔を曇らせた。
ライカが招き入れると、少年はにこりと微笑み、部屋の中にいる少女たちに向かって頭を下げた。
「こんにちは、皆さん。
勉強の邪魔をして申し訳ありません。
――妹に忘れ物を届けに来たのです」
リリーシアとよく似た顔立ちの少年は、そう言って羽ペンを取り出した。
「ペンなら他にもあるのに……」
リリーシアが困惑したような声を上げる。
ライカとレーネは目を合わせた。レーネが小さく頷いたので、ライカも同じように頷いて返す。エミールの意図が読めたからだ。
「初めまして、エミールさん。
ちょうど今、収穫祭のお話をしていたところです。よろしければご一緒にどうですか?」
ライカの言葉に、エミールはほっとしたような顔つきになる。彼はおそらく、妹を心配してクラシェイドの屋敷まで訪れたのだ。羽ペンを届ける振りをして。
「そのことなのですが、私もお手伝いさせていただけませんか?」
カティスの提案に、レーネはにっと口の端を持ち上げる。
「いいね! アタシもやる!」
「まぁ、レーネも一緒なら心強いですわ」
「なんだか楽しそうだもん。
――ライカネルはどうする?」
ライカはリリーシアを見つめながら考えた。ここでライカたちとコンザール伯爵家の兄妹が仲良くしていることを表に出せば、彼らにとって良いことなのではないかと。
――でも、私は命を狙われているから……。
ルーカディアスの提案を跳ね除けたライカは、いつ彼女から襲撃を受けてもおかしくない。その時、誰も巻き込まないとは言えないのだ。
「私はまだ、わかりません」
「ええ〜。参加してよ」
レーネがわざと拗ねたように口を尖らせた。
「すみません。できる限りは手伝いますので」
「これは伯爵様、ありがたいお言葉です」
恐縮した顔でエミールが頭を下げた。コンザール伯爵家の令息だけあり、とても上品な所作だった。
「それで提案があるのですが……」
活き活きとした目でカティスが提案する。頭に乗せた蝶の髪飾りよりも瞳がきらきらと輝いているのがわかる。
「シナモンクッキーにしてはどうかと思うのです」
「シナモンですか……?」
その場にいた誰もが目を見張る。
シナモンは高級な香辛料だ。そして、王国に流通するその大半を独占しているのがアレシオン公爵家だった。収穫祭でシナモンを使った商品を露店で販売するならば、公爵家の許可が必要になるだろう。
「寄付という形で贈らせていただきます」
「それでしたら……」
むしろ公爵家の支援を得た分、活動はより盤石なものになる。悪くない考えだとライカは思った。
「シナモンは高価ですから、きっと評判になりますよ」
ライカがそう言うと、リリーシアはすっと頭を下げた。
「ありがとうございます、アレシオン公女様。
無礼を働いた私にこんなに良くしてくださるなんて……」
「まぁ、頭をあげてください」
カティスはリリーシアの手を自分の手で優しく包むと、鮮やかな微笑みを浮かべた。それは、眩暈がするほどの美しいあの微笑みだ。
「上手くいくよう、頑張りましょうね」
「はい……」
二人の様子を見て、ライカはようやく安心した。リリーシアを勉強会に呼んだのは内心、不安があったのだ。けれどこうして二人は和解し、手を取り合っている。
「いい感じだけど、あんた自分のことは大丈夫なの?」
レーネの問いにライカは首を横に向け、目を逸らす。ルーカディアスのことなどレーネは知らないだろうが、何かを感じてそう言ってきたのだ。
「私のことは放っておいてください……」
窓の外から差し込む夕陽が、そんなライカを静かに照らした。
この時出会った少年、エミール・ヴァルト。
穏やかで目立ったところのない彼が、後にライカを大きく変えることとなる。




