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敵の名前

 友人との外出。

 それはライカにとって満ち足りたものだった。

 けれど良いことばかりではない。途中で何者かに襲われたのだから。

 帰りの馬車の中で、ライカとゼナイは向き合い、互いに探り合うような視線を交わす。


「……ゼナイ」


 先に口を開いたのはライカだった。


「まだ今日のことを許したわけではありませんからね」

「……悪かった」


 ゼナイは赤い頭をゆっくりと下げた。


「レーネと公女が傷つくことはまずないだろうと踏んでいた」

「敵に関係が深いと思われた可能性があります。

 カティスやレーネの家柄なら警護は十分なのかもしれませんが、それでも万が一のことがあれば、私は自分が許せません」

「すまない」


 敵も安易に公爵家や侯爵家を突つく真似はしないと思うが、それでも何をしでかすか予想できないのだ。ライカは険しい顔でゼナイを睨む。


「首謀者を捕まえられればそれで解決すると思った。

 ――俺が浅慮だった」


 ゼナイの考えは一つの正解かもしれない。ライカを囮に敵を誘き出し、速やかに捕らえる。そうすれば、怯えながら生活しなくても済むのだ。それは誰よりもライカのためだった。


「少し言い過ぎました。すみません」

「いや、俺が悪かった。せめて先に相談すべきだった」

「それは……本当ですね」


 言えば反対することがわかっていてゼナイは黙っていたのだろう。それが少し腹立たしい。レーネが言っていた〝そういうところ〟とはつまり、こういうところなのだ。


「あまり一人で何かも解決しようとしないでくださいよ」

「これが仕事だからな」

「そういうところですよ」


 ライカは大きくため息を吐き、床に視線を落とす。馬車の床板は新品のように手入れされており、埃一つなかった。


「私を攫った犯人ですが……」

「誰かわかったのか?」


 そう尋ねられても、ライカの口は重かった。ゼナイの問いにすぐ答えられるほど、彼女には確信が持てなかったからだ。


「私をすぐに殺さず、屋敷に籠るよう交渉してきました。

 <王国の天秤>の特権を狙う上位貴族ならばそんなことはしないと思います」

「確かにな」


 ならば残る理由は一つ。選王会議を混乱させるという魂胆。それは、<王国の天秤>が屋敷に籠っているだけで十分、達成できる。


「私はあの人を知っています。

 以前、カティスとオペラを見に行った時、ワーミストロン歌劇場でヴァイオネルという登場人物を演じた歌手だったからです」


 ライカは自分を攫った女性の顔を頭に浮かべる。それは心臓を冷えつかせる行為だったが、それでも服の上から手で胸を押さえつけ、彼女はじっと耐えた。


「でも、それだけではありませんでした」


 金に朱が混じったような複雑な色をした瞳。

 こちらの心の奥を覗くような、深く暗いその瞳の持ち主は。


「〝ルーカディアス王弟殿下〟」


 少女の口から小さくこぼれる。

 その名を聞いて、ゼナイは鋭い目を見開いた。


「馬鹿な」


 エルドガールではもう、聞くことのなくなったその名。失脚し、立場を追われたナザリウスの弟。

 告げた本人ですら、どこか頼りない面持ちをしている。


「……私はリオバル男爵の屋敷で、ルーカディアス王弟殿下の幼い頃の肖像画を見せていただきました」

「幼い頃のだろう? それなら……」

「おっしゃりたいことはわかります」


 路地裏で会ったあの人物は、肖像画のような子どもではなく大人の姿で、金色の髪も茶色に染めていた。その所作も、みすぼらしい平民の衣服に見合った、どこか無骨なものだった。

 けれど、どれだけ入念に隠そうとしても、本質的に変わらないものがあった。

 中性的な美貌と金色の歪な瞳。

 人を惑わすあの顔が、ルーカディアスなのだとライカに直感させた。


「証明できるものは何もありません。

 だから、これはあなたの胸の内に留めておいてください」


 そうライカが苦しそうに頼むと、ゼナイは深く頷いた。彼の表情には乱れがなく、ライカを疑っている様子は見られなかった。そのことに少女は少しだけ安堵する。


「それにしても、王弟殿下が女性とは……」


 その呟きにゼナイが首を捻る。


「俺には男に見えたが?」

「そうですか?」


 中性的な容姿だったが、ライカには女性としか思えなかった。それは、彼女自身が女性だからだろうか。


――この件についてゼナイと議論するのは避けよう。


 現時点で証明する術はないのだから。

 今度こそ不思議そうな顔をするゼナイ。ライカは話題を変えることにした。


「宝石店の襲撃はルーカディアス王弟殿下が計画したのではないでしょうか?」


 それは、強盗犯たちの反応から推測したものにすぎない。彼らが失敗したからこそ、ルーカディアスが現れたのだと、ライカにはそう思えた。


「その可能性はあると思うが……」


 仕事柄かゼナイは断定しなかった。

 宝石店の強盗犯たちは、いまだに口を割っていない。それは忠誠心によるもののようにゼナイは感じていた。そして、そんな人間は死んでも情報をもらさないことを彼は知っていた。


