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路地裏の影

 本屋を出ると、次は移転したルーフ・シェリス宝石店に行くことになった。これはカティスの案だ。

 ライカも宝石店のことは気になっていた。自分のせいで最初の開店を邪魔してしまったのだから。商売にどれほど影響を及ぼしてしまっただろうか。


「大丈夫ですよ」


 暗い顔をしたライカに、カティスは励ますように言った。


「順調どころか絶好調らしいです」

「本当ですか?」


 その言葉にライカの足は少しだけ軽くなる。

 通りは次第に人が増え、活気に満ちあふれてくる。この辺りは人気店が集まる場所なのかもしれない。


「少しお腹が空かない?」


 先頭を歩いていたレーネが腹を押さえる。彼女にしては元気のない声だ。


「そこに果物屋さんがあります。何か買いますか?」

「いいわね!」


 通りには噴水が流れる広場があり、そこに果物を売る露店が立っていた。カティスは貴族の令嬢としては珍しく、自ら財布を持ち歩いていたようで、取り出すために懐に手を入れた。


「おいくらですか?」


 商品を買おうと彼女が片手に財布を持ったその時、事件は起きた。

 背後から男が近寄り、その白く細い手から財布を奪い取ったのだ。


「泥棒!」


 レーネの声が響く。

 それと同時に駆け出しそうになった彼女を、兄であるゼナイがすぐさま止める。


「俺が行く。お前は公女の側にいろ」


 妹の肩を一度だけ叩くと、ゼナイはそのまま泥棒を追いかけて走り去った。

 あっという間の出来事に、ライカはただぼんやりと彼らが消えた方向に目を遣るしかなかった。――そんな彼女に、細く暗い路地から伸びる手。


「んぐっ……!」


 口を塞がれ、肩を抱かれるように路地裏へと引き摺り込まれる。買ったばかりの本がばさりと地面に散らばった。


――皆……!


 叫ぼうとした口は動かず、呼吸すらままならない。無理やり声を出そうとしているライカの喉に、細く短い刃が突き立てられる。


「静かに」


 男にしては高く、女にしては低い。そんな声だ。中性的な声はライカの耳元で囁き続ける。


「はじめまして、ライカネル・クラシェイド。

 死にたくなかったら大声を出さないでね。

 ――わかった?」


 ライカは目で理解したことを示した。


「ん、よろしい」


 短剣は喉元に突きつけられたままだったが、口を塞いでいた手が離れた。息が通るようになり、ライカは大きく呼吸をした。


「あなたは誰です? 何が目的ですか?」

「おっと、躊躇いがないことだ。

 もう少し怯えてもいいと思うんだけどね。

 色々ありすぎて麻痺しちゃったかな?」


 苦笑まじりの言葉の中に、ライカが求める答えはなかった。


「質問するのは私だ。君は答える方」


 短剣がさらに喉元に近づけられ、鋭い光を放った。少しでも大声を出せば、助けられる前に刃先は喉に食い込むだろう。


――ゼナイ……。


 怯えていないわけではなかった。けれど、そんなことよりも思考を巡らせる方を優先した。恐ろしいはずの窮地は、かえってライカを冷静にさせた。


「さて、ライカネル。一つ提案があるのだが良いだろうか?」

「提案ですか?」


 話し合いで終わるのならそれに越したことはない。ゼナイの講習でも、襲われた際は相手を刺激せず、大人しく従うようにと言い含められていた。


「屋敷に籠って他人と交流を避けるのならば、命を狙うのを諦めよう」


 簡単だろう、と誘導するように中性的な声が響く。


「あなたが計画犯ですか……? 一体、どちらの……」


 バーマン・セングを唆した者なのか、あるいは〝銀杯〟で毒殺しようとした者なのか。


「さあ、ね。どちらでも良いんじゃないかな?」


 撫でるような声が耳の奥を渦巻いた。ライカは足の感覚が薄れ、ふわふわと体が宙に浮いているような気持ちに包まれる。


「君はどうしたいかが重要だと思うんだ。

 屋敷にいれば安全だし、母親を悲しませずにすむんだよ?」


 ライカは思わず承諾しそうになっていた。相手を蠱惑するような、怪しく強かな力をその声は持っていた。


――私は今、惑わされている……?