「ルーカディアス王弟殿下は母君の故郷であるメザーニャ王国におられるはずなんだがな……」

「それならエルドガールにいらっしゃるのはおかしいですね」


 二人は不思議そうに顔を見合わせる。王弟の身分ともなると、そうそう身柄を自由にできない。そもそも、こんな路地裏にいたのが問題なのだ。


「情報が少ないので答えは出ないでしょう」


 諦めたようにライカは上を向いた。その態度が年齢相応に子どもらしく、ゼナイはきゅっと目を細めた。


「あ、また笑ってますね」

「そんなことはない」


 そう言って視線を横に向ける彼は、団長の表情が抜けていた。穏やかなその顔を見て、ライカも思わず目を細めた。

 すっかり暮れた空には、ぼんやりと月が登り始めている。

 紫色の瞳が月を映し、きらきらと輝いていた。



 ◇



「もしかして微笑んでらっしゃいます?」


 その言葉を思い出し、彼はルビーのような赤い目を細めた。それは、ラカート宮殿でライカが襲われた後、彼女の見舞いにゼナイが訪れた際に尋ねられた言葉だった。

 <王国の長剣>ゼナイ・シルヴィス。

 青年は手に持った書類に目を通しながら、その時のことを思い出す。


――こんな笑い方に気づくのも、あいつくらいだ。


 間違った笑い方をしているせいだろうか。

 ゼナイは廊下を静かに歩きながら、少年の姿を思い浮かべる。

 昔から危険を察知する能力には長けていた。いや、もっと細かい――例えば、ちょっとした表情の揺らぎから相手の動きを読み取り、先回りして行動することができる子どもだった。

 侯爵家の跡取りとして、<王国の長剣>の後継者として、教え込まれた厳しい訓練がそうさせたのかはわからない。

 いずれにせよその能力により、ネイゼンの生誕祭の夜、ライカネルが襲われそうになったことに気がついた。――けれど、助けられなかった。

 事件の記憶を失った伯爵、ライカネル・クラシェイド。

 紫の瞳は底が見えなくなり、その果てを捉えられなくなった。見極めるつもりがこちらを深く深く映し、逆に見定められているような気さえする。けれど、邪な感情は一切ない。


――前より鮮明になっていた。


 何度か接する内に理解した。これがライカネルの本質だったのだと。記憶を失う以前は、周りのことに囚われすぎて身動きが取れず、その才に見合った役割を果たせていなかったのだ。


「正気か、ゼナイ」


 書斎の机を挟み、祖父が呆れた表情を浮かべている。

 孫から手渡された書類を見て、祖父であるバルドワンは目を疑った。そこに書いてあるのは、ライカがゼナイに提案したものだ。

 つまり、ゼナイがもし、何らかの理由で死亡した際、財産は全て弟のアイルに譲渡され、そのことに対して婚約者は異議申し立てをしないという婚姻前の誓約書である。


「一体これで誰が婚姻を結んでくれると言うのだ?」

「ならば結構」

「全くお前は……」


 バルドワンは目頭を抑えると、困ったように俯いた。もう一度、書類に目をやるが、書かれている内容は変わらない。


「エルデスの城砦にお前を連れて行くべきではなかった。

 あの時から、お前は死に取り憑かれている」

「俺はただ、自分がやらなくてはならないと思っているだけだ」

「もう十分やっているじゃないか。

 侯爵としても、<王国の長剣>としても」


 バルドワンは先々代<王国の長剣>だ。シルヴィス騎士団団長として長年、その任を務めた男である。その彼の評価にもゼナイの心は揺らがない。

 遠い目をして、ゼナイは過去の記憶を呼び起こす。


 国境に配置されたエルデス城砦。

 メザーニャ王国との戦争中、その城砦は前線より離れ、比較的安全な城として位置付けられていた。

 だから、幼きゼナイは出向いた。

 侯爵家の嫡男として後学のために。

 城砦にいる人々の士気を高めるために。

 そんな折だった。

 メザーニャに奇襲を受けたのは。

 エルデス城砦は大きな打撃を与えられ、その際にゼナイの父であり、当時の<王国の長剣>であったアーシェル・シルヴィスは亡くなっている。

 ゼナイは父の亡骸を見てしまった。


 それからだろうか。

 元々少なかった口数が減り、剣にのめり込むようになったのは。

 <王国の長剣>の特権はバルドワンに戻され、その後、ゼナイに引き継がれることとなった。その時にはもう、彼は侯爵として申し分のない人物に成長していた。


「昔は相手のことをよく考える優しい子だったじゃないか。

 ――今はあえて他人のことなど意識から外しているようだ」


 ゼナイの目は祖父を見ていたが、どこか焦点が合わない。まるで昔を思い出すように、遥か遠くを見つめていた。


「倒すべき敵を倒す。それで問題が?」

「その敵はなんだと聞いているのだ」


 バルドワンの問いにゼナイは沈黙する。答えても無駄だと言うように。


――あいつなら信じてくれるだろうか。


 そんなことをぼんやりと考えた。

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