 誰かもわからない者によって。

 ライカの安全とクラシェイド伯爵としての義務が天秤の皿に乗せられている。それは今、曲がりなりにも釣り合っていた。


――私は……。


 <王国の天秤>は背負わされた義務だ。自ら望んだわけではない。ならばこの者が提案するように安全な道を選べばいい。

 頭に両親の顔が浮かぶ。

 両親だけではない。

 先ほどまで一緒にいたカティスのはにかんだ笑顔、元気良くライカの名を呼ぶレーネの声、きゅっと細められたゼナイの目も次々と浮かんでくる。

 ヴィンス伯爵やサイリス子爵、カナレアといった、これまで関わってきた人たちから向けられた、期待に満ちた瞳も思い出された。

 昔のライカとは違う。

 彼女は繋がってしまった。

 もう、無関係ではいられないのだ。


――私が<王国の天秤>だから。


 無理やり与えられた特権だった。けれど、今は投げ出したいとは思えなかった。いつか、誰からも認められる日が来るようにと願うことができた。


――ここで逃げたら私は二度と、皆に顔を合わせることができないだろう。


 ならば答えはひとつ。

 ライカは躊躇うことなく告げた。


「その提案を受け入れることはできません」


 道は決まった。

 それは彼女たちだけが知っている。

 近くで人々が行き交う喧騒が聞こえた。けれど、この路地裏は時が止まったかのように静かだった。


――背後から刃物で襲われた時は……。


 ゼナイによる護身術の説明を思い出し、ライカの気持ちは奮い立つ。

 相手に悟られないように呼吸を整えると、短剣を持つ手を払いのけ、体を大きく左右に揺さぶる。ライカを抑えていた手が緩んだ隙に下へとしゃがみ込み、拘束から逃れ出る。相手に向き合うように旋回しながら立ち上がると、懐から買ったばかりのナイフを取り出した。


――ここで大声を……!


 けれど、ライカの喉から声は出てこなかった。

 目の前に立った人影。

 あまりにも美しいその顔に見つめられ、硬直してしまったのだ。

 輝くような金色の瞳がライカを捉えている。朱が混じる複雑な色合いをしたその双眸は、決して逃さないと言うように、じっとりと少女を見下ろした。

 薄らと記憶が重なるような感覚をライカは覚えた。


――私はこの人を知っている……?


 ライカは何かを思い出そうとした。けれど、思考はすぐに妨げられる。


「悲しいよ」


 大袈裟に残念がる顔は、男のようでも女のようでもあり、ただただ美しく整っていた。背はセイランより少し高いくらいだろうか。肩幅もそれほど広くない。


「提案に乗る気はないと言うことだね?」


 相手の佇まいが、表情が、ライカの体から自由を奪った。


「あなた……はじめましてじゃありませんね……?」


 ふと、相手の顔を見てライカは思い出す。ワーミストロン歌劇場のオペラで、ヴァイオネルの役を演じていた歌手だった。


「ああ、よくわかったね」

「顔が一緒じゃありませんか」


 ふふっと、声がもれる。木の葉が擦れ合うような、爽やかな笑い声だ。


「口調、表情、服装、仕草。

 そういったものが全く違うと気付かないものだよ。

 ――普通はね」


 そう言って満面の笑顔を讃えると、ヴァイオネルがするように大きくお辞儀をした。それは確かに別人だった。


「公演は中止になったよ。君、何かした?」

「どうでしょうね……」


 後ずさることもできず、ライカはその場に立ち尽くす。

 走って逃げる。

 基本中の基本だと言われたその動作ができず、彼女は絶望に飲まれていた。


「大丈夫、まだ殺しはしない。

 ――舞台を用意しよう。とっておきの」


 怯えるライカに手を伸ばし、美麗な顔を近付けた。

 そこでようやく、相手が女性なのだとライカは理解した。


「女性、ですね?」


 その言葉に、初めてその完璧な顔に不快な感情を浮かべた。美しい笑顔が不気味に歪み、ライカは体の芯がすっと冷えた。

 重く冷たい沈鬱な空気の中、彼女は短剣を持ち直すとライカにゆっくりと近づく。

 殺意を感じたものの、依然としてライカは動けなかった。


「――離れろ!」


 二人の間に何かが割って入った。

 ゼナイがライカの肩を引っ張り、守るようにその中性的な顔立ちをした女の前に立ち塞がったのだ。

 尻餅をついたライカは、赤髪の男の背を下から見上げた。よく鍛えられた腕が剣を持ち、女に向けられている。言葉を交わすこともなく、剣は振り上げられた。

 しかし、ゼナイの剣を受け止めたのは女ではなく、フードを目深に被った別の人影だった。恰幅からして男だろう。ゼナイと同じくらいの背格好だ。

 交差した剣と剣は拮抗し、じりじりとせめぎ合った後、互いに弾き飛ばす。体勢を崩すことなく再び刃は交わり、金属の触れ合う音が木霊した。

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